桜宮高校バレー部顧問の体罰隠蔽は学校の主役が生徒であることを忘れた学校組織温存の責任回避

2013-01-11 12:19:22 | Weblog

 先ず最初に断っておくが、“隠蔽”という行為には二種類あるはずだ。気づいていながら、あるいは半ば疑いながら、気づかない振りをして事実を突き止めようとはしない、いわば事実を明らかにせずに隠す隠蔽と、実際に起きた事実を隠す二種類である。

 隠してはならないことを隠す隠蔽だから、どちらも責任回避行動であるはずだ。

 国家の主役が国民であるように学校の主役は児童・生徒であるはずだ。国家が国民の生命・財産を守ることを第一意義の役目としているように学校は児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義の役目としている。

 これは理想論かもしれない。だが、そのような学校社会であるべく努力することを学校運営者たる校長と教師たちは責任を負っているはずである。例え学校側の児童・生徒に対するあるべき生命(いのち)の育みに協力しない児童・生徒が存在したとしても、彼らをあるべき生命(いのち)に持っていくべく最大限の努力をする責任を免除されているわけではないはずだ。

 だが、学校内にイジメが起きたり、イジメが原因で児童・生徒を自殺に追いやったり、教師の体罰が原因で怪我や死に至らしめたり、あるいは教師の体罰を児童・生徒に自殺の動機とさせたりする危機管理上の失態が世間の目に触れることになると、学校は児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義の役目とした組織ではなく、自らの責任回避を通して学校そのものを守ることを第一意義としていた組織であることが露わとなる。

 このことは以下の記事が如実に教えている。

 一つ目は、《バレー部体罰を隠蔽、校長が報告せず…桜宮高バスケ部主将自殺》スポーツ報知/2013年1月11日06時03分)

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の顧問教師が部のキャプテンである中2男子に恒常的に体罰を加えて、男子が自殺した。しかし体罰はバスケットボール部だけでではなく、バレー部の顧問教師も部員指導の手段としていたことがこの程発覚した。

 バレー部顧問男性教師(35歳)、2011年9月、6人の部員に平手打ちなどの体罰を1年4か月間に亘り約250回繰返したとして停職3か月の停職処分。2012年3月に復帰。

 同顧問、停職解除3月から8カ月後の2012年11月、部員の頭を平手でたたく体罰。佐藤芳弘校長は体罰を把握しながら、市教委に報告していなかった。

 バスケットボール部キャプテンの中2男子生徒が部顧問の体罰を原因として11月23日(2012年)に自殺したことと大阪市教育委員会が調査に入っていることがマスコミに知れた1月8日の翌日の1月9日、市教委は他の部も体罰を指導の手段としていないか調査したのだろう、バレー部の顧問に聞き取りを行ったが、顧問は行なっていないと否認。だが、1月10になって、体罰の行使を認める。

 佐藤校長が10日夜に記者会見。

 佐藤校長(バレー部顧問の体罰を把握していながら、市教委に報告しなかったことについて)「(バレー部顧問の)将来的なことも頭をよぎり、報告すると重い処分になるのではと心配した」

 記者「生徒の将来のことは心配しなかったのか」

 佐藤校長「甘かった」

 記者「11月に調査していれば、(12月の)バスケット部主将の自殺を防げたのでは」

 佐藤校長「結びつくことはなかったと思う。きちんと措置すべきだった」――

 「(バレー部顧問の)将来的なことも頭をよぎり、報告すると重い処分になるのではと心配した」という発言は体罰を手段とした指導が生徒の人格や主体性を阻害する悪影響に対する教育的配慮よりも、顧問の身分を守ることを優先させていることが分かる。

 不祥事や失態、最悪犯罪を犯した教員の校長による、それら不始末の隠蔽を手段とした身分の保守は人事の管理責任者たる校長の責任を同時に隠蔽する行為であり、自らの責任を隠蔽することによって校長としての身分の保守を行ったのである。

 いわば、「報告すると重い処分になるのではと心配した」とバレー部顧問の身を案ずるようなことを言っているが、隠蔽は自身の責任も問われて何らかの処分を受け、自らの経歴に傷がつくことを恐れた責任回避を実態としていたのである。

 このような責任回避行動からは児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育むことを第一意義の役目としなければならない学校の姿は見えてこない。見えてくるのは第一番に自身を置いているのだろうが、自身と共に運営構成員である教師を守ることによって結果として学校組織を守ることになる姿のみである。

 前任の校長も現校長と同じく、児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育むことを第一意義の役目とはせず、責任回避を第一意義の役目とし、結果として学校組織を守ることとなっていた。

 隠蔽は学校を守るためだと自分に言い聞かせていたとしても、実質は自身の責任回避が出発点となっているはずだ。

 《顧問教師 “指導方針理解得ている”》NHK NEWS WEB/2013年1月10日 18時27分)

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部顧問教師が部員に対して体罰を行なっているという情報が2011年9月に学校に寄せられた。学校側は顧問に対して聞き取り調査をした。

 顧問教師「体罰は一切ない。トラブルもない。保護者会を年に数回開いているので、問題があれば、その場で情報が寄せられる。保護者には自分の指導方針を理解してもらっている」

 調査は15分程で終了、部員なり、生徒なりに対する聞き取り調査を行わなかった。

 いわば顧問の否定を鵜呑みにし、その言葉に正当性を置いた。この鵜呑みした事実を学校は市教委に報告。市教委はその報告を了承し、追加の調査を求めず、幕引きとした。

 前任校長(NHKの取材に)「生徒に直接、聞き取り調査することは当時、考えもしなかった。今となっては大変申し訳なかったとしか言いようがない。今回の自殺は防げた可能性があり、本当に後悔している」――

 もし学校は児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義の役目としているという責任意識を教師時代から校長となった当時でも自らの行動様式の基準としていたなら、顧問の言い分のみを以って体罰の有無に判定を下す不公平を犯さず、部員なり、生徒なりに対しても聞き取り調査を行なって体罰の有無に判定を下す公平な判斷を心がけただろう。

 だが、「生徒に直接、聞き取り調査することは当時、考えもしなかった」と言い、生徒に対する教育的配慮の視線を排除している。

 顧問の言い分が正しいのだろうかと疑い、その正否を生徒側の言い分を以って証明して初めて生徒に対する教育的配慮の視線を担保することができる。担保すること自体が児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義とする役目行動とすることができる。

 前任校長がこのような役目を自らの第一番の責任行動としていなかった以上、児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守る点であってはならない教師の体罰として扱ったのではなく、学校組織を守り、校長の責任を守る点であってはならない体罰として扱ったからこそ、顧問の聞き取りとその否定のみで判斷を下した、校長の責任回避行動であったはずだ。

 大河内清輝くんのイジメ自殺事件でも、学校は彼の顔にアザがあるなどのイジメの状況を様々に把握していながら、本人に尋ねてイジメを否定すると、深くは追及せず、学校内設置の「いじめ・登校拒否対策委員会」で顔のアザなどを話題にしたものの、本人の否定を優先させてイジメか否かのレベルで議論せず、ついには自殺に追いやってしまった。

 学校教育者でありながら、イジメられている子が自尊心やイジメている子からの報復を恐れてイジメを否定するという、ごく当たり前の心理さえ弁えることができないままに生徒に相対していた。

 児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守るということを第一意義の役目としていたなら、弁えることができていた心理であったはずだ。

 大津中2イジメ自殺事件でも、女子生徒等がイジメの現場を目撃して教師に報告しながら、本人がイジメではないと否定すると、そのまま放置し、遂には自殺に追いやることとなった。

 教師たちは、校長をも含めて、自らの責任行動としなければならない、児童・生徒に対する第一意義の役目を知らず知らずのうちに希薄化させ、自身の経歴をキズつける責任問題の浮上だけを恐れて平穏無事に職を全うさせることを第一番の役目とする、触らぬ神に祟りなしの責任回避の行動を優先させていたのである。

 一見すると、校長・教師たちの個々の行動には見えても、相互性を取ることによって、責任回避行動が暗黙的に組織全体の性格とすることになる。結果としてそれぞれの責任回避行動が組織を守る行動としての相互性をも帯びることになる。

 その有効な手段が隠蔽という行為であり、イコール責任回避行動の組織全体に於ける蔓延ということであるはずだ。

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