断っておくが、“人命優先”を否定しているわけではない。“人命優先”は最大限尊重されるべきことであることは言うまでもない。
だが、“人命優先”の価値感・人権意識は万人共通というわけではないことも厳然たる事実として否定し難く横たわっている。
“人命優先”の価値感・人権意識を世界に向けた場合、届く範囲には限界があることを認識していなければならない。認識することから、国家の危機管理は始まる。果たして安倍首相は今回のアルジェリアでのイスラム武装勢力による邦人人質事件で、このことを厳格に認識していたのだろうか。
イスラム武装勢力が日本時間1月16日(2013年)午後2時頃、アルジェリアの天然ガス関連施設を襲撃、そこで働くアルジェリア人や外国人を含む邦人を人質として、施設に立てこもった。
事件を受けて、安倍首相は日本時間の1月17日午前9時過ぎ、訪問先のベトナムで記者団に次のように発言している。
《安倍首相 政府対策本部設置を指示》(NHK NEWS WEB/2013年1月17日 10時8分)
安倍首相「こうした行為は断じて許すことはできない。
きのう第一報を受けて、人命第一で対応すること、事態の掌握に努めること、関係国と連携を密にすることの3つのことを指示した。菅官房長官とは緊密に連絡をとっていて、先程も電話で近況の報告を受けた。
政府の対策本部を立ち上げ、私の不在中は、麻生副総理が本部長として対応するよう指示した。その後、麻生副総理に電話をして、本部長として万全を期すよう指示した」
記事付属の動画では、実際の発言は次のようになっている。
安倍首相「先ずこうした行為は断じて許すことはできないということを申し上げたいと思います。
えー、昨日は第一報を受けまして、えー、三つのことを指示を致しました。第一に、人命第一に対応するように。第二に、事態の把握・掌握に努めるように。第三に関係国と、えー、連携を密にするように、ということで、になります。
えー、官房長官とは緊密に連絡を取っております。その際、えー、政府に於いて、えー、対策本部を立ち上げるよう、指示を致しました」――
先ず第一番に「人命第一で対応すること」と、“人命優先”を菅官房長官に指示している。
だが、直接交渉者は日本政府ではない。直接交渉者はアルジェリア政府である。アルジェリア政府がテロリストと交渉しないという姿勢を堅持していることを安倍首相は情報として得ていたはずだし、得ていなければならない。
交渉しないということは、例え武装勢力が人質解放に条件をつけて要求項目を掲げたとしても、基本的にはそれを無視した武力制圧による治安優先、そのためにはときには“人命優先”を犠牲にする国家危機管理をタテマエとしていることを意味する。
そのような国家危機管理を体制としているアルジェリア政府当局が“人命優先”の価値感・人権意識をクスリにもしない人間集団であるイスラム武装勢力を相手に対峙するということになれば、“人命優先”はかなり危機的状況に曝されることになる。
かと言って、日本政府が直接交渉者となれないのだから、“人命優先”を日本政府自身がイスラム武装勢力相手に直接的に機能させることも不可能である。
日本政府が直接交渉者であると仮定したとしても、“人命優先”の価値感・人権意識に拒絶反応のイスラム武装勢力相手では十分な機能は至難の業となる。
こういった状況に陥るだろうということは安倍首相にしても早い段階から予想できていたことでなければならない。
予想できていたなら、“人命優先”の危機的状況の打開はテロリストとは交渉しないとしている直接交渉者のアルジェリア政府当局に交渉しないとしている旗を降ろして貰い、武装勢力が要求している条件について話し合って貰うしかない。
武装勢力の要求が例え呑めない条件であったとしても。
だとすると、安倍首相は菅官房長官に対して「人命第一で対応すること」と指示を出すのではなく、アルジェリア政府に対して“人命優先”を直接働きかけるべきではなかったろうか。既に断っているように、日本政府は武装勢力に対して“人命優先”を直接関与できないのである。
菅官房長官「安倍総理大臣の指示に基づき、関係する当事国に対して、外務省を通じた電話会談なり、さまざまな方策で、人命を第一とする日本の意向を伝えて、そのことが実現するよう外交努力を続けている」(NHK NEWS WEB/2013年1月17日 18時11分)
首相ではない官房長官が「関係する当事国」に向かって“人命優先”を訴えたとしても首相が直接行うよりもインパクトは弱いはずだ。
《【アルジェリアの邦人拉致】菅義偉官房長官会見詳報》(MSN産経/2013.1.16 21:51)
菅官房長官「アルジェリアにおいて現地邦人企業の社員数名、今、確認中でありますけれども、武装集団により拘束、人質になっているという情報があり、現在確認を急いでおります。
なお人数にいては複数の異なる情報があります。政府としては、第一報を16時40分に受けまして、外務省において(上村司)領事局長を長とする対策室を立ち上げるとともに、官邸においては17時に内閣危機管理監を長とする官邸対策室を立ち上げました。本件が人質事件であることから、その性質上これまで非公開扱いとしてきたことをご理解をいただきたい。
――中略――
外国訪問中の安倍総理には私から20時30分、電話で改めて報告をしました。総理への第一報は16時50分。その際、総理からは以下のご指示を頂きました。まず第1に被害者の人命を第一とした対処をすること。情報収集を強化し、事態の掌握に全力を尽くすこと。当事国を含め関係各国と緊密に連携をすること。人質事件であるという事案の性質上、現時点ではこれ以上の具体的内容については差し控えをさせていただきたい」
安倍首相は菅官房長官から事件の第一報を1月16日の16時50分に受け取っている。そしてアルジェリアのセラル首相に直接電話したのは、日本時間の1月18日午前0時30分から15分間であった。1日と7時間以上経過している。
既にアルジェリア政府は武力鎮圧の攻撃を仕掛けていた。
《首相 攻撃控えるよう電話で要請》(NHK NEWS WEB/2013年1月18日 1時47分)
記事――〈タイを訪れている安倍総理大臣は、アルジェリアのセラル首相と電話で会談し、日本人を含む複数の外国人が拘束された事件の人質を解放するため、アルジェリア軍が攻撃を開始したことについて、人質の生命を危険にさらすような攻撃は控えるよう要請しました。
電話会談は安倍総理大臣の呼びかけで行われたもので、日本時間の18日午前0時30分から15分間行われました。〉――
安倍首相「アルジェリア軍が軍事作戦を開始し、人質に死傷者が出ているという情報に接している。人命最優先での対応を申し入れているが、人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」
セラル首相「相手は危険なテロ集団で、これが最善の方法だ。作戦は続いている」
安倍首相「解放された人質の国籍など具体的な情報を知らせて欲しい」(この箇所のみ解説文を会話体に直す)
セラル首相「作戦は継続中で確認できない」
安倍首相「とにかく日本人を含め、人質を全員無事に保護してほしい」
セラル首相「最善の努力を尽くす。必要に応じて、アルジェリアにいる城内政務官に情報を入れるようにしたい」――
安倍首相は自身が直接申し入れたのではない、現地派遣の城内外務政務官が申し入れたのか、他が申し入れた「人命最優先での対応」が、既に攻撃が開始しているというのに未だ生きている要請と把えて、しかも元々必要に応じて“人命優先”を犠牲にしたとしてもテロリストとは交渉しない、武力制圧優先・治安維持優先をを国家危機管理の基本姿勢としているアルジェリアの首相に対して、「人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」と後付けにしかならない申し入れを行なっている。
この遅過ぎた安倍首相の国家危機管理は何と説明したらいいのだろうか。
要するに安倍首相は“人命尊重”を口で言ってるだけに等しかった。
また、イスラム武装勢力の人質解放の条件の一つが隣国マリでのフランスの軍事介入停止の要求である。これはアルジェリアにしてもフランスにしても到底呑めない要求であろう。呑めないから、フランス政府は公式の反応を示さなかった。呑んで、フランスが軍事行動を停止したなら、軍事行動自体が意味を失い、弱腰と見られて、嘲笑の対象となるだろう。
いわば武装勢力がマリからのフランス軍の撤退を求めた時点で、フランス政府にしてもアルジェリア政府にしても、“人命優先”の犠牲を止むを得ないと見ていたはずだ。
後は制圧が終了した時点で、人質を生存した状態で何人救出できるか、結果次第としていたに違いない。だから、人質がどこにどのような状態で閉じ込められているか探索できないヘリコプターによる空からの攻撃ができた。
“人命優先”なら、地上部隊が突入して、人質を目で確かめつつ救助しながら、施設内を展開、武装勢力を追いつめていくはずだ。
そのようにも“人命優先”が危機的状況に置かれていたと見る、あるいは置かれることになるのではないかと疑うだけの認識が安倍首相になかったとしたら、その国家危機管理は未熟としか言いようがない。
安倍首相は集団的自衛権行使容認の憲法解釈見直しに意欲を見せている。しかも2007年設置の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」検討の4類型に関して訪問先のタイで次のように発言して、集団的自衛権行使の対象拡大を狙っている。
安倍首相「4類型で十分なのかも含めて、もう一度議論してもらいたい」(asahi.com)
4類型とは――
(1)公海上での米艦船への攻撃への応戦
(2)米国に向かう弾道ミサイルの迎撃
(3)国際平和活動をともにする他国部隊への「駆けつけ警護」
(4)国際平和活動に参加する他国への後方支援
当然、対象を拡大した集団的自衛権の行使と共に日本はイスラム武装勢力の攻撃対象となる可能性が生じる。日本の自衛隊が集団的自衛権行使で海外で戦闘活動を行うに伴って、それを阻止するためにイスラム武装勢力が日本の民間人を特定して襲撃、人質にして解放の交換条件に自衛隊の撤退を求めるといったことが勃発した場合、日本の国家危機管理はどういった態度を取るのだろうか。
“人命優先”を最優先に掲げて、他国部隊を見放し、撤退したなら、日本の集団的自衛権の信用を失う。
では、日本の集団的自衛権の信用を守るために、人質邦人の“人命優先”を放棄、何人助かるかは結果論次第として、襲撃地の政府当局にテロリストとは交渉せずの武力制圧に任せるのか。
どちらかを絶対とすると、どちらかを放棄することになる。
また、国民がどちらを絶対とするかも選択の重要な条件となる。
国民が“人命優先”を絶対とした場合、武装勢力を相手に人質解放の交渉当事者となったとき、国家権力の立場から、集団的自衛権行使を揺るがせにすることもできず、“人命優先”を言っているだけでは済まない冷徹な外交判断が求められることになる。
だが、今回のアルジェリアでの人質事件で発揮することになった安倍首相の未熟な国家機危機管理の手腕から判断すると、集団的自衛権の信用を守ることと“人命優先”の価値感・人権意識を守ることの兼ね合いはさして期待できないように思える。
また、そういった当事者に立たされる最悪の場合を前以て想定して、覚悟しておくことも安全保障上の国家危機管理の一つだが、今回の安倍首相を見る限り、覚悟しているようには見えない。