体罰指導では部活は強くはならないことをプロ野球と大リーグの比較から見る

2013-01-27 11:16:40 | Weblog

 

 2013年1月22日の当ボログ記事――《橋下徹は独り善がりの大バカ者だ/素晴らしくも何ともない桜宮高体育科入試中止決定 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、部活に於ける体罰指導よりも、個々の部員・生徒の主体性に任せる指導が優れた才能を育てるからと、体罰を直し、適正な指導へと持っていく方法を書いた。

 〈部活顧問に体罰禁止・体罰を用いない指導を誓約させ、部活顧問と部員生徒を役目上は上下関係にあるが、意見を言い合うという点で、いわば人権上、対等な関係にあると規定する。

 部の運営はお互いに知恵を出し合って、それを意見の形に変え、各部員の基礎体力向上、技術面の向上、各練習の時間配分等、強いチームとするための提案を行なう。

 部活顧問が提案して一方的に従わせるのではなく、顧問の提案に対して各部員が意見を言い合い、部員の意見も顧問を交えて議論し、最終的に多数の同意を以って決める。「じゃあ、そうしようか」と。

 練習後、練習試合後、本試合後のミーティングに於いても、部活顧問が一方的に指示を出して従わせるのではなく、部員生徒と対等の立場で意見を言い合い、最終決定する。

 こういった部運営が実行されているかどうか、学校は時折り検証する。実行され、それが継続性を保つことができたとき、練習に向けた生徒の主体性は確立する。

 但し、チーム自体の成績は落ちるかもしれない。だが、主体性を確立した生徒程、持って生まれた運動能力次第で才能は伸びていくはずだ。

 例え持って生まれた運動能力に恵まれていたとしても、主体的に自分から動くのではない、体罰等、他からの強制を動機づけとする行動にスポーツであれ、学校の勉強であれ、優れた才能への向上は望めないはずだ。

 当然、体罰によって勢いをつけたチームは、生徒それぞれが自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度(=主体性)に恃(たの)んだ自力からの力によって成績を成り立たせるわけではないから、全体の力で一時的には好成績を上げるだろうが、勢いがある間は良しとしても、一進一退の状況となって、その状況を打開するために生徒それぞれが考えてプレーしなければならなくなったとき、自分から考えて主体的にプレーする習慣を持たない場合、力は長続きしないことになる。

 いわば体罰を介在させて能力・技術を伸ばそうとする指導は部員それぞれが主体的に伸ばす力を逆に抑えることになる。

 その場その場の成績だけに拘ると、生徒の主体性に任せるより、自分の指導を押し付ける方法が手っ取り早くなって、それが思うように行かないと、体罰や罵声に頼ることになる。

 結果として体罰や罵声が延々と続くことになるのは現実が教えている。

 以上言ったことは、部活動は勝利を目的とするのではなく、人間形成・社会性形成の教育の一環へと目的を変え、勝利はあくまで結果と見做すということである。〉云々――

 では、実際に体罰指導、あるはそれに類似したシゴキ指導が効果があるのか、日米野球を比較しながら、考察してみる。アメリカの高校野球、大学野球、大リーグの具体的情報はインターネットから得た。

 以下のことは元々広く言われていたことだが、アメリカの高校野球にしても大学野球にしても、全体的な練習時間は2~3時間程度で、基礎的な練習が多く、「バッティングの時間が極端に少ない」という記述もある。

 後は自主練習だそうだ。

 自主練習が何時間程度なのか、いくら探しても拾い出すことができなかった。監督や部顧問が課す全体練習と比較して自主練習は一般的に短時間という固定観念から、誰にも分かることとして時間を書かなかったのかもしれないが、そこに情報の不備があるように思える。

 勿論、自主練習であるから、それぞれが課題とする技術に関して集中的に練習するということだから、選手によって時間の長短があるだろうが、大体の平均時間というものがあるはずである。

 もし全体練習が2~3時間で、自主練習がそれを超える時間を費やすとしたら、「全体練習が2~3時間でも・・・」という書き方をするはずだから、常識的に考えて、1時間程度以内といったところではないだろうか。

 HPの一つに、「自主練習は他人に合わせるのではなく、自分のことは自分でといった自己管理能力がアメリカ野球の基盤になっているのです。ただし、結果が出るか出ないかも自己責任というシビアな面もあります」との記述があるが、要するに部活顧問や先輩といった上からの強制ではなく、あくまでも自分の意志からの主体性に任されているということを意味している。

 【主体性】「自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度のあること」(『大辞林』三省堂)

 【自主】「他人の保護や干渉を受けずに自分の判断で独立して行動すること」(『大辞林』三省堂)

 「自主性」とは、「他人の保護や干渉を受けずに自分の判断で独立して行動する態度のあること」ということになる。

 「主体性」と「自主性」はほぼ同じ意味だが、「自主性」は行動することによりウエイトが置かれていて、「主体性」は行動する主体(=私)によりウエイトが置かれていると、私自身は解釈している。

 如何なる行動も責任は伴うが、「主体性」が「みずから責任をもって」と、責任意識を自覚的に要求しているのは、行動を対象に置いているよりも、あくまでも行動する主体を問題としているからであろう。

 上記紹介した「結果が出るか出ないかも自己責任というシビアな面もあります」と言っていることは、単に自発的に練習すれば済む「自主性」というわけではなく、自主行動の結果に対する責任をも負う、本人の「主体性」を問題にしているということであろう。

 日本の中学野球にしても高校野球にしても練習は放課後からボールが満足に見えなくなる暗くなるまで続けて、中学校はともかく、高校の場合は多くの学校がナイター設備を持っていて、ナイターをつけてまでしてハードな練習を課す。 

 全体練習が終わると、下級生は上級生の命令でホームベースから1塁ベース迄の白線から2~3塁間の白線までの往復のウサギ跳びを20回、30回とやらせられたり、グランドを20周、30周と周回させられたりする。

 それ程迄に長時間徹底的にしごかれるのに対してアメリカの高校野球や大学野球は2~3時間の練習時間という差から判断して、中高野球部、さらに大学野球部からプロ野球に進んだ選手がアメリカの大リーブの選手に対して練習時間と練習内容の過酷さに比例した優秀な能力を獲得しているのだろうか。

 単純計算しても、日本のプロ野球選手の方が大リーグ選手よりも2倍3倍、あるいは4倍の能力を発揮していなければならない。

 だが、現実には日本のプロ野球から大リーグに進んだ選手で現在活躍したと言えるのは野茂投手、松井秀喜選手、イチロー選手ぐらいのもので、レッドソックスに入った松阪大輔は2007年15勝12敗で、勝ちはしたが負け数が多く、2008年、日本人シーズン最多となる18勝3敗と いう好成績を上げたが、肘を痛めたり故障がちとなり、200年4勝6敗、2010年9勝6敗、 契約最終年の2012年1勝7敗、FAとなって、まだチームが決まっていない。

 要するに長続きしていなくて、先行きの活躍は至って不透明となっている。先発投手として試合に出る前のブルペンの投球は大リーグでは、投手の肩は消耗品という考え方から投球制限をかけているということだが、松阪は「球数多く投げ込んで肩を整える」ことをスタンスとしていて、球団から許可を貰って、100以上投げ込んでいたという情報がある。

 日本のプロ野球が中5日の登板に対して大リーグは試合数も多く、中4日の登板の常識に反して自分から自分の肩に必要以上の負荷をかけ、結果的に自滅した。

 何日か前の当ブログにアメリカ人女性スポーツ選手の発言として、「日本のスポーツ選手は練習がハード過ぎて、選手生命を自分から短くしている」といったことを紹介したが、松坂大輔はまさにこの言葉を地で行ったと言える。

 ダルビッシュ・有は1年目は大活躍したが、2年目以降も活躍を維持、野茂と同等、あるいはそれ以上に力を発揮して、大リーグで活躍した数少ない日本人選手の仲間に入れるかかは今後にかかっている。

 日本のプロ野球から大リーグに進んで活躍した選手が少ないのに対して大リーグから日本のプロ野球入りして活躍した選手は現在でもたくさんいる。しかも殆どが大リーグで使い物にならなくなった選手か、活躍を期待されなくなった選手である。

 もし日本のプロ野球の方が大リーグよりも能力の点で優秀であるなら、プロ野球入りした元大リーグ選手は殆ど全員が使い物にならない期待外れの評価を得ていなければならないはずである。

 だが、少なくない選手がエースとして活躍し、4番等の中心打者として活躍している。

 勿論、日本のプロ野球でも使い物にならないで馘を切られた元メジャーリーガーが活躍した選手の2倍3倍と存在するが、彼らにしても大リーグで使い物にならなくなった選手か、活躍を期待されなくなった下り坂の選手であって、ある意味当然の場面としなければならないはずだが、一方で日本のプロ野球で活躍している元大リーガーの数から比較して、やはり大リーグの能力を日本のプロ野球の上に置かなければならない。

 そして忘れてはならないのは、既に触れたように、大リーガーの選手の能力は高校大学で2~3時間の全体練習と短時間の自主練習で基礎技術を培って得た能力であるのに対して、日本のプロ野球選手の能力は放課後から暗くなってまでのハードスケジュールの練習に加えて体罰を受けたり、罵声を浴びせられたり、たるんでいるからと過度な千本ノックだ、ウサギ跳びやランニングだといった体罰紛いの懲罰を与えられたりして培った能力であって、にも関わらず存在するプロ野球、大リーグそれぞれの場に立った場合の両者間にある活躍の差だということである。

 日本人の多くはこれまで2度行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で2度とも日本のプロ野球の代表チームが優勝していることから、大リーグのとプロ野球の能力は同程度となったと見ているようだが、私自身はWBCが短期決戦だから、優勝できたのだろうと見ている。

 これが一シーズンといった長丁場なら、先ず優勝は難しくなるはずだ。

 プロ野球で「考える野球」がワンシーズンのテーマになることが証明しているように、主体性を持って自分から判断して動くのではなく、上の判断に従って、その判断通りに命令・指示を受ける形で動くことに慣らされ、能力を発揮する、いわば他者に従う行動性の日本人選手と、短い練習時間で能力を伸ばすも伸ばさないも自身の主体性と責任にかかっているという自己責任の精神的タフさを求められる環境で育った、いわば自身の判断に従う行動性の大リーグ選手とが長丁場で対峙したとき、どちらがより強いメンタルを発揮するか、どちらがより高い能力を発揮するか、明らかである。

 決して体力だけの問題ではないはずだ。

 体罰や罵声といった身体的・心理的強制力による従属性の育みでは真の能力は期待できないということである。自身の判断による主体性を持たせた練習の積み重ねが、外からの強制ではない、内側からの能力の開花に力を与え、心身共に強靭な選手を育て上げる。このように考えて行動すること自体が練習時間を短時間に持っていくことになる。

 このことは暗記教育についても言うことができる。

コメント (1)
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