立憲主義とは政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていて、その統治が憲法に基づくとする概念を言い、立憲主義に立った憲法の本質は国民の基本的人権の保障を目的とし、その目的のために国家権力の恣意的行使を拘束・制限して権利・自由の保障を図るところにあるとされている。
と言うことは、憲法の1条1条が国家権力の恣意的行使の拘束・制限を謳い、国民の権利・自由の保障を原理としていることになる。
日本国憲法に於いても然り。例外ということはあるまい。
と言うことは、「日本国憲法 第2章 戦争放棄 第9条 戦争放棄、軍備及び交戦権否認」の「(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇叉は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の条文にしても、国家の権利としてではなく、国民の権利として存在し、国家権力がこの権利を侵す如何なる恣意的行使も拘束・制限する足枷として存在していることになる。
だから、「日本国憲法 第2章 第9条」は、「日本国民は」と、日本国民を主語とした。
逆に言うと、「日本国民は」と日本国民を主語とすることによって、「日本国憲法 第2章 戦争放棄 第9条」は国家の権力としてあるのではなく、何よりも国民の権利して存在することを明記したことになる。
いわばこの条文を変更することも、この条文に限らず、日本国憲法そのものを改正することも、その権利所有者である国民の意志に従わなければならないということであって、その方法によらずに国家権力が勝手に変更も改正もできないということを意味する。
日本国憲法、特に「第2章 第9条」がこのような概念を基本とした構造にあることは私が改めて言うことではなく、多くが既に理解し、周知の事実としていることだが、改まってここに取り上げたのは、その権威や合法性が憲法の制限下に置かれていて、憲法に基づく統治を義務づけられている国家権力がこのような原理・原則に反して、国民の選択によるのではなく、一内閣の憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使容認を謀ろうとしているのは立憲主義に反し、何よりも憲法というものが規定している国民の権利・自由の保障を無効化する国家権力の恣意的行使そのものに当たるのではないかと、改めて認識して貰いたいがためである。
憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認は安倍内閣という一国家権力に過ぎない存在が日本国憲法が規定している国民の権利・自由の保障を侵害する横暴な政治行為そのもので、決して許すことはできないということである。
この侵害を避けるためには国民の審判の役目を果たす選挙によって憲法そのものを変えるべきではないか。