天皇主義者安倍晋三の明治神宮参拝は日本国と日本国民を天皇なるもので包み込もうとする思想

2014-04-29 08:54:28 | Weblog

 

 ――大体からして、「日本国、国民の繁栄、平和と安寧」の実現を自らの全面的な政治責任行為とせずに明治神宮に祈る幼稚で時代錯誤的な政治性は安倍晋三ならではの単細胞的な発想と言わざるを得ない。

 少なくともその祈りは心の内に秘めておくべきで、他言したということは政治の神頼みを自ら暴露したことになるはずだ。――


 天皇主義者安倍晋三が明治天皇の后(きさき)昭憲皇太后没後100年に合わせて明治神宮を参拝したという。次の記事 ――《首相 昭憲皇太后の没後百年で参拝》NHK NEWS WEB/2014 年4月28日 11 時39分)から見てみる。

 4月28日午前9時、昭恵夫人を連れ立ったスーツ姿の安倍晋三は訪れていた参拝者に手を上げて応えながら境内を進み、記帳を行ったあと本殿の前にある拝殿で玉串を捧げ、2礼2拍手1礼の神道方式で参拝した。 

 神社側の説明によると、安倍晋三は「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳、私費で玉串料を納めた。

 参拝後、記者団に。

 安倍晋三「ことしは昭憲皇太后百年祭に当たり、参拝した。2年前にも明治天皇百年祭に当たり、参拝した。日本国と国民の繁栄、そして平和と安寧を祈ってきた」――

 記事は安倍晋三は総理大臣として第1次内閣の平成19年と去年も明治神宮に参拝していると解説している。

 別の記事にはこの日は1952年にサンフランシスコ講和条約が発効した「主権回復の日」にも当たると書いてある。

 NHK NEWS WEB記事には私人としての参拝なのか、公人としての参拝なのか書いていないが、他の記事には、首相周辺は「公務ではなく、私人としての参拝」と説明していると書いてある。

 玉串料は私費で収めたとしても、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳した以上、公人としての姿勢で祭神として祀ってある明治天皇と昭憲皇太后に向き合い、2礼2拍手1礼の神道方式で参拝したことになり、憲法が規定する政教分離の原則に明らかに反する。 

 「内閣総理大臣 安倍晋三」 と記帳していながら、私人としての姿勢で明治天皇と昭憲皇太后に向き合ったとは到底考えにくいし、不可能であるはずだ。

 もし私人として向き合ったのだとしたら、「私人」として「日本国、国民の繁栄、平和と安寧を祈った」ことになり、些か滑稽な情景と化す。なぜなら、祭神に祈るという行為は祈った物事の実現を祭神に願い、それをご利益とする経緯を踏むことで成立する、極めて私人的性格を有するのに対して、極めて公人として行わなければならない、一国の首相を最終責任者とする政治責任行為である「日本国、国民の繁栄、平和と安寧」の実現を私人的立場から祭神に祈ったという矛盾が生じるからである。

 「日本国、国民の繁栄、平和と安寧」の保障はまた、日本国憲法 第3章国民の権利及び義務に於ける第13条、25条、29条等で規定し、国家の役目としている「国民の生命・財産の保障」に相当する。

 「国民の生命・財産」を守ることができなければ、国民の繁栄もないし、日本国自体を守ることができていないことになり、平和と安寧は覚束なくなる。

 公人として行わなければならない「国民の生命・財産の保障」を私人の立場から祭神として祀ってある明治天皇と昭憲皇太后に祈ったとするのは自身の立場を弁えない矛盾としか言いようがない。

 もし安倍晋三の中で元天皇である神に祈ることと一国の首相として現実世界に政治を行うことが矛盾なく存在するとしたら、その精神は限りなく神道に基づいた政教一致を思想としていることになって、危険な思想の持ち主と看做さざるを得ない。

 果たして安倍晋三は天皇なるものと現実の政治を一致させようと意志しているのだろうか、安倍晋三の天皇観を見てみる。

 ブログに何度でも書いてきたが、安倍晋三は自著『美 しい国へ』で、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と書き、2012年9月2日日テレ放送の「たかじんのそこまで言って委員会」で、「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、 真ん中の糸は皇室だと思うんですね」と言っている。

 いわば天皇は古の世界から今日まで日本の歴史の中心を成し、日本の歴史に組み込まれている「日本の伝統と文化」は皇室の存在に基づいて生成されてきたと主張している。

 より分かりやすく言うと、代々の天皇が中心となって日本の歴史を形づくり、同じく代々の天皇が中心となって日本の伝統と文化が生成されてきたということになる。

 このような皇室による国家生成の歴史・日本の伝統と文化の確立を長大なタペス リーに譬えた。

 い わば歴史生成と伝統・文化生成=日本国家生成の中心から世俗政治及び国民営為が外され、脇役に追いやって、天皇をすべての中心に据えている。
 
 このことは日本国憲法が保障している国民主権を蔑ろにしているばかりか、国民の負託を受けた国政を天皇の下に置いていることになる。

 安倍晋三が思想としているこの天皇対国家・国民の関係は紛れもなく戦前の絶対主義的天皇制下に於ける天皇対国家・国民の関係そのものとなる。

 安倍晋三は戦後、日本憲法が保障する国民主権の民主主義の時代になっても、戦前の天皇対国家・国民の関係を政治的な思想としていることになる。  

 ここから否応もなしに窺うことのできる光景は、神々に窺いを立てて政(まつりごと)を行う祭祀政治の影である。

 少なくとも安倍晋三は祭祀政治の血を少なからず自らの精神としている。

 安倍晋三の天皇対国家・国民の関係思想は、これも以前ブログに書いたことだが、政府の「国体明徴」声明に添い、文部省が独自に国体論の教材として1937年(昭和12年)に作成した『国体の本義』がその一節で謳っている思想と一致する。

 〈かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神(あきつみかみ)であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔(しんえい・神の子孫)であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、 限りなく尊く畏き御方であることを示すのであ る。 帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。〉――

 文飾を施した個所が特に安倍晋三の思想となって現れている。皇室、あるいは歴代天皇は「永久に臣民・国土の生成発展の本源」であるとしているが、国家・国民の生成発展のすべてが大本の祖先と一体の天皇を源として発し続けているとする思想は安倍晋三が常々主張している、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」、あるいは「皇室の存在は日本の伝統と文化そのものだ」とするの思想――天皇を全ての中心に据えて、その下に国家と国民を置く思想とそっくり合致する。

 『国体の本義』にも現れている安倍晋三のこのような天皇観を背景とした明治神宮参拝だったからこそできた、祭神明治天皇と昭憲皇太后と向き合った、「日本国、国民の繁栄、平和と安寧」の祈りだったはずだ。

 天皇を日本の歴史生成と文化・伝統生成の中心に据えているということは天皇から全てが発していると看做しているということであって、天皇なるもので日本国と日本国民を包み込もうとする思想に他ならない。

 天皇主義者安倍晋三のホンネはここにあり、そのホンネの行き着く先は戦前回帰である。戦前の「大日本帝国」という名の日本を取り戻そうと、己の精神を疼かせている。

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