安倍晋三の「子どもの貧困対策会議」、格差社会をつくっておいて、子どもの貧困を政策で手当する政治の限界

2014-04-22 04:03:10 | Weblog
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 「子どもの貧困対策の推進に関する法律」 が昨年の2013年6月26日施行、 政府は新たに設けた有識者らでつくる検討会で教育支援や保護者への就労支援などの議論を進めて、今年7月をメドに政府の大綱を取り纏める方向だとマスコミが伝えている。

 記事が対策会議を今月開いていると書いていたから、首相官邸HPを調べてみた。「子どもの貧困対策会議」のことで、4月4日、首相官邸で開催している。

 安倍晋三「子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右されることのないよう、また、貧困が世代を超えて連鎖することのないよう、必要な環境整備、教育の機会均等を図る子どもの貧困対策は極めて重要です。

 政府においては、今年度から高校生等を対象とする返済不要の奨学のための給付金制度を導入しています。

 また、一人親家庭・生活困窮家庭への相談支援や就労支援、子どもへの学習支援などの取組みを進めています。今後、このような施策をさらに強化していく必要があります。

 年央の大綱取りまとめに向けて、関係閣僚各位におかれては、全ての子どもたちが夢と希望を持って成長していける社会の実現に向けて、子どもの貧困対策について一丸となって取り組んでいただきたいと思います」――

 「子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右されることのないよう、また、貧困が世代を超えて連鎖することのないよう」と言っている言葉の意図は阻止の意志のアピールとなっているはずである。

 この意図の裏を返すと、子どもの将来が環境による「左右」も、世代を超えた「連鎖」も、まだ始まっていないか、あるいはその恐れが出てきた状況にあるとしていることを示していることになる。

 いわば、子どもの貧困に関わる安倍晋三の認識はこの程度の危機感しか持っていないことになる。

 実際は「子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右される」日本の社会に既になっているのであり、「貧困が世代を超えて連鎖する」日本の社会に既になっているのが実態である。

 厚労省の《相対的貧困率の推移について》を見てみる。 

                全体の相対的貧困率  子どもの相対的貧困率

 1997年(1998年調査)     14.6%          13.4%

 2000年(2001年調査)     15.3%          14.5%

 2003年(2004年調査)     14.9%          13.7%

 2006年(2007年調査)     15.7%          14.2%

 2009年(2010年調査)     16.0%          15.7%

 2003年に少しは下がるが、2006年から再び上昇に転じている。

 親の貧困を受けた子どもの貧困という否応もなしの構造的な相関関係は世代間連鎖の、少なくともハシリを示していて、それが子どもの相対的貧困率という指標の形を取って全体的に上昇傾向にあるということは明らかに継続的な世代間連鎖に向かっている状況を示しているはずだ。

 だからこその「子どもの貧困対策の推進に関する法律」の施行であり、大綱の取り纏めということであるはずだが、安倍晋三の危機感は待ったなしといった状況にはないようだ、

 断るまでもなく、そもそもからして大人の貧困を受けた子どもの貧困という構造を取っている以上、この構造自体が経済格差が拡大傾向にある社会に於いて世代間格差のメカニズムを既に内包していることを認識しなければならないはずである。

 である以上、大人の貧困を止めなければ子どもの貧困は阻止できない構造となっているということでもあるのだから、ストップ・ザ・大人の貧困にこそ政治が心血を注ぐことを第一義的解決策としなければならないはずだが、安倍晋三が掲げた「一人親家庭・生活困窮家庭への相談支援や就労支援、子どもへの学習支援などの取組み」等は原因根絶ではなく、貧困に手当を加える程度の対処療法に過ぎない。

 このパターンは日本の政治が一方に貧困を置く経済格差拡大の社会をつくっておいて、そこに必然的な副産物として生産されることになる子どもの貧困を部分的な手当でしかない各種政策で繕う政治の限界を示しているはずだ。

 勿論、他の国も似たり寄ったりの形式を取っているだろうが、他の国はどうであれ、日本の国のトップリーダーがそのことを認識しているかどうかの危機感の有無が政治の限界を狭めもし、広げもする。

 だが、安倍晋三の危機感は政治の限界を浮き立たせることのみに役立っているようだ

 例えば、「全ての子どもたちが夢と希望を持って成長していける社会の実現」を訴えているが、「全ての子どもたち」を対象とした場合、子どもの貧困が親の貧困を受け継ぐ相関的な構造を取る以上、全ての大人たちが夢と希望を持って生き、活動できる社会の実現を大前提としなければ解決不能となるはずだが、そういった危機感を滲ませていないところに政治の限界を見ないわけにはいかない。

 安倍晋三はこのような後手の対処療法に、あるいは泥棒を捕まえてから、急いで泥棒を縛る縄をなうような泥縄式な政治の遣り方に政治の限界を感じて虚しくならないのだろうか。あるいは政治家という生きものは虚しさを感じないツラの皮の厚さを必要としていて、安倍晋三もご多分に漏れずにツラの皮を厚くしているということなのだろうか。

 安倍晋三は一方で経済格差拡大政治を専らとしていながら、その一方で子どもの貧困が経済格差の被害者の位置にいる親の貧困に根本的な原因があるにも関わらず、その根本原因を根絶する政治ではなく、単に部分部分に手当を施す政治に終始しようとしている。

 安倍晋三に危機感を感じないのは当然のことなのだろう。

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