安倍晋三・高村正彦の砂川事件最高裁判決を根拠とした現憲法集団的自衛権容認の読み解きを否定する

2014-04-11 07:05:02 | Weblog





      《生活の党PR》

        《4月7日(月)小沢一郎生活の党代表定例の記者会見要旨》

        『野党が協力する大きな流れは今後も起こりうる』

        【質疑要旨】
        ・日本維新の会と結いの党会派合流について
        ・自衛権について、どこまでを周辺事態とするのか
        ・みんなの党渡辺代表辞任表明について       

 自民党の高村副総裁が砂川事件の最高裁判決を持ち出して、判決理由の中で必要最小限度の範囲に限定すれば、今の憲法下でも集団的自衛権の行使ができるとしているとして、最高裁の判決であることを根拠に集団的自衛権行使容認論を打ち出している。

 高村正彦「最高裁判所は『平和と安全、国の存立を全うするための自衛権の行使は、当然できる』と言っている」(NHK NEWS WEB)――

 要するに憲法解釈変更も必要でないし、現在の憲法のままで行使できると言っていることになる。

 砂川事件とは、「コトバンク」が次のように解説している。

〈日米安保条約および米駐留軍の合憲性が争われた事件。1957年7月8日,東京調達局は,米駐留軍が使用する東京都下砂川町の基地拡張のために測量を強行したが,これを阻止しようとする基地拡張反対派のデモ隊の一部が米軍基地内に立ち入り,刑事特別法条違反で起訴された。この訴訟で,被告人らは,安保条約およびそれに基づく米国軍隊の駐留が憲法前文および9条に違反すると主張したので,一大憲法訴訟となった。第一審の東京地方裁判所は,1959年3月30日,安保条約は違憲で,被告人らを無罪とするという判決を下した(いわゆる伊達判決)。 〉――

 最高裁は1959年12月16日、原判決を破棄し、地裁に差し戻しし、地裁は罰金2000円の有罪判決の言い渡し、この判決につき上告を受けた最高裁が1963年12月7日、上告棄却を決定、この有罪判決が確定した。

 安倍晋三も4月8日のBSフジの番組で高村の主張に追随している。

 安倍晋三「(最高裁判決は)集団的自衛権を否定していないのは、はっきりしている」(毎日jp

 1959年の最高裁判決である。では、なぜ今まで集団的自衛権行使の実現にもたついていたのだろうか。

 砂川事件は私が高校生の頃の出来事で、過激派が起こした事件程度の記憶しかなく、最高裁判決の何たるかについては無知であった。この高村正彦の砂川事件最高裁判決を根拠とした集団的自衛権現憲法行使容認論が果たして正しいのかどうか、つまりそのように読み取ることができるのかどうか、インナーネットから判決を見つけ出して、読んでみた。

 《砂川事件最高裁大法廷判決》  

 自衛権に言及個所のみを引用してみる。重要と思われる個所には修飾を施し、節が長い個所は読みやすいように改行を行った。 

 1.先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。

すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、 また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定 し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。

かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている 国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。

しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではな く、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留する としても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。 

 以上の判決から、文飾を施した個所を纏めてみる。

 日本国憲法第9条は、〈わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。

 〈わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければな らない。

 〈憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 〈憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 〈憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持 し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる 侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 〈同条項(9条2項)がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。〉――

 確かにこの最高裁判決は自衛権は否定していない。憲法9条に違反するものではないとしている。〈国家固有の権能の行使〉だと認めている。

 さらに、〈憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。〉として、日米安全保障条約とアメリカ軍の駐留を日本国憲法に違反していないと位置づけている。

 但し、9条2項が〈その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留する としても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。〉として、9条第2項が否定している「戦力」とは、日本が〈その主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力〉のことを言い、日本駐留の外国軍隊は9条第2項否定の「戦力」には相当しないとしている。

 この判断はこの少し前に言及している、〈憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。〉としていることと対応した判断であろう。

 9条第2項は二度と侵略戦争を侵さないように日本自らが主体となって指揮権、管理権を行使する戦力の不保持を謳っているのだとした。

 当然、9条第1項の戦争の放棄と武力の不行使は日本自らが主体となって指揮権、管理権を行使する戦力を駆使した戦争遂行と武力の行使を禁じた条文ということになる。

 だとすると、9条第2項否定の「戦力」には相当しない日本駐留の外国軍隊が主体となって指揮権、管理権を行使する戦力を駆使した戦争遂行と武力の行使は日本国憲法が否定していないことになって、可能という解釈が成り立つことになる。

 日本国憲法がこのような制約を課しているとしたなら、〈国家固有の権能の行使〉として認められているとしている軍事的な自衛権の発動は自ずと日本駐留の外国軍隊が主体となって指揮権、管理権を行使する戦力に依拠しなければならないということになる。

 このような自衛権の行使を可能とするためには外国軍隊に自衛を任せるか、自衛隊を外国軍隊の指揮下に入れて、外国軍隊が主体となって指揮権、管理権を行使することによって自衛隊を日本国憲法第9条第2項が禁じている「戦力」から外して外国軍隊の指揮下のもと、自衛に当たるか、いずれかの方法を取らなければ、憲法との整合性は取れないことになる。

 と言うことは、日本政府が主体となって指揮権、管理権を行使する自衛権の発動は軍事的方法では憲法上不可能ということになって、日本政府主体の〈国家固有の権能の行使〉としての自衛権の発動の〈国家固有の権能の行使〉としての自衛権の発動残された道は、日本国憲法が規定している「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」としている規定に立って、外交以外の方法は残されていないことになる。

 また、集団的自衛権に関しても、「平和を愛する諸国民平和を愛する諸国民平和を愛する諸国民」を力とした集団的外交に基づかなければならないことにならざるを得ない。

 もし砂川事件最高裁判決が集団的自衛権の行使を認めていると読み解くとするなら、その自衛権とは以上のような解釈となるはずだ。

 尤も私の解釈が間違っているとするなら、この解釈は問題外として貰いたい。

 私自身は集団的自衛権行使容認派だが、あくまでも憲法改正に則って扉を開くものとしなければならないとしている。多種多様な解釈が可能となる過去の判例を持ち出してこじつける姑息な手段を取らずに、真正面から取り組む正々堂々とした手段を選択すべきだろう。

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