「河北新報」2017年10月20日金曜日)記事を纏めてみる。文飾は当方。
10月19日(2017年)夜の衆院選岩手3区自民候補者個人演説会。
丸山和也「認知症と言ったら怒られるけど、相手候補に投票する人は判断力、脳がおかしいとしか言えない」
記事は、〈演説会後「言い過ぎたかもしれない」と釈明した。〉と解説している。
「言い過ぎたかもしれない」が事実だとしても、思いはあったことを意味する。その思いをつい強くしてしてしまったために「言い過ぎ」という状況をつくり出してしまう。
「言い過ぎ」が事実ではなく、後でマズイことを言ったことに気づいて、「言い過ぎたかもしれない」を弁解の言葉に使う場合もある。
どちらであったとしても、“相手候補に投票する人は認知症程度で判断力、脳がおかしい”という思いはあった。その思い自体が丸山和也の人格の表れと言うことができる。
だが、思いだけで留めておくことができずに例え「言い過ぎ」という形であったとしても、口から出したことで丸山和也の人格まで表に曝すことになった。
岩手3区からの立候補者は自民党藤原崇(34歳)、自由党代表ではあるが、無所属立候補の小沢一郎(75歳)の二人のみである。要するに小沢一郎に“投票する人は認知症程度で判断力、脳がおかしい”と言ったことになる。
この発言は先ず相手候補者投票の有権者、いわば小沢一郎に投票する有権者に対する人格否定を存在させている。このことは説明を要しない。
と同時に小沢一郎の人格否定にもなっている。“認知症程度で判断力、脳がおかしい”有権者だけが小沢一郎に投票すると言っているのと変わりはないからである。
丸山和也のこの発言は有権者や小沢一郎に対する人格否定ばかりではない。見事なまでに差別と排除の論理を巣食わせている。「認知症と言ったら怒られるけど、相手候補に投票する人は判断力、脳がおかしいとしか言えない」の文言は暗黙裡の相手候補に対する投票禁止の要求に等しく、選挙に於ける公正・公平の原則に反しているばかりか、その判断力を「認知症」程度と疑っていることは差別そのもので、差別は排除の論理なくして成り立たない。
丸山和也の人格否定、差別と排除の論理は2016年2月17日の参院憲法審査会の発言にも現れている。問題発言となったから、記憶されている方も多くいるはずである。
丸山和也「これは憲法上の問題もありますし、ややユートピア的かもしれませんですけれど。たとえば、日本がアメリカの51番目の州になるということについて、憲法上どのような問題があるのか、ないのか。
そうすると集団的自衛権、安保条約ってまったく問題ありませんね。たとえば、今拉致問題ってありますけど、おそらく起こっていないでしょう。
それから、いわゆる国の借金問題についても、こういう国の行政監視が効かないようなズタズタの状態には絶対になっていないと思うんですね。
これは日本がなくなるということではなくて、アメリカの制度であれば人口比において、下院議員の数が決まるんですね。するとおそらく日本州というのは、最大の下院議員の数を持つと思うんです
上院も州1個とすれば2人ですけれど、日本もいくつかの州にわけるとすると、十数人の上院議員もできるとなると、これは世界の中の日本というけれども、ようするに日本州の出身がアメリカの大統領になる可能性が出てくるということなんですよ。
ということは、世界の中心で行動できる日本という、日本とはそのとき言わないですけれども、それもあり得るということなんですね。馬鹿みたいな話だと思われるかもしれないですけれど。
たとえば、いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引く、ね。これは奴隷ですよ、はっきり言って。
で、リンカーンが奴隷解放をやったと。でも公民権もない、なにもないと。ルーサー・キングが出てですね、公民権運動のなかで公民権が与えられた。
でもですね、まさかアメリカの建国あるいは当初の時代にですね、黒人、奴隷がですね、アメリカの大統領になるようなことは考えもしない。
これだけのですね、ダイナミックな変革をしていく国なんですよね。
そういう観点からですね、たとえば、日本がそういうことについて憲法上の問題があるのかないのか。どういうことかということについて、お聞きしたい。
それから、政党所属を忌避するということについての憲法上の問題があるのかないのか。これについて、まず荒井議員からお聞きしたい。
これはですね、十数年前から日米問題研究会ということがありまして、それで本まで発表されてるんですね。
だからそういうことについてですね、日本の憲法的な観点から、どのように思われますか? お聞きしたいと思います」
日本がアメリカの51番目の州となる仮定上の「ダイナミックな変革」を「黒人がアメリカの大統領になる」「ダイナミックな変革」に譬えるのは、その時代的な妥当性の点について疑義を挟まざるを得ないが、構わない。
だが、その黒人大統領オバマを「黒人の血を引く、ね。これは奴隷ですよ、はっきり言って」の発言は(この箇所は参議院会議録からは削除されている)「ダイナミックな変革」の強調とは離れてオバマに対して黒人と言う理由で人格否定、さらに差別と排除の論理を微かに滲ませている。オバマを丸のままの一個の人格と見た発言とはなっていない。
他者に対する人格否定、差別と排除の論理は自己を絶対としていることによって生み出される。有権者に対して自民党候補に投票するのが絶対だとした。丸山和也自身が自民党を絶対的存在とする意識がなければ、相手候補者に投票する有権者を認知症視することはなかったはずだ。認知症程度の判断力、脳と見ることはなかったろう。
丸山和也のこの自民党を絶対的存在とする意識が丸山一人だけの意識であったなら、正常な分子の中の異分子として浮き立ち、自然淘汰を受けて、居場所を失うことになるだろう。
だが、居場所を失わずに自民党参議院政策審議会副会長と自民党法務部会長の地位に鎮座している。と言うことは、異分子としての存在ではなく、正常分子として自民党内で存在していることを意味する。
このような存在状況は異分子が全体的な正常分子となっていること、他者に対する人格否定、さらには差別と排除の論理に根ざした自民党絶対視は自民党の土壌そのもののなっていることを映し出していることになる。
いわば世間の常識から見ると異分子であるはずの存在が正常分子としての扱いを受けていることになる。と言うことは自民党では異分子こそが正常分子として生きづいていることを証明することになる。
そしてそれを可能としている要因は自民党絶対視の土壌だと言うことになる。
自民党絶対視は驕りという形で表出される。驕りを背景としていなければ、「認知症と言ったら怒られるけど、相手候補に投票する人は判断力、脳がおかしいとしか言えない」などという言葉は口を突いて出てこないだろう。
様々な発言や様々な国会運営から自民党の驕り、安倍政権の驕りが言われている。森友学園疑惑は安倍晋三の驕り、あるいは安倍昭恵の驕りがなければ飛び出すことはなかったろう。
常に謙虚な姿勢でいたなら、官僚たちに対して忖度といった不要な配慮を招くことはないからだ。
安倍晋三の加計学園政治関与疑惑にしても、安倍晋三自身の驕りが原因となっているはずだ。謙虚で真摯な態度で獣医学部新設認可に向き合っていたなら、様々な疑惑が持ち上がる余地は現れようがない。
このような自民党絶対視の驕りを土壌とした安倍自民党を再度与党に選択、その政権延命に手を貸す。
10月19日(2017年)夜の衆院選岩手3区自民候補者個人演説会。
丸山和也「認知症と言ったら怒られるけど、相手候補に投票する人は判断力、脳がおかしいとしか言えない」
記事は、〈演説会後「言い過ぎたかもしれない」と釈明した。〉と解説している。
「言い過ぎたかもしれない」が事実だとしても、思いはあったことを意味する。その思いをつい強くしてしてしまったために「言い過ぎ」という状況をつくり出してしまう。
「言い過ぎ」が事実ではなく、後でマズイことを言ったことに気づいて、「言い過ぎたかもしれない」を弁解の言葉に使う場合もある。
どちらであったとしても、“相手候補に投票する人は認知症程度で判断力、脳がおかしい”という思いはあった。その思い自体が丸山和也の人格の表れと言うことができる。
だが、思いだけで留めておくことができずに例え「言い過ぎ」という形であったとしても、口から出したことで丸山和也の人格まで表に曝すことになった。
岩手3区からの立候補者は自民党藤原崇(34歳)、自由党代表ではあるが、無所属立候補の小沢一郎(75歳)の二人のみである。要するに小沢一郎に“投票する人は認知症程度で判断力、脳がおかしい”と言ったことになる。
この発言は先ず相手候補者投票の有権者、いわば小沢一郎に投票する有権者に対する人格否定を存在させている。このことは説明を要しない。
と同時に小沢一郎の人格否定にもなっている。“認知症程度で判断力、脳がおかしい”有権者だけが小沢一郎に投票すると言っているのと変わりはないからである。
丸山和也のこの発言は有権者や小沢一郎に対する人格否定ばかりではない。見事なまでに差別と排除の論理を巣食わせている。「認知症と言ったら怒られるけど、相手候補に投票する人は判断力、脳がおかしいとしか言えない」の文言は暗黙裡の相手候補に対する投票禁止の要求に等しく、選挙に於ける公正・公平の原則に反しているばかりか、その判断力を「認知症」程度と疑っていることは差別そのもので、差別は排除の論理なくして成り立たない。
丸山和也の人格否定、差別と排除の論理は2016年2月17日の参院憲法審査会の発言にも現れている。問題発言となったから、記憶されている方も多くいるはずである。
丸山和也「これは憲法上の問題もありますし、ややユートピア的かもしれませんですけれど。たとえば、日本がアメリカの51番目の州になるということについて、憲法上どのような問題があるのか、ないのか。
そうすると集団的自衛権、安保条約ってまったく問題ありませんね。たとえば、今拉致問題ってありますけど、おそらく起こっていないでしょう。
それから、いわゆる国の借金問題についても、こういう国の行政監視が効かないようなズタズタの状態には絶対になっていないと思うんですね。
これは日本がなくなるということではなくて、アメリカの制度であれば人口比において、下院議員の数が決まるんですね。するとおそらく日本州というのは、最大の下院議員の数を持つと思うんです
上院も州1個とすれば2人ですけれど、日本もいくつかの州にわけるとすると、十数人の上院議員もできるとなると、これは世界の中の日本というけれども、ようするに日本州の出身がアメリカの大統領になる可能性が出てくるということなんですよ。
ということは、世界の中心で行動できる日本という、日本とはそのとき言わないですけれども、それもあり得るということなんですね。馬鹿みたいな話だと思われるかもしれないですけれど。
たとえば、いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引く、ね。これは奴隷ですよ、はっきり言って。
で、リンカーンが奴隷解放をやったと。でも公民権もない、なにもないと。ルーサー・キングが出てですね、公民権運動のなかで公民権が与えられた。
でもですね、まさかアメリカの建国あるいは当初の時代にですね、黒人、奴隷がですね、アメリカの大統領になるようなことは考えもしない。
これだけのですね、ダイナミックな変革をしていく国なんですよね。
そういう観点からですね、たとえば、日本がそういうことについて憲法上の問題があるのかないのか。どういうことかということについて、お聞きしたい。
それから、政党所属を忌避するということについての憲法上の問題があるのかないのか。これについて、まず荒井議員からお聞きしたい。
これはですね、十数年前から日米問題研究会ということがありまして、それで本まで発表されてるんですね。
だからそういうことについてですね、日本の憲法的な観点から、どのように思われますか? お聞きしたいと思います」
日本がアメリカの51番目の州となる仮定上の「ダイナミックな変革」を「黒人がアメリカの大統領になる」「ダイナミックな変革」に譬えるのは、その時代的な妥当性の点について疑義を挟まざるを得ないが、構わない。
だが、その黒人大統領オバマを「黒人の血を引く、ね。これは奴隷ですよ、はっきり言って」の発言は(この箇所は参議院会議録からは削除されている)「ダイナミックな変革」の強調とは離れてオバマに対して黒人と言う理由で人格否定、さらに差別と排除の論理を微かに滲ませている。オバマを丸のままの一個の人格と見た発言とはなっていない。
他者に対する人格否定、差別と排除の論理は自己を絶対としていることによって生み出される。有権者に対して自民党候補に投票するのが絶対だとした。丸山和也自身が自民党を絶対的存在とする意識がなければ、相手候補者に投票する有権者を認知症視することはなかったはずだ。認知症程度の判断力、脳と見ることはなかったろう。
丸山和也のこの自民党を絶対的存在とする意識が丸山一人だけの意識であったなら、正常な分子の中の異分子として浮き立ち、自然淘汰を受けて、居場所を失うことになるだろう。
だが、居場所を失わずに自民党参議院政策審議会副会長と自民党法務部会長の地位に鎮座している。と言うことは、異分子としての存在ではなく、正常分子として自民党内で存在していることを意味する。
このような存在状況は異分子が全体的な正常分子となっていること、他者に対する人格否定、さらには差別と排除の論理に根ざした自民党絶対視は自民党の土壌そのもののなっていることを映し出していることになる。
いわば世間の常識から見ると異分子であるはずの存在が正常分子としての扱いを受けていることになる。と言うことは自民党では異分子こそが正常分子として生きづいていることを証明することになる。
そしてそれを可能としている要因は自民党絶対視の土壌だと言うことになる。
自民党絶対視は驕りという形で表出される。驕りを背景としていなければ、「認知症と言ったら怒られるけど、相手候補に投票する人は判断力、脳がおかしいとしか言えない」などという言葉は口を突いて出てこないだろう。
様々な発言や様々な国会運営から自民党の驕り、安倍政権の驕りが言われている。森友学園疑惑は安倍晋三の驕り、あるいは安倍昭恵の驕りがなければ飛び出すことはなかったろう。
常に謙虚な姿勢でいたなら、官僚たちに対して忖度といった不要な配慮を招くことはないからだ。
安倍晋三の加計学園政治関与疑惑にしても、安倍晋三自身の驕りが原因となっているはずだ。謙虚で真摯な態度で獣医学部新設認可に向き合っていたなら、様々な疑惑が持ち上がる余地は現れようがない。
このような自民党絶対視の驕りを土壌とした安倍自民党を再度与党に選択、その政権延命に手を貸す。