2017年10月22日付「産経ニュース」 記事が小此木八郎防災担当相に対して安倍晋三が首相官邸で台風21号への対応を指示した後にだろう、記者団に話した発言の全文を載せている。
安倍晋三「超大型の台風21号が日本に接近しています。被害を最小限に食い止めるために、私から防災大臣に対し、国民にタイムリーに具体的な情報提供を行い、避難指示など早め早めに対策を講じ、そして自衛隊をはじめ実働部隊の対応準備に万全を期すと、以上の3点を指示いたしました。
国民の命を守るため、安倍内閣一丸となって、災害応急対応に全力を尽くして参ります」
指示の内容については首相官邸サイトに記載されている。
《台風第21号に関する総理指示》(首相官邸/2017年10月22日) 総理指示(10:45) ・国民に対し、タイムリーに、大雨・河川の状況等に関し、具体的な情報提供を行うこと ・住民の安全を最優先に考え、避難指示等、早め早めの対策を講じ、災害応急対策に万全を期すこと ・自衛隊を始め、実働部隊の対応準備に万全を期すなど、国民の命を守るための対策に全力を尽くすこと |
指示にしても指示についての発言にしても、3点の指示の後に「国民の命を守る」を持ってきているから、自然災害からの“身の安全の確保”についての言及であることが分かる。
だが、災害から「国民の命を守る」は災害に対して“身の安全の確保”だけを言うわけではない。それだけだったら、自衛隊や消防、警察、各自治体に任せておけばいい。
身の安全が確保できたとしても、被災によって打撃を受けた生活をそのままの状態に置いたのでは「国民の命を守る」ことにはならないからだ。
なぜなら、「国民の命を守る」とは心臓が動いている状態を守る“身の安全の確保”のことだけを言うのではなく、日常普段の生活の様々な局面をつくり出しているのも国民それぞれの命であって、命が織りなすそのような様々な局面に於ける日常普段の人間らしい生活を保障することも「国民の命を守る」ことを意味するからなのは断るまでもない。
要するに「国民の命を守る」は自然災害、あるいはや戦争の危機などに対して身の安全を確保することの保障のみではないということになる。
「国民の命を守る」ことの中に日常普段の生活を守ることが含まれていることと自然災害や戦争の危機に関してのみの保障ではないことは「日本国憲法」「第3章 国民の権利及び義務 第25条」の規定が示している。
〈すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない〉
国はこのような生活を保障しなければ、「国民の命を守る」ことにはならないということの示唆である。そして現在の日本が世界第3位の経済大国である以上、国の経済規模(=GDP規模)に応じた「健康で文化的な最低限度の生活」を保障することが憲法に即して「国民の命を守る」ということの意味を初めて成すことになり、そうすることが国家運営の政権担当者の義務と責任となる。
国の経済規模(=GDP規模)以下の「健康で文化的な最低限度の生活」の保障であったなら、「国民の命を守る」ということにはならない。
安倍晋三の9月25日(2017年)の「解散記者会見」での発言は心臓が動いている状態を守る“身の安全の確保”だけではなく、生活を守る意味も含めていたはずだ。
安倍晋三「「国民の皆様は、北朝鮮の度重なる挑発に対して、大きな不安を持っておられることと思います。政府として、いついかなるときであろうとも危機管理に全力を尽くし、国民の生命と財産を守り抜く。もとより当然のことであります」
「国民の生命と財産を守り抜く」は“身の安全の確保”だけではなく、生活そのものを守ることによって可能となる。
勿論、災害を受けて死者が出る場合もあるし、戦争に巻き込まれたら、犠牲者が出ることは避けることができない危険性として想定しておかなければならないが、遺された者の生活を守ることが「国民の命を守る」国の責任と義務となる。
例え水害で家を失うことがあっても、人間として当たり前の生活ができる状態に持っていくことができるように国は支援しなければならない。
でなければ、自然災害に際しての「国民の命を守る」の指示が“身の安全の確保”だけとなって、言葉の意味に於いても、憲法との関わりに於いても指示を出す理由は半減する。
にも関わらず、東日本大震災から6年7カ月経つが、2017年2月27日付の「河北新報」記事が記事時点で、〈東北の被災3県では東京電力福島第1原発事故の自主避難者を含めて3万3748世帯、7万1113人がいまだに仮設住宅での生活を余儀なくされている。岩手、宮城両県は住宅再建で仮設からの退去が進んでいるが、福島県は原発事故の影響で先行きを見通せずにいる。〉と当たり前以下の生活を強いられている状況を伝えている。
この点、安倍晋三は今以って人並みの生活から取り残されている被災者に関して「国民の命を守る」ことにはなっていないことになる。しかも解散記者会見では、「日本経済は11年ぶりとなる6四半期連続のプラス成長」とGDPの改善を誇っている。
GDPはプラス改善していながら、被災者の生活復興はなかなか進まず、取り残されている被災者が多く存在する。とてものこと、「国民の命を守る」ことにはなっていない。
2016年4月14日21時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生した熊本地震でも、提供された熊本県内の仮設住宅4318戸のうち、7月末までに退去したのは1割弱だと、2017年8月27日付「産経ニュース」記事が伝えている。
被災前の日常普段の生活とは異なる不自由な生活を強いているということは“身の安全の確保”だけの保障止まりで、「国民の命を守る」ことからは程遠い。
大体が安倍晋三のアベノミクス経済政策で格差拡大をつくり出し、多くの国民が国の経済規模に反した人間らしさを発揮できない窮屈な生活を余儀なくされていること自体が人間らしい生活を保障するという意味での「国民の命を守る」ことになっているだろうか。
国民の日常が人間らしい命を表現できる生活状況になっていなければ、「国民の命を守る」ことの約束から程遠い場所に多くの国民を置き去りにしていることになる。
国の経済規模に相応しくなく被災者の生活の復興が遅れている「国民の命を守る」ことにはなっていない状況、同じく国の経済規模に相応しくなく多くの国民が経済格差によって人間らしい生活から取り残されている「国民の命を守る」ことにはなっていない状況を一方に置きながら、何か自然災害が近づいたり、起きたりしたら、防災担当の閣僚に指示を出し、「国民の命を守る」ことを誓う。
安倍晋三は「国民の命を守る」ということが心臓が動いている状態を守る“身の安全の確保”のことだけを言うのではなく、国民それぞれの命が人間らしくあろうと織りなして日常をつくり出していく生活の保障も含まれているという、その本質的な点について気づいていないから、「国民の命を守る」ことにはなっていない状況をつくり出しておきながら、何かにつけて「国民の命を守る」を口にすることができるのは、通り一遍の言葉として使っているからだろう。