安倍晋三が2017年10月28日、防衛省で開催の2017年度自衛隊殉職隊員追悼式に参列、スピーチしている。文飾は当方。
「安倍晋三自衛隊殉職隊員追悼式スピーチ」(首相官邸/2017年10月28日) 安倍晋三「国の存立を担う崇高な職務に殉ぜられた自衛隊員の御霊(みたま)に対し、謹んで追悼の誠を捧げます。 この度、新たに祀(まつ)られた御霊は、25柱であります。 ただひたすら国民のため。それぞれの持ち場において、強い使命感と責任感を持って職務の遂行に全身全霊を捧げた皆様は、この国の誇りです。私たちは、その勇姿と名前を永遠に心に刻みつけてまいります。 同時に、かけがえのない御家族を失われた御遺族の皆様の深い悲しみ、無念さを思うと悲痛の念に堪えません。 ここに祀られた1934柱の御霊に対し、改めて深甚なる敬意と感謝の意を表します。 その尊い犠牲を無にすることなく、御遺志を受け継ぎ国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜いていく、そして、世界の平和と安定に貢献するため全力を尽くすことを、ここにお誓いいたします。 いま一度、御霊の安らかならんことを、そして、御遺族の皆様の御平安と末永い御健勝をお祈り申し上げ、追悼の辞といたします」 |
当たり前のことだが、安倍晋三が「職務の遂行に全身全霊を捧げた」と言っていることは職務の遂行に全身全霊を捧げながら人生の最終章を殉職という死を以って迎えた自衛隊員の生き様を指した言葉であっって、現在もなお生きながらに「全身全霊を捧げ」ている人生について言及している言葉ではない。
確かに安倍晋三が厳かな口調で口にしているとおりに自衛隊員は日々、あるいは一秒一秒、「ただひたすら国民のため。それぞれの持ち場において、強い使命感と責任感を持って職務の遂行に全身全霊を捧げ」ているだろう。
だとしても、一国の首相であると同時に自衛隊の最高指揮官が人生の最終章を殉職という死を以って迎えた生き様を一律的に「国の誇り」と価値づけるのは妥当だろうか。
例えその殉職が戦争で敵と戦いを交えて犠牲になった死であっても、死に至ったその人生の全てを一国の首相であると同時に自衛隊の最高指揮官が「国の誇り」と最大限に価値づけていいものだろうか。
自衛隊員の殉職を「国の誇り」と価値づけることは、それが国単位の「誇り」である以上、その殉職を“国家的価値”に位置づけていることを意味する。
「国の誇り」が“国家的価値”を有しないとしたら、矛盾そのものので、「国の誇り」から「国」という言葉を外して、国単位ではないタダの「誇り」としなければならなくなる。
国家指導者が自衛隊員の職務上の全ての死をその生き様と共に「国の誇り」であると“国家的価値”に位置づけ、そのことが当たり前になった場合、自衛隊員そのものを特別な存在とする危険性を内部に孕むことにならないだろうか。
なぜなら、「国の誇り」という栄誉は国民の中のエリート(選良)という選別があって初めて与え得るからである。それが個別的であるなら、そのような選別は許されるが、殉職者全体に対する選別となると、組織全体に対する選別へと繋がる。
このような選別がなければ、安倍晋三が言っている「その勇姿と名前を永遠に心に刻みつけてまいります」といった論理は成り立たなくなる。自衛隊員の殉死の生き様を「国の誇り」だと“国家的価値”づけを行い、「その勇姿と名前を永遠に心に刻みつけてまいります」と言うこと自体が特別な存在扱いであって、自衛隊員をエリート(選良)とする特別存在扱いの選別は自衛隊という実質的な軍隊そのものをエリート(選良)集団とする特別な存在扱いをしているからに他ならない。
相互の関連付けのない、一方だけの特別な存在扱いは個々の場合は存在するが、全体対全体の判断は存在し得ない。
実質的には軍隊である自衛隊という組織を一般扱いとしていたなら、組織の各一員である自衛隊員に対しても一般扱いとなって、彼らの殉職の生き様を「国の誇り」とする“国家的価値”づけは起こりようがない。
そして自衛隊をエリート(選良)集団と価値づけ、自衛隊員を国民の中のエリート(選良)と見る特別な存在扱いは軍隊を国民の上に置く国家主義によって可能となる心的傾向であろう。
自衛隊及び自衛隊員をエリート(選良)とする国家主義はいつ何時、自衛隊及び自衛隊員そのものを絶対的存在と高めない保証はない。いや、自衛隊、あるいは自衛隊員の側から国民の中のエリート(選良)として行動し始めた場合は自らが国家主義を纏い、自らを絶対的存在と思い込むに至ったときであろう。
日本人はこのような現象を戦前、見てきたはずである。安倍晋三は意図的なのかそうでないのか、自衛隊を戦前の大日本帝国軍隊の地位、身に付けていたエリート性にまで高めたいようだ。
自衛隊員の殉死の生き様を「国の誇り」と祭り上げ、“国家的価値”づけを行う安倍晋三の言葉に感じる国家主義の危険性がここにある。
安倍晋三の自衛隊および自衛隊員を絶対的存在へと祭り上げる国家主義は既に2016年の観閲式の発言に現れている。
「観閲式訓示」(首相官邸/2016年10月23日)
国内外の自然災害で救命・救助に励む自衛隊員、カンボジアや南スーダンでPKO活動に励む自衛隊と自衛隊員等を例に挙げてから次のように発言している。、
安倍晋三「彼らの存在があったればこそ、日本は、平和と繁栄を享受することができる。国民の命と平和な暮らしは、間違いなく、彼らの献身的な努力によって守られています。この崇高なる任務を、高い使命感と責任感で全うする彼らは、日本国民の誇りであります」――
確かに軍隊そのものである自衛隊と所属員である自衛隊員の存在が日本の大枠としての安全保障上の守りを負っている形を取っているが、中身の全体としての生活そのものの「平和と繁栄」、「国民の命と平和な暮らし」は実質的には日本国憲法に信頼を寄せている国民自身、その一人ひとりの努力が築いて成し得た状況であるはずである。
しかし安倍晋三はこのことを無視して、「彼らの存在があったればこそ」と自衛隊と自衛隊員のみによって成し得ている「平和と繁栄」、その他であるかのように言うことで自衛隊と自衛隊員を国民の上に置く国家主義を露わに曝け出している。
一国の首相が自国軍隊とその兵士を国民の中のエリート(選良)集団と見る。このような国家主義程危険なものはない。