安倍晋三が口にした、沖縄米軍関係者20歳女性殺害「さぞ無念だったと思う」の底の浅い感性

2016-05-21 11:39:53 | Weblog


 殺害犯として逮捕された沖縄米軍属32歳黒人男性の供述で5月19日、沖縄県うるま市の20歳の会社員女性の殺害遺体が発見された。

 女性は先月4月28日午後8時頃、同居男性のスマートフォンに「ウォーキングしてくる」というメッセージを送信後、男性が夜勤だったのか、翌29日午前2時頃、男性側からの「今から帰る」というメッセージに一度は「既読」のマークがついたものの、その後何の返信もなく、朝になっても帰ってこなかったために男性は心配になって、警察に捜索願いを出したという。

 警察は5月12日に公開捜査に切り替えた。

 警察が公開捜査に踏み切った際の情報提供要請のポスターには髪型や背格好、行方不明時の服装が公開されるが、ネットで調べてみると、服装は、黒の短パン。薄手の黒の無地のパーカー、ピンクのジョギングシューズ(IGNIO製)となっている。

 午後8時頃からのウオーキングだから、そんなに寂しいところや暗がりは歩かないはずだが、沖縄では米軍関係者の性犯罪事件が度々起きている。だからと言って、全ての性犯罪が米軍関係者であるとは限らないが、服装が一人歩きの短パンであることから、警察は勿論、警察ではなくても、米軍関係者に限らない性犯罪の線を否応もなしに選択肢に入れざるを得ないはずだ。

 遺体発見の翌日の5月20日、殺害犯は「ワイセツ目的で女性を狙い、暴行し、刃物で刺した」と供述したとマスコミは伝えている。

 乗用車を運転していたというから、力尽くで車に乗せ、車の中でか外でか、力尽くで暴行し、刃物で刺して殺して、車で死体を恩納村の雑木林まで運んで遺棄した。

 結果的に米軍関係者による残忍な性犯罪が繰返されたことになる。

 5月15日は沖縄本土復帰から44年目に当たる。本土復帰を果たしていながら、米軍の影が常に色濃く覆いかぶさった現実を強いられている。

 5月20日、殺害犯が軍属として務めていた嘉手納基地前で約2000人が集まって抗議集会が開かれ、東京都内でも首相官邸前、その他で開かれたという。

 5月20日午前、安倍晋三が米軍関係者の日本人女性に対する殺害にまで至った性犯罪であったことを受けて首相官邸で記者団に発言している。

 安倍晋三「非常に強い憤りを覚える。徹底的な再発防止など厳正な対応を米国側に求めたい。さぞ無念だったと思う。ご家族のことを思うと言葉もない」(産経ニュース/2016.5.20 09:09)  

 「さぞ無念だったと思う」とは女性の気持を代弁した発言であろう。「無念」は「悔しくてたまらない」との意味を持つから、「さぞ悔しくてたまらなかったに違いない」と女性の気持を思い遣ったことになる。

 果たして女性はあり得べからざる不条理な突然の事態に襲われて、「無念」(=悔しくてたまらない)などと思ったのだろうか。

 そのような生易しい感情ではなかったはずだ。

 突然男が掴みかかってきた。最初は驚きと恐怖の感情に襲われたものの、力づくで自由を奪われて無力な状態とされて事態が推移していく内に理由もなく自分をこのような目に合わせようとしている相手の男に対する激しい怒りの感情が込み上げてこなかっただろうか。

 いや、怒りの感情は為すがままにこのような目に遭わされなければならない自身の非力にも向けられたかもしれない。

 人間は誰しもある種の生命(いのち)の予定調和を抱えて日々生きている。今在る生命(いのち)を明日も生き、明後日も生き、1年後も生き、5年後も10年後も、さらに老いていくという生命(いのち)の流れを予定された一つの調和として無意識に誰もが信じ、植えつけている。

 そのような誰もが抱えている生命(いのち)の予定調和を見知らぬ男が突然目の前に現れて、今や暴力的に破壊し、明日という日、明後日という日、1年、2年、3年先の日々を奪い去っていこうとしている。

 例え恐怖に襲われていたとしても、生命(いのち)の予定調和の破壊者に対する感情はこんなことはあってはならないと激しく拒絶する怒りこそが最もふさわしい感情であるはずだ。決して「無念」(=悔しくてたまらない)などといった中途半端な感情ではなかったはずだ。

 「さぞ無念だったと思う」は理不尽にも20歳の若さで殺され、生命(いのち)の予定調和としてあったはずの前途を奪われた女性に対する理解としては余りにも他人事過ぎる底の浅い感性としか言いようが無い。

 安倍晋三がその程度の感性しかないと言ってしまえば、それまでだが。

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5月18日安倍晋三対岡田克也党首討論:自民党憲法改正草案にも貫かれているとしている三大理念の形骸性

2016-05-20 09:56:36 | 政治


 5月18日の岡田克也民進党代表と安倍晋三の党首討論で岡田克也が自民党憲法改正草案に現憲法の国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三大原則のうちの平和主義は具体的にどのように貫かれているのか質問した。

 幾つかのブログでも取り上げてきて、重なる部分があるが、安倍晋三の答弁から再度自民党憲法改正草案の正体と言うべきものと安倍晋三の憲法観について書いてみることにした。

 憲法問題に関する発言は「産経ニュース」記事を引用、そこだけを抜き出した。読みやすくするために適宜改行を施すことにした。

 岡田克也「議題を変える。首相は自民党の憲法改正草案について、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義など現行憲法の基本原理は自民党の憲法改正草案でも貫かれている、と答弁した。そこで貫かれている平和主義とは具体的に何か」

 安倍晋三「我々は71年前、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。この不戦の誓いの下、平和主義を貫いてきた。その中で憲法の9条第1項と第2項があるが、その中で我々は、例えば武力の行使についても3要件がかかっている。

 そして二度と他国を侵略しない。戦禍に世界の人々を巻き込むことはしない。これこそまさに平和主義だろうと思う。同時に、私が今進めている積極的平和主義は、世界の平和を維持していくためにも貢献していこうということだ。紛争など起こりそうなところでも、しっかりとその地域の生活の向上を図っていく、安定化を図っていく。貢献をしながら、より平和を拡大していく、より平和の強度を上げていく。そのために日本が役割を果たしていく。これが私たちが今進めている積極的平和主義だ」

 岡田克也「自民党の憲法改正案の9条2項には『自衛権の発動を妨げない』と書いてある。その自衛権の意味は、国連憲章に書いてある集団的自衛権の行使、つまり限定したものということではなく、全面的なフルスペックの集団的自衛権の行使、と言われている。

 そうすると、憲法改正草案で禁止されているものは一体何か。今、侵略戦争と言われた。侵略戦争は国連憲章上、もちろん禁止されている。そんなことは言わずもがなだ。わざわざ侵略戦争しません、と言わないことが、平和主義とは言わない。平和主義という名の下で、どういう国家としての行為が封じられているのか」
 安倍晋三「我が党の憲法改正草案だが、これはわれわれが野党時代に作ったものだが、約70年間、指一本触れてはならない、憲法議論はしてはならないという空気を変える大きな一石を投じるものとなったと思っている。

 そして、憲法改正の草案だ。憲法改正というのは、衆参でそれぞれ3分の2を得なければならない。その上で、国民投票で過半数の賛成を得て成立する。つまり、3分の2を得る中において、もちろん自民党で衆参それぞれで、3分の2を得ることは不可能だ。おそらく与党においても不可能だろう。多くの方々に賛同を得る、その道というのは憲法審査会で議論を深めることだ。前文からすべての条文について私たちの案はお示しをしている。

 御党からは、そうした具体的なものは出ていないが、議論をし、最終的にどの条文から示すかということで、憲法改正の手続きというのは進んでいくのだろうと思っている。私たちが出したものは、あくまでも一つの草案として国民の皆様にご議論いただく、叩き台として一石を投じる、そういう役割を果たしていると思う。大切なことは憲法審査会で議論することだ。議論しなければ議論は深まらない。

 そこで例えば9条ということなら、そこは改憲はできないという勢力が、例えば3分の1以上いればできない。しかし、同時に3分の2の形成を図っていく中において、当然、多くは修正されていくということになるだろう。政治の現実は、そういう現実だ。その中で、より良いものを作っていきたいと考えている。

 いずれにしても、私たちは指一本触れてはならないという考え方ではないし、議論するための草案は示している。だから、民主党においても、民主党においても、すみません、民進党ですか。民進党においても、最低限、草案は出していただかなければ議論のしようがない。岡田さんに一つお聞かせをいただきたいが、草案を出すお気持ちがあるか」

 岡田克也「草案を出すつもりはない。本当に必要な憲法改正の項目があれば、そのことはしっかりと議論したい。しかし、私は、あなたたちとは違う。GHQ(連合国軍総司令部)が8日間で作り上げた代物だと言って、日本国憲法そのもの全部が取っ替えなければいけないんだと、そういう考え方ではない。

 むしろ同じ与党でも、公明党の考え方に近い。必要があれば直していけばよい。必要があるかどうかをちゃんと議論した方がよい。『憲法審査会で議論しろ』と。この国会で実質、衆院で1回もやっていない。開いていないのは与党の責任じゃないか。なぜ審査会に逃げるんですか。議論するなら、しっかり議論しようじゃないか。

 一番大事な平和主義について答えがない。そして、いつの間にか、憲法改正、これ、たたき台って、尻込みしないでくださいよ。自信を持って出されたんでしょ。草案の言う平和主義の具体的な法規範とは何か」

 安倍晋三「戦前の反省の中から他国を侵略しない。そういう状況を作らないように、貢献していくことが大切だ。『当たり前』と言えば、それがなくなるわけではない。当たり前にするには、その努力をしなければならない。その中で、国民の命と、そして幸せな暮らしを守るために、私たちの責任を果たさなければならない。われわれの憲法草案においても、言わば国連憲章に書いてある考え方、平和主義が貫かれている。つまり、必要な自衛の措置しかとらない。侵略とか、戦闘的な、攻撃的な侵略、あるいは他国を踏みにじる、そういうことはこれから二度としない。そして、二度と戦争の惨禍を繰り返さないというのが、私たちの考え方であり、平和主義だ。

 やはり草案を出さずに、必要だったら何かやるというのは考え方として、おかしいんじゃないか。お互いに考え方を示しあって、すみません、ちょっとヤジが多いとしゃべりにくい。よろしいですか。ちょっと静かになるまで待たせていただく。大切なことはお互いに案を示しあうことだ。そうしなければ憲法審査会においても、議論が深まらない。

 国連憲章も、多くの国々も平和主義を貫いている。岡田さんの言いようでは、ここが平和主義でないとなってしまう。平和主義は間違いなく貫かれている。同時に、国民の命や平和な暮らしを守るために何をすべきかということについては真剣に考える必要がある。岡田さんは平和安全法制を廃止すると言っている。これはすでに日米のガイドラインにおいて、この法制の基に実効性を持ってきていると思う。お互いが助け合うことができる同盟というのは絆を強くする。

 先般の北朝鮮のミサイル発射の際、その効力は現れたと思っている。いくら日米同盟が悪くなっても廃止をするつもりなのか。かつて鳩山由紀夫内閣の外相として苦労されたじゃないか。できもしないことをいって日米の抑止力の意味が分からなかったといっても遅い」

 岡田克也「いやー、驚きました。私は首相が米国で演説したとき、本当にこれはまずいな、と思った。すべて米国のいうとおりにやりますから、と。裸になったに近い。お互いに国益を踏まえて同盟関係、努力しながら深めていかなければいけない。全部やりますというのならそれは同盟の意味がない。集団的自衛権の行使、侵略戦争との違いと境目は必ずしも明らかでない。侵略の定義ははっきりしない、と言っていた。そういう世界に日本は足を踏み込むべきでないということを最後に申し上げておきたい」

 自民党憲法改正草案の9条は第1項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」、第2項で「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」となっていて、第2項の「自衛権の発動」を岡田克也は限定的を意味するのではなく、「全面的なフルスペックの集団的自衛権の行使」と言われているとして、日本国憲法の三大原則の一つ「平和主義」が自民党憲法改正草案に具体的にどのような法規範として規定されているかを、「平和主義という名の下で、どういう国家としての行為が封じられているのか」、「草案の言う平和主義の具体的な法規範とは何か」との表現で問い質している。

 2015年6月26日の「第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」で両者の間で次のような質疑があった。

 岡田克也「自民党の憲法改正草案、ここには自衛権を持つということが書いてありますね。何の限定もつけておりません。ということは、自民党が目指している日本というのは、今のような限定した集団的自衛権の行使ではなくてフルスペックの、制限のない集団的自衛権の行使ができる国を目指している、そういうふうに理解していいですね」

 対して安倍晋三は「憲法改正には3分の2の賛成が衆参それぞれ必要だ」とか、「国民の過半の支持がなければ成立しない」とか手続き論で逃げ、時間切れが来て、うまく逃げおおすことができた。

 岡田克也は、安倍晋三は口では限定的な集団的自衛権の行使と言っているが、自民党憲法改正案に従うと、限定的ではなく、無制限の(フルスペック=Full specifications「フル仕様」)の集団的自衛権を目指しているのではないのかと追及した。

 安倍晋三は岡田克也の追及に直接には答えず、都合の悪いことは直接答えないのが安倍晋三のお得意の答弁術だが、「戦前の反省の中から他国を侵略しない」とか、「国民の命と、そして幸せな暮らしを守るために、私たちの責任を果たさなければならない」と一見立派なことを言っているが、どうとでも言うことができる、単なる能書きを述べたに過ぎない。

 「自民党日本国憲法改正草案」前文

「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」

 文飾は当方。

 日本国憲法の三大原則である国民主権・基本的人権の尊重・平和主義は国民の生存権の保障を謳ったものであろう。国家権力はこのような権利や考えのもと、国民の生存権を保障しなさいと憲法に規定した。

 ところが、自民党の憲法改正草案は、例え三大原則を謳っていたとしても、前文を一見・一読すれば分かるように国家主体の条文となっている。

 このことは、「天皇を戴(いただ)く国家」という文言に象徴的に集約されている。
 
 「戴く」とは自身に対して上に位置させた関係性を言う。天皇は国民統合の象徴として敬う関係にあるが、国民主権とする以上、例え天皇が相手であっても、憲法に国民を下に置いて上下で位置づけた関係性を規定していいはずはない。国民主権とはあくまでも国民を国家権力よりも上に位置づけた関係性としなければならない。

 「戴く」という言葉によって、秘かに天皇の上位性を打ち出している。

 「前文」で既に「自民党日本国憲法改正草案」は国家主体の憲法であり、国民主体の憲法とはなっていなことを露呈している。

 この日本国は「天皇を戴(いただ)く国家」だと規定している思想は安倍晋三の天皇主義と無関係ではあるまい。

 安倍晋三「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」(自著『美しい国へ』)

 安倍晋三「むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」(2012年5月20日放送「たかじんのそこまで言って委員会」

 日本という国は天皇を縦糸にして、その歴史がタペストリーのように織られ、成り立っている。

 天皇を日本という国の中心に据えている。

 戦前では通用する思想を戦後の民主義国家日本に於いても今以て引きずって日本国の中心に天皇を据えて、自民党憲法で国民に天皇を戴かせようとしている。

 このように国民主体の思想に基づいているのではなく、国家主体の思想に基づいている自民党日本国憲法改正草案である以上、いくら三大原則を言い募っても、形骸としての意味しか持たないはずだ。

 今回の党首討論では岡田克也は日本国憲法の三大理念のうちの「平和主義」のみを取り上げたが、安倍晋三が平和主義一つですら能書きを述べる以外満足に答えることができなかったのは、国家主体の自民党憲法となっているから、当然のことと見なければならない。

 その国家主体は自衛隊の海外派遣と集団的自衛権行使によって日本が戦前の日本国家のように経済大国としてだけではなく、軍事大国としても世界に於ける日本の地位・影響力を高めようと狙っている安倍晋三の国家主義の当然の反映でもある。

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安倍対志位党首討論、「デフレではない状況を作ることはできたが、デフレ脱却には至っていない」の言葉遊び

2016-05-19 11:29:08 | 政治


 昨日2016年5月18日、国家基本政策委員会合同審査会で安倍晋三と岡田民進党代表、志位和夫共産党委員長、片山虎之助おおさか維新の会共同代表それぞれの間で党首討論行われた。

 安倍晋三は相変わらず相手の質問に満足に答えずに、自分に都合のいいことばかりの発言する。その都合のいい情報を鵜呑みにする国民も多いようだ。

 志位和夫共産党委員長との遣り取りでも同じシーンを見受けることになった。発言は「産経ニュース」の書き起こし記事から引用した。読みやすいように適宜改行を行った。    

 共産党・志位和夫委員長「今日は消費税増税問題について首相の姿勢をただしたい。消費税を8%に引き上げて以来、日本経済の6割を占める個人消費は冷え込み続けている。

 増税から2年あまりが経過したが、個人消費は増税前に比べ一貫してマイナスが続いている。今日発表された今年1~3月期の数値でも個人消費は増税前に比べると実質で年額8兆円も落ち込んだままになっている。

 3月3日の参院予算委員会でわが党議員の質問に対し、首相は8%の引き上げで予想以上に消費が落ち込んだのは事実であり、予想以上に長引いていると認めた。予想が外れたことを認めた。その原因をどうお考えになっているのか端的に答えてほしい」

 安倍晋三「我々は平成24年12月に政権を担当して以来、デフレから脱却し、そして所得を増やし、また職を増やす。この挑戦を続けてきた。そしてデフレではないという状況を作ることはできたが、デフレ脱却には至っていない。デフレ脱却には至っていない中で、消費税を引き上げたことによって、いわばまだデフレマインドが残っている中において、消費について国民の皆さまが慎重になった。経営者の方々も投資に対して慎重になったのも事実だと思う。

 しかし、雇用においては、有効求人倍率においては47都道府県のうち46で1を超えているし、所得についてもベアが3年続き、またパートの皆さんの時給は過去最高になっていることは事実だ。

 雇用においても収入においても大きな成果が出ているのは事実だが、20年間続いてきたデフレ、世界にはこれをどう解決するかという教科書がないわけだから、新たな政策で臨んでいる。まだその道半ばでの消費税の引き上げにおいて、この消費の低迷が続いたと考えている」

 志位委員長「私は消費の落ち込みが予想以上になった原因について尋ねた。答えがなかった。総括も反省もないという態度だと思う。賃金が上がってきたと言うが、働く人1人あたりの実質賃金は4年連続マイナス、5%も目減りしている。なぜこんなに消費が落ち込んだのか。

 私は8%への増税実施直前の本会議の代表質問で、働く人の賃金が減り続け、ピーク時の1997(平成9)年に比べて70万円も減っていることを指摘し、このような経済情勢の基で増税を強行すれば、景気悪化の悪循環を引き起こすことは明らかだと述べ、増税の中止を求めた。それに対して答弁で、足下では雇用と所得は改善しているとして増税を強行した。

 長期にわたって働く人の賃金が減り続けているのに、その事実を見ようとせず追い打ちをかけるように増税をかぶせた。これが消費の落ち込みが予想以上になった原因といわなければならない。

 もう1問聞く。来年4月に予定されている消費税10%への引き上げについて、首相は国会答弁で、景気判断条項を削除した、従って消費税を上げるかどうかの景気判断を行うことを考えていないと繰り返し述べている。景気判断をしないということは消費税を10%に引き上げることで景気が悪化することが明白な場合であっても引き上げを行うのか。イエスかノーで答えてほしい」

 安倍晋三「まず実質賃金だが、足下の3月においては1人あたりの実質賃金においても1・4%のプラスになった。そして総雇用者所得でいえば、みんなの稼ぎだから、こちらで見た方がいい。先ほど申し上げた通り、110万人、新しい雇用を作っているわけだし、たとえば正規職員、正社員も26万人増えた。生産人口が減っている中で26万人増えるというのは結構大変なことだった。これは8年ぶり、前の安倍政権以来のことで、8年ぶりだということは申し上げておきたい。

 働く人が増える中においては、一人あたりの実質賃金はどうしても下がっていくわけだが、みんなの稼ぎで見る総雇用者所得においては名目はもちろん実質についても上がってきている。

 今、色々なことを指摘されたから、いくつか指摘をされた中においてその指摘を一つ一つお答えをしている。当然、1対1でやっているので私にも違うことをおっしゃっていれば反論する権利はあるので、反論はさせていただきたいと思う。

 そこで今申し上げたように、しっかりと実質賃金においても実質賃金というのは3%消費税を上げたから、その3%分を削られてしまうわけだから、そこで上げていくというのは大変だが、3月は1・4%プラスになったということはまず申し上げておきたい。その上で、消費税については先程来申し上げている通りで、リーマン・ショック、あるいは大震災級の影響のある出来事がない限り予定通り引き上げていく方針に変わりない」

 志位委員長「「私が聞いていることにお答えになっていない。リーマン・ショックか大震災のような事態にならなければ景気悪化が明白な場合でも上げるというのか。イエスかノーで。早く答えてください」

 安倍晋三「イエスかノーかという単純な問題でなく、これはそういう状況が起きているのか、そういう影響が出てくるのか問うことについては専門家の皆さんに分析をしてもらわなければならない。お互い時間を守って、時間が来たら終わらないと、私ももっとしゃべらさせていただかなければならないということになるので、今申し上げた通りだ」

 志位委員長「結局否定しなかった。結局消費税8%への引き上げで増税不況を引き起こしておきながら、想定外の一言だけでまともな総括も反省もない。消費税10%への増税に当たっては景気判断すらしない。そんな国民生活に無責任なことはない。10%への引き上げはきっぱり中止することを求める。そして富裕層と大企業に応分の負担を求めて税制改革によって暮らしを支える財源を作るべきだということを求めて終わる」

 厚労省4月5日発表の2月の「毎月勤労統計調査」によると物価の影響を加味した働く人1人当たりの実質賃金は0・4%増加、4カ月ぶりに給与の伸びが物価の伸びを上回り、プラスとなっているし、5月18日内閣府発表の2016年1〜3月期国内総生産(GDP)速報値は物価変動の影響を除いた実質で前期比0.4%増(年率換算1.7%増)と2四半期ぶりのプラス成長となっていて、GDPの過半を占める個人消費は前期比0.5%伸びている。

 いわば景気に関わる各指標が上向いていることを示している。

 だが、個人消費は外食やレジャー関連への支出が中心だと各マスコミが伝えていて、基本的な衣食住以外への支出に余裕のある層が主として担った個人消費ということになって、各所得階層を超えて国民全般に亘る消費ではないことが分かる。

 この点にもアベノミクスが格差ミクスであることを窺うことができる。

 対して志位委員長の主張は、個人消費は増税前に比べると実質で年額8兆円も落ち込んでいて、日本経済の6割を占める個人消費は冷え込み続けている。働く人の賃金はピーク時の1997(平成9)年に比べて70万円も減っている。10%増税を中止して、富裕層と大企業に応分の負担を求める税制改革によって暮らしを支える財源を作るべきではないかというものである。

 要するにいくら各指標が少しぐらい上向いていたとしても、焼け石に水ではないかと主張していることになる。

 対して安倍晋三は「デフレではないという状況を作ることはできたが、デフレ脱却には至っていない」ことから消費税増税によって国民は消費に、経営者は投資に慎重になっている状況の中で雇用を110万人増やし、パートの時給を過去最高とし、非正規社員がどのくらい増えたかは言わずに、生産人口が減っている中で正規社員が26万人増えた、3月の1人当たりの実質賃金は1・4%のプラス、みんなの稼ぎで見る総雇用者所得においては名目は勿論、実質についても上がってきていると主張、アベノミクスの健闘を讃えている。

 果たしてどちらが正当性ある主張とすることができるのだろうか。

 安倍晋三は常々雇用者の所得は実質賃金よりも総雇用者所得で見るべきだと主張している。志位委員長に対しても「総雇用者所得でいえば、みんなの稼ぎだから、こちらで見た方がいい」と言って、総雇用者所得の伸びをアベノミクス健闘の一つの要因に挙げている。

 但し総雇用者所得とは所得税や社会保険料、組合費などが差し引かれる前の毎月決まって支給される給与総額――毎月の「現金給与総額」に雇用者数を掛けた所得である。

 要するに雇用者の中には月々1千万円以上の現金給与を受取る者もいれば、月15万円以下、10万円以下の現金給与しか受取ることができない雇用者もいる。円安と株高で自社が最高益を記録したことから、その報酬が一挙に何千万円と増えて、1億、2億といった高額を得ている会社経営者が現実に多数存在し、一方に全然給与が増えない年間所得が100万、200万の生活者が厳然として存在する以上、総雇用者所得の伸びは主として前者が担っていることになって、一般生活者の所得事情の実態を反映していないことになる。

 にも関わらず、実質賃金よりも総雇用者所得の経済指標を重視しているとうことは各個人の経済よりも総雇用者所得という形で国単位の経済の全体性に価値を置いているということであって、このことは国民の生活よりも国家の経済を優先させる安倍晋三の国家主義の構造をそのまま反映した価値観と見ることができる。

 国民の生活に焦点を当てているわけでなないにも関わらず、アベノミクスの健闘を主張するために「デフレではないという状況を作ることはできたが、デフレ脱却には至っていない」中での消費税増税が個人消費を抑え、企業の設備投資を控えさせている理由としていつまで挙げ続けるつもりなのだろう。

 安倍晋三は 2015年2月12日の施政方針演説で次のように公約している。
 
 安倍晋三「デフレ脱却を確かなものとするため、消費税率10%への引上げを18カ月延期し、平成29年4月から実施します。そして賃上げの流れを来年の春、再来年の春と続け、景気回復の温かい風を全国津々浦々にまで届けていく。そのことによって、経済再生と財政再建、社会保障改革の三つを、同時に達成してまいります」――

  2015年9月24日の自民党両院議員総会後の挨拶ではデフレについて次のように述べている。

 安倍晋三「アベノミクスによって、雇用は100万人以上増えました。2年連続で給料も上がり、この春は、17年ぶりの高い伸びとなりました。中小・小規模事業者の倒産件数も、大きく減少しました。

 もはや『デフレではない』という状態まで来ました。デフレ脱却は、もう目の前です」――

 消費税率10%増税延期によって「もはや『デフレではない』という状態まで来た」、「デフレ脱却は、もう目の前だ」と高らかに宣言している。

 2015年10月7日の第3次安倍改造内閣発足記者会見。

 安倍晋三「安倍政権発足から1000日余りが経ちました。アベノミクスにより雇用は100万人以上増え、給料は2年連続で上がりました。もはやデフレではないという状況をつくり出すことができました。国民の皆さんの努力によって日本は新しい朝を迎えることができました」――

 その他の機会にも「もはやデフレではないという状況をつくり出すことができた」と宣言している。

 では、「もはやデフレではないという状況を作ることはできたが、デフレ脱却には至っていない」状況とはどのような状況を指すのだろうか。

 「もはや」という言葉には「既に」という意味がある。「もはやデフレではないという状況を作ることはできた」とは、「既にデフレではないという状況に到達した」ということを意味させているはずだ。

 にも関わらず、「デフレ脱却には至っていない」と言うのは前後相矛盾した状況を並立させていることになる。

 非常に貧乏だった人間が一生懸命働いた末に、「もはや(既に)貧乏ではないという状況を作ることができたが、貧乏脱出には至っていない」と言ったなら、矛盾も何もない正確な表現とすることができるだろうか。
 
 消費税増税は計画表の中に予定されていたスケジュールだったはずだ。この党首討論で岡田克也が触れているが、2016年1月10日の当「ブログ」でも取り上げているが、2014年11月18日の解散宣言の「記者会見」で「アベノミクスで消費税増税ができる状況を作り出す」と公約している。

 安倍晋三「来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。3年間、3本の矢を更に前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。私はそう決意しています」

 つまりこの発言はデフレ脱却の宣言でもある。

 第2次安倍政権発足時に既に消費税増税は予定されていたスケジュールであり、2014年11月18日の解散宣言の記者会見で確実なデフレ脱却を宣言しながら、個人消費も企業の設備投資も満足な伸びをつくり出すことができていないということは、そのような状況下であってもアベノミクスの健闘を描き出すために「デフレではないという状況を作ることはできたが、デフレ脱却には至っていない」という口実を毎度毎度使っていることになる。

 要するにデフレ脱却を散々に公約しておきながら、「デフレではないという状況を作ることはでき」なかった。そのように見ることによって、「デフレ脱却には至っていない」を何ら矛盾のない首尾一貫した状況とすることができる。

 このような言葉をいつまでも口実に用いているということは自身のデフレ脱却の政策の失敗を隠すための詭弁にも等しい言葉遊びに過ぎないということであるはずだ。



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おおさか維新の会足立康史は安保関連法廃止法案提出の民主党批判を通して法案支持の国民をアホ呼ばわりした

2016-05-18 06:25:54 | 政治
 


 民進党をアホ呼ばわりして、おおさか維新の会から今国会中の謹慎を言い渡された同党所属衆議院議員足立康史が5月16日(2016年)、都内で開いた若者と政治の交流の場を企画する「日本若者協議会」で、「アホは敬称だ」と釈明したと5月16日付け「産経ニュース」が伝えている。    

 足立康史「関西ではアホは敬称だ。関西で最も尊敬されている方の一人に『アホの坂田』さんがいる。だからアホは敬称だ」

 足立康史は「アホの坂田」こと坂田利夫に接するように民進党に接してアホ呼ばわりしたわけではあるまい。坂田利夫はアホを売り物にしてお笑いを取って、それでナンボの稼ぎを職業としているお笑い芸人である。

 民進党はアホを売り物にしているわけではない。至って真面目にそれなりに多くの国民の支持を得ている。前者に対しては「敬称」に値するかもしれないが、後者に対しては決して敬称に値しない。蔑称として使っているはずだ。

 単にゴマカシしたに過ぎない。若者と政治の交流の場で若者に詭弁を弄した。その詭弁に詭弁と気づかずに乗っかった若者もいるかもしれないが、どれ程に失礼な態度だったかは自身は自覚もできない。

 年齢は50歳。学歴は京都大学工学部卒、京都大学大学院工学研究科修士課程終了、コロンビア大学大学院修士課程終了。年齢・学歴なりの良識を弁えているはずだが、自身の民進党に対するアホ呼ばわりが実際には安保法案反対の国民をもアホ呼ばわりしていることを心得ることすらできない。

 立派な学歴の全てが学歴詐称でないことを願う。但し国会という場で年齢・学歴が役立っている良識ある態度を取ることができない点、ある意味では学歴詐称の人間ということができる。

 民進党をアホ呼ばわりしたイキサツを簡単に纏めるために「Wikipedia」記事を利用することにする。 

 民進党への暴言

 2016年4月7日、衆議院総務委員会において、「民進党はあほじゃないか。あほです。あほ」などと発言した。この発言には委員長の遠山清彦から「発言は良識の範囲内で」と注意をされたが、それでも態度を改めず「こんな政党は日本の恥だ。あほ、ばか、どうしようもない」と続けた。4月8日に懲罰動議が提出され、おおさか維新の会の遠藤敬国対委員長は品位を欠く不快な発言で、本人に注意したと衆院議院運営委員会理事会で説明したものの、足立は「事実誤認はない」として議事録からの削除を拒否。民進党が懲罰動議を提出した事自体が懲罰に値すると発言した。4月21日には衆議院総務委員会で「民進党は(熊本地震対応の)足を引っ張っている。ふざけるなよ、お前らホンマに」といった発言を繰り返した。

 この発言について、民進党は22日、足立に対して三度目となる懲罰動議を提起した]。おおさか維新の会の馬場伸幸幹事長は「特定の個人を侮辱するような不適切発言については党としても遺憾だ」と強調し、今国会中は足立氏を質問に立たせない方針も明らかにしたが、民進党に対する謝罪は拒否した。

 ところが25日、足立不在の中で、おおさか維新の会の馬場幹事長は「誹謗中傷というような発言を繰り返しまして、きょうはそのことについて謝罪にお邪魔した」と公式に謝罪、民進党の枝野幸男幹事長は「単なる批判とか意見の違いを超えている」「国会の権威に関わる。二度とないようにしてもらいたい」と発言した。

 5月15日、足立は東京都内で「関西ではアホは敬称だ。関西で最も尊敬されている方の一人に『アホの坂田』さんがいる。だからアホは敬称だ」と釈明した。

 4月8日付「J-CASTニュース」は、〈「本題」の政策に関する質問はほとんど行わず、持ち時間の大半を民進党と共産党の批判に費やすという有様だ。この人物、過去の夕刊紙の取材では自らを「ヤジ帝王」だと表現するほどの人物で、まったく批判を意に介していない様子だ。〉と足立康史評を紹介している。  

 2016年4月7日総務委員会。「国会会議録検索システム」には総務委員会の4月分として4月5日と4月14日の質疑のみで4月7日の質疑はなぜか載っていない。

 足立康史「だいたいね、廃止法案が対案だと言って胸張ってる民進党って、アホじゃないかと思いますね、ほんとに。あのね、アホです、アホ。あのね、あほはダメ?じゃあ、うそつきって言ったらいいんですか?うそつき、うそつき、うそを塗り固めた」

 足立康史「こんな政党は本当にね、もう、国会の、もう本当に何と言うのかな...、もう、本当に日本の国会の恥ですよね、恥。嘘つき、アホ、バカ、もう、どうしようもない政党です。

 民主党と共産党が言っていることを認めたら、日本の国会はムチャクチャになりますよ、日本の国もムチャクチャになりますよ。実際にあの民主党政権の3年間で福島も沖縄もムチャクチャになったでしょう?それを私は皆さんに分かるように言ってるんです。それだけですよ」――

 如何なる政党も支持者の存在無くして成り立たない。それなりの支持者を得なければ、国会という場で国民の負託に応えることはできない。2014年総選挙の小選挙区で自民党約2500万票に対して当時の民主党は約1200万票獲得している。

 その差は大きくても、約1200万人の国民が民主党の後ろに控えていると見なければならない。その政策や政治家としての発言を批判したり非難したりするのは自由だが、政党そのものをアホ呼ばわりするのは、その政党を支持している国民をもアホ呼ばわりすることに変わりはない。

 アホを支持するアホと言うわけである。

 安保関連法廃止法案提出の民主党がアホだと言うなら、廃止法案支持の国民をもアホ呼ばわりしたことになる。

 そのような資格が足立康史にあるだろうか。

 実際に京都大学工学部卒、京都大学大学院工学研究科修士課程終了、コロンビア大学大学院修士課程終了の学歴を得ていたとしても、それが役に立っていなければ、学歴詐称の部類に入る。

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読売世論調査:安倍政権の熊本地震対応「評価する」56%は政府の災害対応をチョロイものとする

2016-05-17 10:05:20 | 政治

 
 読売新聞社が5月13~15日の「全国世論調査」では安倍内閣支持率は前回4月調査よりも3ポイント上昇、53%となっている。理由は二つ。熊本地震に対する政府対応への評価とオバマ米大統領の広島訪問への評価だそうだ。  

 熊本地震政府対応

 「評価する」56%
 「評価しない」30%

 オバマ広島訪問

 「評価する」93%

 熊本地震の安倍政権の対応を56%もが評価すると見ている。東日本大震災に於ける菅無能の粗悪な危機対応をインプットされ、学習しているから、その反動で立派に見えている部分もあるに違いない。

 だが、自民党にしても菅無能の危機対応をインプットし、学習していたはずである。

 学習とは突き詰めると、「人の振り見て我が振り直せ」(他人の行動を見て、良いところは見習い、悪いところは改めよ)のことを言う。

 つまり安倍政権は熊本地震で東日本大震災菅無能粗悪危機対応に優る危機対応を見せなければ、インプットした意味を失うことになるし、学習したことにならない。

 〈東日本大震災から5年がたったのに合わせ、当時の政府の初動対応を検証してきた自民党の作業チームは、「防災庁」のような独立した組織を設けることも視野に、災害対策を担う専門的な人材の確保を図るべきだなどとした報告書をまとめました。一方、今回の熊本地震については、救援物資が行き渡らないケースがあったことから、政府や事業者などのさらなる連携が求められると指摘しています。〉と5月15日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 救援物資が行き渡らなかった原因は避難者や避難所の状況が十分把握されなかったからだとしている。

 これは政府には関係ない自治体の責任範囲内なのだろうか。

 どのような報告書なのか自民党のサイトにアクセスして探してみたが、見つけることができなかった。

 別の「YOMIURI ONLINE」記事では、報告書は安倍内閣の対応については「初動対応体制の構築は迅速だった」と評価していると異なるの書きぶりとなっている。

 と言うことは、救援物資が行き渡らないケースを招いた避難者や避難所の状況の把握に十分に能力を発揮できなかった責任は安倍政権になく、自治体にあるとしていることになる。

 だが、このような事態を招いたのは東日本大震災でも経験したように通信の途絶、交通の途絶(道路決壊や橋の崩落、これが原因した交通渋滞等々)、地震対応の仕事が一挙に増えたことで発生した自治体職員の人手不足等であって、自治体の手に負えない部分を補うのが政府の責任でもあるのだから、一人自治体に責任を科すのは無責任そのものである。

 2016年5月16日付「毎日jp」記事が〈熊本地震 捜索・医療にも支障…緊急道寸断》と題して次のように伝えている。 

 熊本地震によって熊本県指定の救助隊や救援物資の輸送に使われる緊急輸送道路(緊急道)が50カ所で通行止めが発生、橋や路面の被害、沿道の建物の倒壊などが相次ぎ、物資の輸送だけではなく、捜索活動にも影響が出たと伝えている。

 熊本県南阿蘇村では阿蘇大橋の崩落や土砂崩れの多発により、熊本市方面と南阿蘇村をつなぐ緊急道が各地で寸断、そのため5人が土砂崩れに巻き込まれた高野台団地では重機が届かず、初日に現場にたどり着いたのは途中から徒歩で入った自衛隊や警察などを含めても50人ほどで、手作業で捜索を続けたが、手がかりは得られなかったと言う。

 数百人規模の捜索態勢が組まれたのは翌日。5人の遺体を見つけることになった。当然、悔いは残る。「道路が使えればもっと早く人手を確保できたはず」 とその声を伝えているが、道路が使えなくても、重機は自衛隊のヘリコプターで運搬すれば運び込むことができる。
 
 重機は道路を走らせて運び込むもだとの固定観念から抜け出すことができなければ、道路が寸断すると、お手上げ状態となる。

 何日か前の「ブログ」に、〈2008年6月14日発生の岩手・宮城内陸地震では宮城県栗原市の旅館「駒の湯温泉」が土石流に飲み込まれて客や従業員ら7人が犠牲になったが最後の2人の捜索に政府は自衛隊の大型ヘリを使って掘削容量0.4平方メートルの重機(機体質量8トン強)を地震発生12日後にやっと運び込んでいる。  

 それまでは道路が寸断されていて重機は搬入できないとして、自衛隊員が手作業で捜索に当っていたが、満足に捗らせることができなかった。2次元的水平方向ばかり見ていて、3次元的垂直方向を見る目を持たなかった。〉と書いたが、菅無能はこの自衛隊大型ヘリコプターの重機運搬を東日本大震災で通信の途絶、交通の途絶、自治体職員の人手不足が生じた際の食料や飲料水、医薬品、その他生活用品の支援物資の配送に活用すべきを何ら頭にインプットせず、学習することができなかったために通信の回復、交通の回復を待つまで支援物資配送の遅れを解消させることができなかった。

 自治体職員の人手不足解消は日本各地の自治体職員を順次送り込むことで時間をかけることになった。

 そして安倍政権も支援物資や行方不明者の捜索に於ける対応は東日本大震災の二の舞を演じた。

 ヘリコプターを通信が途絶した場合、自衛隊員がロープを伝わって降りて必要な情報を集めて、その情報を無線で順次伝えることで通信手段に活用することもなかったし、交通の途絶場所での支援物資の輸送や重機運搬に活用することもなかった。

 何よりも問題なのは熊本地震の被害の規模が東日本大震災の被害の規模よりも小さかったにも関わらず救援物資の配送遅れを生じさせたことである、

 東日本大震災の最大時の避難者数は約40万9千人だそうだが、熊本地震は4月16日未明の震度7の地震後、避難者は最多で18万3882人、4月19日には約11万7千程度に減っている。

 死者・行方不明者の人数も桁違いに差がある。前者の捜索に要したエネルギーは途方も無く大きかったはずだ。

 安倍政権は以前の地震に対する各政府対応をインプット、学習して、その情報を災害の都度定番化している避難所の物資不足に対応させることもできなかったし、同じく定番化している通信の途絶、交通の途絶、自治体職員の人手不足にも迅速に対応させることができなかった。

 だが、読売新聞の世論調査では56%が政府対応を評価し、内閣支持率上昇の力の一つとなっている。

 このような大目に見るような評価は政府の災害対応をチョロイものとするに違いない。その犠牲となるのは国民であり、特に社会的弱者にそのシワ寄せが及ぶということを忘れてはならない。

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東京オリンピック招致:日本人の正直な精神をウリの一つとしながら、それを体現できなかった送金疑惑

2016-05-16 06:36:27 | Weblog


 2013年5月30日、当時の東京都知事猪瀬直樹はロシア・サンクトペテルブルクで開催された国際会議「スポーツアコード」で2020年東京オリンピック開催に向けた招致プレゼンテーションを行っている。

 猪瀬都知事「もし皆さまが東京で何かをなくしたなら、ほぼ確実にそれは戻ってきます。例え現金であっても」 (MSN産経

 東京は安心・安全の都市で、日本人は正直で親切だとアピールした。

 そして東京都は五輪開催への準備基金として45億ドル(約4520億円)を既に用意しており、財政基盤が整っていると説明した。

 つまりカネに関しては大丈夫だと請け合った。

 約4カ月後の2013年9月7日、アルゼンチン・ブエノスアイレスで開催のIOC(国際オリンピック委員会)総会で最終プレゼンテーションが行われた。

 自身のプレゼンテーションを終えた猪瀬直樹が次のプレゼンテーター滝川クリステルを紹介。

 猪瀬都知事「滝川クリステルさんが、皆様にもっとお伝えします。彼女はフランス語で話します」

  そして滝川クリステルは次の言葉から入っていく。

 滝川クリステル「東京は皆様を、ユニークにお迎えします。

 日本語ではそれを『おもてなし』という一語で表現できます。それは、見返りを求めないホスピタリティ(思い遣り・心からのおもてなし)の精神、それは先祖代々受け継がれながら、日本の超現代的な文化にも深く根付いています。
 『おもてなし』という言葉は、なぜ日本人が互いに助け合い、お迎えするお客様のことを大切にするかを示しています。ひとつ簡単な例をご紹介しましょう。

 もし皆様が東京で何かを失くしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。例え現金でも。実際に昨年、現金3,000万ドル以上が、落し物として、東京の警察署に届けられました」(同huffingtonpost)―― 

 日本人には「先祖代々受け継がれ」た「見返りを求めないホスピタリティ(思い遣り・心からのおもてなし)の精神」が根付いていて、それが日本人の「おもてなし」の心となって現れている。

 その一例が例えおカネを落としても、ほぼ確実に戻ってくる日本人の正直な心に宿している。

 と言うことは、2013年に遺失し戻ってきた現金3,000万ドル以上はほぼ遺失した金額に相当することになる。それ程にも日本人は正直である。

 2013年5月30日にサンクトペテルブルクで猪瀬直樹が喋った日本人の正直な精神を滝川クリステルは2013年9月7日のブエノスアイレスで、日本人の「おもてなし」の心で色付けしてほぼ同じことを喋った。

 いわば日本人の正直な精神をウリの一つとした2020年五輪東京決定でもあった。

 《平成27年中遺失物取扱状況》警視庁2016年3月31日)よると、現金の遺失届は約80億4千3百万円に対して拾得届は34億2千4百万、約43%の遺失現金届け率であったことは深く触れまい。 

 兎に角、2020年オリンピック・パラリンピック東京開催に向けて活動した東京オリンピック招致委員会関係者は日本人の正直な精神をウリの一つとした。その精神を体現して行動する責任を負ったことになる。

 5月11日(2016年)、イギリスのガーディアン紙が2020年東京オリンピックの招致委員会側から国際オリンピック委員会(IOC)委員側に130万ユーロ(約1億6100万円)が渡っていたと報じたことを日本のマスコミが伝えた。

 シンガポールの秘密口座を通してIOC委員で国際陸上競技連盟(IAAF)前会長のラミン・ディアク氏に渡ったとされる。

 「NHK NEWS WEB」記事は、〈ディアク前会長は、東京への五輪招致が決定した2013年9月にはIOC=国際オリンピック委員会の委員を務めていて、開催地の決定に影響力を行使できる立場にあったとみられます。〉と書いている。

 開催地はIOC委員による投票で決定するのだから、ラミン・ディアクは1票を投じることのできる立場にあり、その影響力を駆使して他の委員の投票を誘導し得る立場にもあった。

 菅義偉(5月13日閣議後記者会見)「フランスの検察当局から発表があったので、関係省庁との連携を図りつつ、政府として事実関係の把握にさらに努めていくと同時に、改めて、東京都、JOC=日本オリンピック委員会に対し事実関係をきちんと確認していきたい」

 遠藤利明オリンピック・パラリンピック担当相「東京都の招致活動は、各都市の中でいちばんフェアな活動をしているという評価をいただいたと自負しており、そういうことはないだろうと思っている。

 これまでも今回と同様の報道は何回かあり、東京都やJOCに確認したが、『そのような事実はない』ということだった。スポーツ庁が改めて確認するので、それを見守っていきたい」(NHK NEWS WEB) 

 舛添要一(5月12日宇都宮市内で)「我々が調べた限り、その事実はない。お金を払ったということはないと(担当から)聞いている」(時事ドットコム)  

 「そのような事実」はあるはずはない。東京招致に日本人の正直な精神をウリの一つとしたのである。その精神を自らが体現しないければ、正直であることの大切さを説きながら、自身は陰でウソをつきまくっている人間同然となってしまう。

 ところが「そのような事実」はあった。2001年から日本オリンピック委員会(JOC)の会長を努め、招致委員会で理事長を務めた竹田恒和が5月13日、東京都内で送金の事実を認めた。

 竹田恒和「業務に対するコンサルタント料で問題があるとは思っていない。招致活動はフェアに行ってきたと確信している」(47NEWS)  

 単なるコンサルタント料に過ぎないと言っている。では、なぜ遠藤利明オリンピック・パラリンピック担当相が「東京都やJOCに確認したが、『そのような事実はない』」と否定し、隠したのだろう。

 何ら後ろ暗いところのない、あるいは疚しさ一つない正規のコンサルタント料としての支払い行為なら、「招致活動の一環として支払いました」と言えば済むし、日本人の正直な精神をウリの一つとすることで負うことになったその精神を体現する責任果たすことにもなる。

 だが、そうだとは言うことができなかった。名目がいくらコンサルタント料だとしても、最終的には各国IOC委員に東京への投票を呼びかけることを目的とした活動資金である以上、それがどのように使われるかは日本の招致委員会が自ら乗り出して活動するなら把握できるが、他人任せの把握できない場所で1億6千万円ものカネを注ぎ込むとなったら、少なくとも1票を買うためのカネとならない保証はないことを予想しなければならなかったはずだからだ。

 結果的にカネが買収としての役目を果たしたかどうかは分からない。例え果たさなかったとしても、招致委員会はカネで東京への1票を買う意図は全然なかったと胸を張って堂々と言う資格はないことになる。

 東京招致実現のために日本人の正直な精神をウリの一つとしながら、自らがその精神を体現することができずに裏切ったのである。

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舛添要一の会計責任者に2、30万円プールして私的支出を行うシステムは政治活動費への付け替え可能が目的

2016-05-15 06:58:50 | 政治


 昨日のブログで東京都知事舛添要一の週刊誌報道による家族旅行のホテル宿泊代を会議費の名目で支出を行っていた疑惑に関わる舛添自身の釈明記者会見を取り上げた中で飲食店から白紙の領収書を受け取っていた問題について少々舌足らずな点があったから、少し説明を加えたいと思う。

 ご存知のように代金を支払うとき、最初に店のレジ係の操作によってレジスターがレシートを発行する。レシートには支出年月日と持間、支出費目、支出金額のみが印字されていて、宛名は印字されていない。但し領収書の発行を要請すると、同じレジスターが同じ支出内容の領収書を打ち出してくれる。

 そこには「領収書」と印字されているが、宛名は書いてない。こちらの要請でボールペンで「上様」と書き入れてくれたり、こちらの会社名、あるいは姓名をきちんと書き入れてくれる。

 つまり舛添要一は店のレジ係に宛名を書くことを要請せずにそこが白紙状態のままの領収書を受け取っていたのである。家族で食事した代金であっても、後で政治団体の名前を書き込んで、政治活動費として処理することもできる。

 舛添要一は会計責任者に自分のカネを20万から30万プールしておいて、そこから自身や家族の私的な支出代金を支払うシムテムを取っているという。その理由を次のように述べている。

 記者会見の発言は「産経ニュース」記事を再び利用する。 

 舛添要一「それも、だから、封筒に30万円なら30万円置いてやっているというのは、ずっと長年、やってきているのです。というのは、なかなか、常に人が付いていて、やはり公職の立場にあると、議員からというより大体みんな秘書が払うということがあるので」

 要するに国会議員であれ、都知事であれ、秘書が付いているのに自分から立ってレジのところで自身の財布から出したカネを直接支払うのは格式に関わるから、会計責任者なり秘書なりに20、30万円預けておいて、その中から支払わせるということなのだろう。

 舛添要一「それは、私自らが払うこともあります。家族で行ったら女房が払うこともあると思います。それから、私が動くときに、私だけということよりも、秘書が大抵一緒に、国会議員のときも付いています。それから運転したりもしていますので、例えば、家族だけで食べるときも、われわれが食事のテーブルに着いたら、もう秘書は帰っていくと。それで、ほかのテーブルで来ている場合などは、秘書がまた迎えに来てくれて、車なんか運転してきますから、もうそこで、お金を払ってしまうわけです」

 秘書が付いていないときの私的な支出は舛添自身なり女房なりが支払うが、秘書がいる場合は例え家族の食事代であって、プールさせておいたカネから秘書が支払うこととしている。

 だがである、秘書が迎えに来たなら、テーブルに呼んで、自分の財布からカネを渡してもいいわけである。秘書がいないときはそうしているのだから。

 私的な飲食代に限らず、全ての私的支出に関してそうしていたなら、わざわざ20~30万円とプールしておかなくても済む。

 だが、そういったことはせずに領収書を要求して宛名書きの欄が白紙の状態のままで受け取っていた。

 記者「収支報告書を訂正すると発表されたが、まず、なぜミスが起きたのかというのをもう少し詳しく。私的な会食が誤って政治活動として記載されたのは、会計責任者のミスということだが、会計責任者はその会合に出席していたのか。領収書はどのようにしてその会計責任者に渡ったのか」

 舛添要一「少し話を整理して申し上げることになるかもしれませんが、私はどんな買い物をしても領収書を取るのです。そして、分かりやすく言うと、箱が2つあると思ってください。そして、政治資金で、仕事のために使う文具とか、ファイルとか、これはもう当然そこから出ます。私は個人のお金も、例えば20万円とか30万円とかプールしておいてあるわけです。そして、そこから支出した場合、取っていく。そうすると、会計を担っている人は、両方の領収書を処理するわけです。

 そして、基本的には、買い物行きますと、レジから出てきて、ほとんど何様と(宛名が)書いていないものがほとんどです。会計責任者が『これは政治活動の事務用品だ』と(判断すると)、そこに政治団体のはんこを押すというような形で処理をする。

 私のは、それ(=押印)はしないのですけれども。30万円預けていますと。ところが、自分のを使って、そのとき秘書が買ってきたり、私が買ってきたりとか、いろいろありますけど、いくらぐらいプールしているお金がなくなるかということで、30万円だったのもあと3万円ぐらいになったと。『じゃあ、先生、ちょっと足りないですから、また30万円出してくれ』。こういうやり方をしていたわけです。

 それで、先ほど少しお話ししたように、そうするとやはり、毎日その領収書の仕分けをやればいいのですけれども、1週間にいっぺんとか、下手すると2週間にいっぺんとか。だけど、私がどういう行動をしているかというのは事務所の人はみんな知っていますから、『これはあのときの政治活動だな』と(判断して)、こっちに振り分ける。そういうときに勘違いとかがあって、数件ですけれども、(誤処理が)出てきたということなので、先ほど申し上げたように、どういうふうにシステムを変えるかと。人間ですから、100%ミスがないということはないと思います。だから、私は会計責任者を責める気はありません」

 この説明で2、30万円を会計責任者なり秘書に預けて私的支出を補うシステムは十分に理解できる。だが、舛添要一が受け取った領収書の端に私的支出なら、「私的」とでもボールペンで書き入れて、その字を丸で囲って、私的支出の意味を持たせ、政治活動としての支出なら、「政」とでも書いて、同じように丸で囲って公的支出の意味を持たせなたなら、勘違いしようがなくなる。

 都知事が常にボールペンなり万年筆なり、筆記用具を持っていないということはあるまい。もし持っていなければ、レジに借りればいい。

 また秘書がプールしたカネの中から支払う場合でも、領収書に同じことをすれば、勘違いを避けることができる。

 こういったことは会計処理をきちんと心がける人間なら誰でもしていることである。

 だが、そういったこともしていなかった。

 舛添は自身が代金を払ったときの領収書の扱いについて説明している。
 
 記者「知事自身がもらった領収書というのは、その後どのように処理されているのか。2つの箱という話もあったが、ちょっと抽象的で分かりづらい」

 舛添要一「何度も説明していますように、プールしているお金がある訳です、30万円なら30万円という。そこから払っていく訳ですから、そのお金がいくら減っているというのが分かるように、会計責任者が私から領収書を取るわけです。だから、プールしたお金という制度でなければ、そういう領収書を出さなくて済むので、そういう形で変えることができるか検討したいと」

 記者「知事自身が支払った領収書は、どう処理されたのか。どこかで捨てないといけない」

 舛添要一「それは捨てていますよ。いや、それは捨てていますよというのは正確ではないので、明確に私が、例えば本屋で政治活動のために使った本があれば、それは政治資金の方から出してもらうと。基本的に、この買い物をするときには3万円なら3万円の範囲で。それはプールしたお金からそれを持って行きますから、その3万円から領収書分を引いていくという。

 手間は手間なのですけれども、私自身は細かい点を気にしないで済む。そこから先は、会計責任者が『この領収書は要らないな』というのは、捨てていく。そういうプロセスです」

 この「それはプールしたお金」と言うのは政治活動費としてプールしてある政治資金という意味ではなく、私的支出として預けである20~30万円のプール金という意味なら、矛盾することになる。

 秘書が付いていなくて自身が一人で買い物をしてその代金を支払う場合はわざわざ会計責任者からプールしたカネの中から必要と思われるカネを受け取って買い物に行き、領収書を受け取って釣りと共にだろう、会計責任者に渡して支出としての証拠として残して、政治資金としての収支を合わせていくいう方法を取っていることになる。

 誰もがしていることであろう。

 だが、この方法を私的支出にまで応用している。しかも領収書を受け取りながら、宛名を空白にして。

 以上のなぜに答え得る唯一の整合性を見つけるとしたら、私的支出に関してまでわざわざカネをプールしておくシステムを用いているのは、宛名書きがカラの領収書を受け取っていることが有力な傍証となるはずで、政治活動費への付け替えを可能とすることを目的としているとからとしか見ることができない。

 当然、公的支出であっても、かなりの錬金術が巧妙に行われている可能性がある。

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舛添要一の正月家族旅行の「会議費」名目支出から浮かんでくる政治家像はカネに汚い錬金術士の姿のみ

2016-05-14 12:41:05 | 政治


 5月11日発売の週刊文春が舛添知事の既に解散した政治団体が知事就任前に千葉県内のホテルに会議費の名目で行っていた支出について実際には家族旅行だった疑いがあると報じたことから、いわゆる“カネの問題”がついてまわる舛添の新たな金銭疑惑かと世間を騒がすことになった。

 具体的には2013年と2014年いずれも1月に千葉県木更津市のホテルに家族と宿泊していながら、合計37万円余りを会議費の名目で支出していたということらしい。

 ネットで調べたところ、ホテルは千葉県木更津市にある温泉ホテル「竜宮城スパホテル三日月」という名の超豪華ホテルだそうだ。プールやその他のレジャー施設をいくつか備えていて、正に正月に行けば、思う存分の羽伸ばしができる。

 一度のホテル宿泊代は平均すると16.5万円。なかなか豪勢なカネ遣いである。但し政治資金から支出したとなると、タダと言うことになって、これ程安い遊興費はない。

 舛添要一は5月13日の定例記者会見でこの金銭疑惑について説明し、記者の質問に答えた。記者会見の動画は1持間50分も長いものだから、家族旅行のホテル宿泊代を会議費名目で支出したとされる疑惑に関わる説明の妥当性と、家族の飲食代にカラ領収書受け取っていた疑惑い限って、「産経ニュース」から見てみる。  

 舛添要一「そこで、調査内容でございます。順次お話をいたします。まず、ホテルの会議費用について、ご説明を申し上げます。グローバルネットワーク研究会、これは以下、研究会と申し上げさせていただきますが、これは平成26年に解散しております。平成25年1月3日、この支出額は23万7755円でございます。及び、平成26年1月2日、この支出額は13万3345円の各支出につきましては、いずれも同ホテル内の宿泊していた部屋に於いて事務所関係者らと会議をしております。
 平成25年につきましては直前の総選挙、平成24年12月16日に行われました。その直前の総選挙結果の総括、それから、及び平成25年7月に予定されている参議院選挙への対応について、そして、翌年の平成26年につきましては、その直後に出馬表明をすることになった東京都知事選への対応につき、それぞれ会議を行っています。

 ただ、会議に使用していたとはいえ、家族と宿泊していた部屋を利用していたことから、ご懸念を招いたことにつきましては、反省をしております。今後、同様の状況があるとしたら、誤解を招かぬように、別途会議に使用する部屋を借りるなどしたいと思います。以上のような観点から、この2件の会議費につきましては、収支報告書の訂正、削除をした上で、返金することといたしました」――

 情況証拠でしかないが、以上の発言を見ただけでも疑惑満載である。

 会議費の名目で支出ということなら、メインは会議で家族の宿泊をそこに組み込んだことになる。

 だが、ごくごく一般的には特に正月3が日内のホテルへの家族の宿泊ということなら、1年の家事、1年の仕事から一切解放されて精一杯羽根を伸ばすといったパターンが常識であろう。

 しかも1週間や10日といった長逗留だったわけではない。平成25年1月3日は2泊、平成26年1月2日は1泊だけと後で説明している。羽伸ばしに向けられるべき正月のホテル宿泊での、その羽伸ばしを会議をメインとして借りた部屋で行わなければならない。

 誰が考えても、ここには矛盾が存在する。

 但し記者との質疑での発言を見ると、メインは家族の宿泊で、会議をそこに組み込んだことになっている。

 記者「家族と宿泊されている部屋でも会議もしたとのことだが、知事の認識の中で、これはプライベートと思われているのか、仕事だったのか」

 舛添「それ、今ご質問出ましたから、少し説明させていただきます。先ほども少し簡単に言いましたけれども、まず、分かりやすいというか、記憶の新しいところから言いますと、平成26年1月2日なのですが、日にちを見ていただければ分かりますが、その数日後に都知事選に手を挙げたわけです。それで、いつまでに手を挙げないと間に合わないという、これ、のんびりしていたらもう立候補期限が切れます。それから、支持してくださる政党がどこだと。それから、特に公約です。どういう公約で、手を挙げるなら、立候補するならどうだということをやらないといけません。

 ものすごく緊急かつ重要な案件であるわけです。ただ、この日ぐらいしかやる日がないと。ただ、せっかくの1日、2日の正月の休みで、子供たちに約束をしておりましたので、そこは取って、それはちゃんと行きますと。ただ、非常に政治的に機微にかかわる話ですから、会議室を取ってやるようなことではなくて、大きなお部屋でありますから、そこで、それは1時間だったか、2時間だったか、終日だったか、ちょっと記憶しておりませんけれど、懸案のことを、公約はこうしましょうと。例えば自民党との関係はこうしましょうとかいうようなことも含めて、これはもう当然やらないといけないので、そういうことをやっていたと」――

 子どもたちに約束して、宿泊の予約を取っていた。大きな部屋があるから、会議を組み込んだという趣旨となる。

 つまり正月のホテル宿泊のメインは家族の羽伸ばしを目的としていた。

 会議の時間は「1時間だったか、2時間だったか、終日だったか、ちょっと記憶しておりませんけれど」と、短時間ではないことを証言している。

 家族の羽伸ばしを目的としたホテルの宿泊でありながら、同じ場所で短くはない持間の会議を開くことで家族の羽伸ばしに煩わしさを持ち込んだことになる。

 レジャー施設がいくつかあることから、家族が部屋を出てレジャー施設で持間を過ごしている間に会議を行ったということなら、家族の羽伸ばしを左程煩わすことはなかったかもしれないが、であるなら尚更に宿泊費は私費で支払わなければならないはずだが、会議費として支出し、会議をメインとしている。

 矛盾は一つや二つではないことになる。

 事務所関係者にしても正月は天下晴れての仕事休みの日である。その貴重な仕事休みの正月を往復の持間を足すと相当な持間となるだろうから、仕事に振り替えて拘束を受けることをどれ程に好むだろうか。

 ところが舛添は正月に家族をホテル宿泊に誘っておいて、同じ場所で会議を開くことで家族の羽伸ばしをいくらかは損なったばかりか、家族とも親しい気の置けない仲間を誘って飲み会やパーティの類いを開くならともかく、仕事を持ち込んで事務所関係者が味わうべき仕事からの解放気分を奪った。

 果たして普通の人間なら、そういったことをするだろうか。

 情況証拠をさらに挙げることができる。 

 平成25年1月3日の宿泊時の会議は平成24年12月16日投開票の総選挙結果の総括と平成25年7月に予定されている参議院選挙への対応、平成26年1月2日の宿泊時の会議は出馬表明をすることになった東京都知事選への対応。

 特に正月に行わなければならない、しかも家族が宿泊しているホテルの部屋で行わなければならない合理的理由は何もない。会議のメンバーは事務所関係者。グローバルネットワーク研究会の事務所で開くことで済ますことができる会議目的であるはずだ。

 何をわざわざ家族が宿泊しているホテルの部屋で開く必要があるだろうか。

 舛添は「日にちです。この日しかありませんでした。それに尽きます」と説明しているが、家族の羽伸ばしをメインとしたホテルの部屋に会議を無理に押し込んでいい理由とはならない。

 なぜなら、会議の開催はその日しかなかったとしても、羽伸ばしは家族に任せて、実際にも任せていたはずだから、場所は自身が移動して別に場所を設ければ済むからだ。

 だが、そうせずに、しかもホテルの宿泊代を会議費名目で支払った。

 どう考えても、正月の家族の羽伸ばしのホテル宿泊であったにも関わらず会議費名目で支出したことを正当化するために創作した会議としなければ、整合性がつかない。

 このことは会議に参加した人数を説明できないところにも現れている。

 記者「ホテルでの会議だが、それぞれ2回分、どういう人が何人来たのか」

 舛添「これは、今言った、非常に政治的な機微に関わることでありますし、相手方のプライバシーもありますから、これはお答えを差し控えさせていただきたいと思います」

 記者「人数もだめですか」

 舛添「ええ。それも差し控えさせていただきたいと思います」――

 「どういう人が」と素姓を聞かれたのだから、名前を明かさず、仕事も明かさず、どういった関係者だと答えることはできる。既に「事務所関係者」だと明かしているのだから、「事務所関係者です」と言えば済む。「それ以上は明かせない」と。

 人数にしても、会議が事実なら、名前を明かすわけではないから、言えないことはない。会議が事実でないとしても、人数はいくらでもウソをつくことができる。

 だが、言えないことはない、あるいはウソをつくこともできる素姓も人数も隠した。

 そうさせたのは事実でないことが露見することへの極度の警戒からだろう。それが実際に行った事実、実際に起きた事実ではなく、拵えた事実の場合は必要であるから拵えるのだから、拵えたとおりに話すことができても、拵えてない余分なことを言ってしまった場合、そこから事実が露見することが往々にしてあることを知っていて、余分なことは言うまいと極端に警戒する余り、言えることも言うことができない現象が生じる。

 勿論、この解釈は人間心理としてよくある場面の説明に過ぎないし、これまで述べてきたことは既に断っているように全て情況証拠に過ぎない。

 だが、次の遣り取りは同じ状況証拠であっても、明らかに事実に反することを言っていることが分かる。

 記者「自宅近くの飲食店をテレビ東京が取材したところ、『知事に白紙の領収書を渡した』という表現をされているのですが、精査の結果、そういったことはあったのでしょうか」

 舛添「先程言ったように、白紙というのは何も書いていないのではなくて、レジから出てくるではないですか、領収書が、今。そこに何も書かないわけです。何と書きますかと言って。それは私が貰ったのか、うちのかみさんが私的に貰ったのか、それから秘書が貰ったのか分かりませんけれども、お店によりけりだと思いますけど、普通、そのまま白紙というより、それは宛名が書いていないという意味なのです」

 記者「宛名や金額がという意味だと思うのですけれど」

 舛添「いや、それは絶対ありません。金額は書いていないようなことはありません。機械ですから」

 記者「宛名はあるかもしれないということですか」

 舛添「いやいや、むしろ宛名の、何々さまと書いてあるではないですか。そこにいちいち、何とか株式会社さまとか書かないということです。それが白紙なので。それをお店の名誉のために申し上げますと、まさか金額を書かないで、そんなこと、私、一度も経験ありません。これはもう、そういうことなのです」

 記者「では、『上』(様)とか、そういう形でも何も書いていない」

 舛添「『上』も書きません。先ほどもお話ししたように、例えばこれは研究会の名前が書いてあったりするわけです。それで例えば、私がもう全く家族と行ったりしたときには、(宛名に)何も書かないで、別に使うわけではないですから。何のために使っているかといったら、例えばそこで3万円のご飯を家族で食べたと。それはお金を預けてありますから、どれだけ減っているかということのチェックを会計責任者がやるためにやっているので、説明はそういうことでお分かりになったでしょうか」――

 単なるレシートではない。飲食店に行って料理を何か食べて支払った代金に対して金額は入れてあるものの宛名は書いてない領収書を貰う場合があると言っている。その理由として、「私がもう全く家族と行ったりしたときには、(宛名に)何も書かないで、別に使うわけではないですから。何のために使っているかといったら、例えばそこで3万円のご飯を家族で食べたと。それはお金を預けてありますから、どれだけ減っているかということのチェックを会計責任者がやるためにやっているので、説明はそういうことでお分かりになったでしょうか」と釈明している。

 大体が舛添家の食事代まで会計責任者が預かっているというのはおかしな話だが、預かっているが仮に事実とするなら、尚更に宛名は「舛添要一様」とし、但し書きに「家族食事代」と書き入れなければ、会計責任者は預かっているカネの費目別の収支計算はできないことになる。

 どうも予定外の質問で慌てて辻褄の合わない返事をしてしまったようだ。いわば質問を想定して虚偽の事実を拵えていなかったために矛盾した説明となってしまった。

 大体が税金をゴマカシたり、政治資金の収支報告をゴマカシたりするときによく使う手だが、家族で食事したにも関わらず宛名が白紙の領収書を手に入れて、白紙の宛先に経費で落とすことのできる宛名を書き込んだり、あるいは政治団体の名前を書き込んだりして税金で落とすか、政治資金で肩代わりさせる。

 もし金額まで入れていなかったとしたら、より悪質となる。「3万円」の家族の食事代を舛添要一の懐を些かも傷めずに政治団体の10万円の食事代に付け替えることもできる。

 情況証拠でしかなくても、舛添要一の説明から浮かんでくる人物像はカネに汚い錬金術士の姿のみである。

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安倍晋三の将来的必要性に備えて核保有の障害を取り除いておきながら、核兵器のない世界の実現を言うペテン

2016-05-13 08:57:44 | Weblog


 伊勢志摩サミット出席後の5月27日のオバマ大統領の広島訪問が決まったことを受けて、5月10日、安倍晋三が官邸で記者団の取材に応じた。

 昨日5月12日ブログに書いた発言を再び取り上げる。

 安倍晋三「日本は唯一の戦争被爆国として、2度とあの悲惨な体験を世界のどんな場所であっても、再び繰り返させてはならない、この思いで核兵器の廃絶を一貫して訴えてきた。今回、オバマ大統領が広島を訪問し、被爆の実相に触れ、その思いを世界に発信することは、核兵器のない世界に向けて大きな力になると信じている。そして、その世界を実現するために、オバマ大統領と共に全力を尽くしていきたい」(NHK NEWS WEB)  

 要約すると、「日本は唯一の戦争被爆国として核兵器の廃絶を一貫して訴えてきた。オバマ大統領の広島訪問は核兵器のない世界に向けて大きな力になると信じているし、核兵器のない世界を実現するためにオバマ大統領と共に全力を尽くしていきたい」となる。

 兎に角核兵器を廃絶するんだ、核兵器のない世界を実現するんだという強い思いを、ひしひしかどうか分からないが、伝えようと意欲を持たせた発言であるはずだ。

 そのような思いもなく以上の発言をしたなら、相当なペテン師である。
 
 当然、発言通りの強い思いなのかを検証しなければならなくなる。検証するために今年2016年4月11日にエントリーした当「ブログ」を取り上げなければならない。  


 2016年3月18日の参院予算員会。

 横畠裕介内閣法制局長官「憲法上、あらゆる核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない。(但し)核兵器に限らず、武器の使用には国内法、国際法上の制約がある」(時事ドットコム

 ここで言っている「国内法」とは一般武器使用に関わる今回改定された自衛隊法などを指しているのだろうが、核兵器保有に関わる国際法とは核拡散防止条約を指している。

 但し核拡散防止条約は第10条第1項で、〈各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する。〉と規定している。

 要するに核拡散防止条約よりも国家の安全保障を上に置いている。

 と言うことは、国家の安全保障を核拡散防止条約と必要に応じて取り替えることができることを意味していることになる。

 例え日本が核拡散防止条約の締結国であったとしても、条約よりも国家の安全保障の優越性が認められている以上、安倍晋三のように手段を選ばない国家の安全保障を金科玉条としている政治家にとっては核保有の制約は最終的には核拡散防止条約ではなく、日本国憲法が唯一カギを握っていることになる。

 その憲法が「あらゆる核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない」と、保有の制約を取り外している。

 行く末はこれまでの経験から言っても、日本を取り巻くことになる安全保障環境に先手先手を打つ形になることは目に見えているはずだ。

 憲法や法律についての内閣の統一解釈は内閣法制局が行い、その長である内閣法制局長官の見解は憲法や法律についての内閣の見解を代弁している。

 以上見てきたことから考えて、この日の午後の官房長官の記者会見で菅義偉は「日本が核兵器を使用することはあり得ない」といった趣旨の発言をしているが、核拡散防止条約が国家の安全保障の優越性が認めている以上、横畠長官の「禁止されているとは考えていない」は将来に対する備えを言ったはずだ。対立関係にある核兵器を所有する外国に対する安全保障上の対抗の必要可能性に備えて、現在から憲法は禁止していないことを国民に知らしめておくということであろう。

    ――中略――

 そして横畠長官の日本国憲法は核兵器の使用を禁止していない発言は安倍内閣の統一解釈だということである。

 このことは2016年4月の鈴木貴子の質問主意書に対して「憲法9条は一切の核兵器の保有や使用をおよそ禁止しているわけではない。しかし核拡散防止条約及び非核三原則に基づき、一切の核兵器を保有し得ない」(Wikipedia)とする答弁書を閣議決定していることが何よりの証明となる。

 この閣議決定にしても、核拡散防止条約や非核三原則よりも国家の安全保障を優先させていることを承知の(「保有し得ない」の(今回追記))禁止事項と見なければならない。

 このブログを書いた時には鈴木貴子の質問主意書も政府答弁書も衆議院の「質問答弁情報」に記載されていなかったために「Wikipedia」の記事を利用したが、現在記載されている政府答弁書から、必要個所を抜粋してみる。 
 
 我が国は、いわゆる非核三原則により、憲法上は保有することを禁ぜられていないものを含めて政策上の方針として一切の核兵器を保有しないという原則を堅持している。また、原子力基本法(昭和三十年法律第百八十六号)において、原子力利用は平和の目的に限り行う旨が規定され、さらに、我が国は、核兵器の不拡散に関する条約(昭和五十一年条約第六号)上の非核兵器国として、核兵器等の受領、製造等を行わない義務を負っており、我が国は一切の核兵器を保有し得ないこととしているところである。

 その上で、従来から、政府は、憲法第九条と核兵器との関係についての純法理的な問題として、我が国には固有の自衛権があり、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法第九条第二項によっても禁止されているわけではなく、したがって、核兵器であっても、仮にそのような限度にとどまるものがあるとすれば、それを保有することは、必ずしも憲法の禁止するところではないが、他方、右の限度を超える核兵器の保有は、憲法上許されないものであり、このことは核兵器の使用についても妥当すると解しているところであり、平成二十八年三月十八日の参議院予算委員会における横畠内閣法制局長官の答弁もこの趣旨を述べたものである。

 このように日本国憲法は「自衛のための必要最小限度」にとどまる限り核兵器の保有も使用も禁止していないとしている。

 そしてまた、「自衛のための必要最小限度」にも仕掛けがある。

 このこともかつてブロウに書いたことだが、今夏参院選で自民党の推薦を受けて神奈川選挙区から立候補予定の元みんなの党、現在無所属の中西健治(52)が2015年6月9日、質問主意書で政府が言う「必要最小限度」は国際法上の範囲・内容を指すのか問い質したのに対する2015年6月16日閣議決定の政府答弁書が明らかにしている。文飾は当方。

「必要最小限度」が相手の武力攻撃の規模・態様に対応させて変化を余儀なくされるケースバイケースの可変性を構造としていることは今夏参院選で自民党の推薦を受けて神奈川選挙区から立候補予定の元みんなの党、現在無所属の中西健治(52)が2015年6月9日、質問主意書で政府が言う「必要最小限度」は国際法上の範囲・内容を指すのか問い質したのに対する2015年6月16日閣議決定の政府答弁書が明らかにしている。

 〈お尋ねの「我が国に対する武力攻撃が発生し、これを排除するために、個別的自衛権を行使する場合」の「必要最小限度」とは、武力の行使の態様が相手の武力攻撃の態様と均衡がとれたものでなければならないことを内容とする国際法上の用語でいう均衡性に対応するものであるが、これと必ずしも「同一の範囲・内容」となるものではない。

 新三要件に該当する場合の自衛の措置としての「武力の行使」については、その国際法上の根拠が集団的自衛権となる場合であれ、個別的自衛権となる場合であれ、お尋ねの「必要最小限度の実力行使」の「範囲・内容」は、武力攻撃の規模、態様等に応ずるものであり、一概に述べることは困難である。

 国際法上の「必要最小限度」は相手の武力攻撃の態様と均衡が取れたものを言うが、憲法解釈で集団的自衛権の行使を容認した「武力行使の新3要件」に応じた武力行使に於ける「必要最小限度の実力行使の範囲・内容」とは武力攻撃の規模、態様等に応ずるものだとしている。

 いわば「必要最小限度」とは、「それ以上切りつめたり小さくしたりした場合は必要性を損なうギリギリの限度」とする言葉の意味通りのことを言っているのではなく、相手の武器や兵士の規模・能力・数量(あるいは人数)に応じて必要となる兵力、あるいは戦闘能力と言うことになって、必要に応じて増減を図る必要対応性を持たせた変数として見る「必要最小限度」であることが分かる。

 当然、日本国憲法は「自衛のための必要最小限度」にとどまる限り核兵器の保有も使用も禁止していないとしているその「自衛のための必要最小限度」にしても必要対応性を構造としていることになる。

 かくこのように日本国憲法は禁じていないとする論理で核兵器の保有と使用の必要性が生じるかもしれない将来的な有事に備えていながら、「核兵器の廃絶の訴え」と「核兵器のない世界の実現」に強い思いを見せる。

 ペテンそのものではないか。

 そうでありながら、安倍晋三はオバマと並んで広島平和記念碑(原爆ドーム)を訪れて、「犠牲者に対して哀悼の誠を捧げる」と称してまことしやかに頭(こうべ)を垂れ、黙祷するパフォーマンスを演じるに違いない。

 安倍晋三の中に核保有と必要ならば核使用の強い意思を存在させていることを忘れてはならない。

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オバマ広島訪問 日本政府に謝罪求ずを言う資格なし 謝罪すべきは日本政府であり、戒めとすべきは別にある

2016-05-12 09:23:52 | 政治


 オバマ米国大統領の5月下旬の伊勢志摩サミット出席後、5月27日に現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問することを決め、日本政府に伝達したという。

 広島市が以前からオバマ大統領の広島訪問を求め、やっと念願が叶ったことになる。

 オバマ広島訪問に当たってアメリカの原爆投下を謝罪すべきかどうか議論が起きた。日本では原爆投下を戦争犯罪と把えていて、「謝罪すべきだ」という声がより多いからであり、アメリはでは断るまでもなく、原爆投下が戦争終結を早め、日米両国の犠牲者を無駄に増やすことを防いだと考える国民が多いために、結果として「謝罪すべきではない」、「謝罪してはならない」という声がより多いからだろう。

 オバマの広島訪問が決まったことについての安倍晋三の対記者団発言を5月10日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。 

 安倍晋三「伊勢志摩サミット終了後、オバマ大統領と共に被爆地、広島を訪問することを決定した。オバマ大統領の広島訪問を心から歓迎する。70年前の原爆投下によって、たくさんの人々が無残にも犠牲となった。今回の訪問を、すべての犠牲者を日米で共に追悼する機会としたいと思う。

 日本は唯一の戦争被爆国として、2度とあの悲惨な体験を世界のどんな場所であっても、再び繰り返させてはならない、この思いで核兵器の廃絶を一貫して訴えてきた。今回、オバマ大統領が広島を訪問し、被爆の実相に触れ、その思いを世界に発信することは、核兵器のない世界に向けて大きな力になると信じている。そして、その世界を実現するために、オバマ大統領と共に全力を尽くしていきたい」

 記者「原爆の投下について、アメリカ側の謝罪は必要か」

 安倍晋三「オバマ大統領が、実際に被爆地に足を運ぶ。それは、アメリカ大統領にとっては大きな決意だったと思う。そして、唯一の戦争被爆国の首相である私と共に、世界で唯一、核兵器を使用した国の指導者が、共に犠牲者に対して哀悼の誠を捧げる。このことが、まさに被爆の犠牲となった方々、そして、今も苦しむ人々の思いに応えるものだと、私は信じている」
 
 安倍晋三は日本を「70年前の原爆投下によって、たくさんの人々が無残にも犠牲となった」「唯一の戦争被爆国」だと、純粋被害者の立場に置き、アメリカを「世界で唯一、核兵器を使用した国」だと、純粋加害者の立場に立たせている。

 当然、純粋被害者の立場からの純粋加害者の立場に対する謝罪という意思作用を要求する資格を持つことになる。だが、安倍晋三はオバマ大統領の立場を考えて、謝罪に代えて「共に犠牲者に対して哀悼の誠を捧げる」ことを以てアメリカの差し障りを取り除くことにしたということなのだろう。

 この謝罪に関してだが、今年4月11日にケリー米国務長官は現職の米閣僚として初めて平和記念公園を訪問したが、外相の岸田文雄が4月23日の北海道講演で、平和記念公園の訪問に関して日本は米国に原爆投下の謝罪を求めない考えであると米国側に伝えていたことを明らかにしたとマスコミが伝えている。

 つまり岸田文雄にしても日本を純粋被害者の立場に置き、アメリカを純粋加害者の立場と見做す観点から謝罪を要求する資格があるとしながらも、その資格を放棄、謝罪の不必要性に言及したことになる。

 果たして米国の広島・長崎への原爆投下に関して日本は純粋被害者であって、アメリカを純粋加害者であるとする二元論で片付けることができるのだろうか。

 私は常々、できないと見ている。いわば日本にも投下を招いた責任があるはずだ。

 連合国は昭和20年7月26日、ポツダム宣言を発表、日本に無条件降伏を求めた。

 以下「Wikipedia」から。

 7月28日、当時の首相鈴木貫太郎が記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し、断固戦争完遂に邁進する」と述べた。

 いわば戦争遂行を宣言した。当時日本政府と日本軍は本土決戦の方針を掲げていた。沖縄戦は本土決戦の準備のために米軍本土上陸を引き延ばす目的を持たせた時間稼ぎの戦闘とされていた。

 沖縄戦(1945年4月1日~6月23日)の前の約2カ月前に日本兵が全員玉砕した硫黄島の戦い(1945年2月16日~3月17日)がある。

 ポツダム宣言黙殺の7月28日から9日後の8月6日、広島に原爆投下 死者14万人。

 その2日後の昭和20年8月9日午前零時、ソ連が参戦し、満州に侵入。死者30万人以上、シベリア抑留者 57万人以上。

 同昭和20年8月9日、長崎に原爆投下。死者7万人。

 勿論、この間には様々な経緯が存在した。米政府側に天皇制を保障する勢力と認めない勢力の駆引き等があったが、結局のところ、〈1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。〉(Wikipedia)ために天皇制に言及しない決定が下されたといった経緯、その他があった。

 要するに当時の米国民は日本との戦争での米兵戦死に関して日本を純粋加害者の立場に置き、アメリカを純粋被害者の立場に立たせる考えに囚われていた。

 一方の日本政府と日本軍は無条件降伏が国体の護持(=天皇制の護持)の放棄に繋がることだけを恐れた。主としてアメリカという民主国家を相手に戦って、ポツダム宣言第10条によって、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ 言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と天皇独裁体制から民主国家体制への変換を要求されていながら、民主主義に留意することなく、国体の護持(=天皇制の護持)以外の国家体制の思想を持ち合わせなかった。

 だから、戦後幣原内閣の憲法改正法案(松本試案)第3条は天皇の地位を「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と帝国憲法と何ら変わらない絶対性を与えることになったのだろう。

 またアメリカは戦争を終結させる手立てとしたポツダム宣言が受け入れられずに戦争終結の手立てとならず、本土決戦となった場合のアメリカ側の人的被害の大きさを硫黄島の戦いや沖縄戦から学習していたはずだ。サイパンの戦い(1944年6月15日~7月9日)やその他南洋諸島での戦いは日本の委任統治領であったとは言え、地理的にも地の利の遠い、いわばアウエイの戦いであるが、硫黄島と沖縄は日本側に地の利のあった日本の領土内のホームウェイの戦いであって、本土決戦となれば、地の利を最も有利に活かすことのできるホームウエイ中のホームウエイの戦いとなってアメリカ軍は最大限の不利を強いられ、硫黄島の戦いや沖縄戦以上に攻略に難儀することを学習していなかったはずはない。

 このことを日本側から言うと、原爆が投下されるまでポツダム宣言を戦争を終結させる手立てとしなかった。

 もはや戦争を継続するだけの軍事的能力も経済的資源も失いながら、国体護持(=天皇制護持)に拘り、軍のメンツを掛けて本土を戦場と想定した徹底抗戦の降ろすに降ろせない拳を振り上げた。

 投下の良し悪しは別にして、振り上げた拳の無力さを知らしめたのは広島と長崎への原爆投下の事実であったはずであるし、当初からポツダム宣言を戦争を終結させる手立てとしていたなら、招くことはなかった原爆投下でもあったはずだ。

 いわば当時の日本政府と軍部の愚かしさが招いた原爆投下でもあった。

 米国の広島・長崎への原爆投下が日本を純粋被害者の立場に置くもので、アメリカを純粋加害者の立場にのみ置く二元論では決して片付けることはできないはずだ。

 であるなら、日本にアメリカにのみ謝罪を求める資格も、謝罪を求めないと言う資格もないことになる。日本政府こそが原爆投下を招く一因となった当時の日本政府と軍部の愚かしさになり代わって被爆者に謝罪すべきだし、招くことになったその愚かしさを戒めとすべきだろう。

 戦争の開始や戦争遂行の手段としての大量破壊兵器の使用は軍人を含めた為政者の愚かしさが発端となることが多いことを肝に銘じるべきである。

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