アベノミクスは国家社会主義、経済の自律的好循環を生み出せず、政府干渉によってどうにか持っている

2016-05-11 09:18:11 | 政治


 安倍晋三が5月1~7日にかけてヨーロッパとロシア訪問。5月5日、ロンドンで「内外記者会見」を開いた。  

 記者会見では各国首脳との会談で安倍晋三が如何にリーダーシップを発揮したかを質疑の中で誇示している。

 安倍晋三「今回、各国首脳会談において、私は、世界経済について通常の景気循環を超えて、危機に陥るリスクを回避し、世界経済を再活性化させるため、G7には、構造改革の加速化に合わせて、機動的な財政出動が求められていること、そのため、伊勢志摩サミットでG7として一段と強い、そして明確なメッセージを発出したいと考えていることを各国首脳にお伝えしました。この点について、手応えをしっかりと感じとることができました。それが、今回の一連の首脳会談の大きな成果だと思います。

すなわち、金融政策、機動的な財政政策、構造改革をそれぞれの国の事情を反映しつつ、バランス良く協力を進めていくことが重要であるという点で各国首脳と一致できました。今申し上げた点においては、イタリアのレンツィ首相、そしてフランスのオランド大統領、そしてドイツのメルケル首相、英国のキャメロン首相と一致することができました」

 このように言うことができるのは金融政策のみならず、財政出動に於いても、構造改革於いても、自らが実践し、成功を収めていなければならない。

 だからこそ、冒頭発言の中で次のように確信を持って宣言することができたはずだ。

 安倍晋三「世界経済の『下方リスク』と『脆弱性』が高まっている。こうしたリスクに、G7が、いかにして協調して立ち向かうことができるかが、伊勢志摩サミットの最大のテーマであります。G7がリードして、世界経済の持続的かつ力強い成長への道筋を示す。政策協調への力強いメッセージを打ち出さなければならなりません。

 なすべきことは、明確です。

 アベノミクスの『三本の矢』を、もう一度、世界レベルで展開させることであります」――

 以上の発言は「アベノミクス」に二つの意味を持たせている。一つは「アベノミクス」を成功した政策だとしていること。二つ目は「世界経済の『下方リスク』と『脆弱性』」の高まりに何ら影響を受けていない強靭さを備えた確実な政策だとしていること。

 でなければ、なすべきことは「アベノミクスの『三本の矢』を、もう一度、世界レベルで展開させることであります」と胸を張って堂々と宣言することはできない。

 まるで「アベノミクスの『三本の矢』」を世界レベルで展開させて大成功を収めたかのような大言壮語となっている。

 果たして事実その通りなのだろうか。
 
 確かに日銀の異次元の金融緩和と称されるアベノミクス第1の矢である「大胆な金融政策」は当初は成功を収めた。円安と株高が大企業を中心にその利益を潤わすことになった。

 と言うことは、国民の下層にいく程に利益の恩恵が極小化していくことを示す利益構造だったということになる。上に厚く、下に薄いアベノミクス第1の矢であった。

 ところがその円安と株高も中国と新興国の景気減速と、それらを受けた日銀のマイナス金利政策決定が追い打ちをかける形で円高・株安に向かい、企業の利益を圧迫することになって、第2の矢・第3の矢が元々効果を発揮していたわけではないアベノミクス全体に亘ってその政策を怪しくさせた。

 いわば円安・株高で大企業を中心に大いなる利益を獲得している間に、あるいは中国や新興国が景気減速に見舞われる前に安倍晋三がアベノミクスに自律的機動性を確保させることができなかったことが、その反動として当初目標としていた景気の好循環に自律性を生み出すことができなかった最大の原因であろう。

 自律的機動性はアベノミクスに関して言うと、アベノミクスそのもを様々な状況に応じて自律的に(自身の力で)景気を拡大していく力を備えた生き物としての政策とし得てこそ、初めて獲得し得る。

 だが、安倍晋三は自らが掲げた政策でありながら、アベノミクスをそのような生き物(=政策)とすることができなかった。だから、第1の矢で株高・円安という大きな果実を得ながら、その果実に景気の好循環に向けた自律性を埋め込むことができず、実体経済を動かすまでに至ららなかった。

 その結果、中国や新興国の景気減速、その他の外からの経済的なマイナス要因に簡単に悪影響を受けることになり、その払拭のために日銀がマイナス金利に動いたものの、効果を上げることができないでいる。

 では、安倍晋三がアベノミクスという政策に自律的機動性を注入できなかったにも関わらず、アベノミクスが現在もなおその名を維持できているのはなぜだろうか。

 他でもない、政府の指示とか政府依頼といった形を取った政府干渉によるアベノミクス補強によって、いわば自律的とは無縁の他律的な強制力が功を奏して、兎に角もアベノミクスを維持できている理由であるはずだ。

 その代表例が断るまでもなく、春闘の時期になると行われる、企業に対しての毎年の政府による賃上げ要請である。企業が政府要請を受けて僅かながらの賃上げを行い、個人消費の拡大にさして役には立たないものの、少なくとも個人消費縮小には役立つことになって、アベノミクスの消滅を救っている。

 その他、アベノミクスの「成長戦略」の柱としている「女性の活躍」に於ける企業や省庁の女性採用の政府目標の設定、その他その他。

 アベノミクスが備えることができなかったために企業や省庁が自律的機動性を利益を生む原動力とすることができるはずもなく、このような政府干渉による他律的な強制力と企業や省庁の応諾の関係は国家社会主義そのものの関係性と言う他はない。

 もう一つ、アベノミクスをどうにか維持できている理由は常に新しい目標を立てて、前に立てた目標がさも成功したかのような幻想を国民に抱かせることに成功しているからである。

 「ニッポン一億総活躍プラン」をアベノミクス第2ステージと称し、2020年までに「GDP600兆円」、「希望出生率1.8」、「介護離職ゼロ」を新しい「三本の矢」として掲げ、さらには非正規と正規の給与格差をなくす同一労働・同一賃金を掲げている。

 もし本来のアベノミクスが自身の力で景気を拡大していく自律的機動性を備えた生き物としての政策となっていたなら、GDPも自ずと拡大していくはずだし、収入もよくなって個人消費も増え、個人消費の増加に応じて希望出生率も高くなるはずだし、介護も人出に頼る支出を賄うことができて介護離職も一定程度防ぐことができるはずだが、そうはなっていないから、実体経済という土台ができていないうちから新しい目標を掲げて、国民の目をそこに向けなければならない。

 自律的機動性を備えていないためにこういったことが実態となっているアベノミクスでありながら、「G7がリードして、世界経済の持続的かつ力強い成長への道筋を示す」ためには「アベノミクスの『三本の矢』を、もう一度、世界レベルで展開させることであります」と、日本でも成功していないのに且つて一度「世界レベルで展開させ」て成功したかのように言い、もう一度展開させることの必要性を恥ずかしげもなく言う。

 誇大妄想狂でなければできない言葉の使い方となっている。

 安倍晋三がアベノミクスを政府干渉の国家社会主義や実体経済が伴わない様々な目標を立てるといったカラクリで成り立たせているゴマカシに留意しなければならない。

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ベッキーの不倫騒動に対する社会的制裁とそれがない桂文枝の不倫騒動に男女格差を見る

2016-05-10 09:33:40 | Weblog


 遅ればせながらテレビのワイドショーを賑わしたタレント・ベッキーの不倫騒動に参戦したいと思う。「ゲスの極み乙女。」なるバンドのボーカルの妻帯者である川谷絵音との不倫を『週刊文春』がスクープ。

 「Wikipedia」の記述。

 〈2016年1月、交際相手だったされたが、その後の記者会見にて「ただの友達」であると釈明した。しかし、契約中であった10本のCMは一部がこの騒動を理由に打ち切られ、それ以外は契約が更新されない見通しとなった。その後、2016年1月30日より休業することが発表された。〉――

 このコマーシャル打ち切りや出演テレビ番組への出演のお断りは不倫に対する制裁に当たる。いわば不倫を人の道に外れた行為だとタブー視していて、これらの制裁を科した。

 そして報道側のこのような制裁はテレビ等の報道が社会全般に向けられている性質上、否応もなしに社会的な制裁の形を取り、特に現在のネット社会では多くの人間を敵に回すことになる。

 いわばテレビ側が一人のタレントに対して番組への出演を辞退させる、あるいは出演を拒否して干すということはテレビ局のみの制裁で終わらず、そのタレントに社会的な制裁を科したことになる。

 勿論、テレビ局はスポンサーの意向を窺わなければない立場にある。不倫が商品のイメージに反するということになれば、コマーシャルを打ち切らざるを得ないだろう。テレビ局、業界共々、社会的制裁の輪を形成することになる。

 だとしても、このような制裁に男女格差があっていいものだろうか。

 2009年12月の「ブログ」で次のようなことを書いた。   

 〈「不倫は日本の文化だ」とすると、外国には存在しない文化ということになる。だがアメリカだろうがフランスだろうが、イタリアだろうが、その当事者がイタリアの首相であっても、不倫は堂々と存在する。

 ・・・・・・・・

 最近の不倫ではモナ騒動があり、彼女はなぜか芸能界活動の謹慎を強いられたが、この不倫で謹慎という文化こそ日本の専売特許のように思えるが、誰が誰と不倫しようがしまいがどうでもいいことで、不倫に関わる言葉が合理的な言葉になっているかどうかの点だけは気になる。

 世界中に不倫は存在するのだから、「不倫は日本の文化だ」は合理的な言葉だと言えるだろうか。

 「不倫は日本の文化だ」から、「不倫は男と女の文化だ」と言い直すことによって合理的な言葉となり得るように思える。

 いわば古今東西、どこの国と関係なしに男と女の文化だと。もっと大きく言うと、「人類の文化」だと言える。このように言うことによって、漏れのない整合性を持った全くの合理性を獲ち得ることになるが、どうだろうか。

 尤も「人類の文化」だとしても、社会的タブーとなっているのも事実である。〉――

 不倫で謹慎という日本の専売特許のように思える文化は男性よりも女性に比重がかかっているように見えてならない。不倫を人の道に外れた行為だとタブー視して社会的制裁を科すなら、不倫が女性のみで成り立たず、あるいは男性のみで成り立たず、異性が加わって初めて成り立つ以上、男女同罪としなければならないはずだ。

 相手の男性に同等の制裁を科すと言うことだけではなく、異なる男女の不倫に関しても、その男性に対して遜色のない制裁を与えてこそ、男女格差のない男女同罪とすることができる。

 ところが、2月発売の「FRIDAY」がテレビで活躍する落語家・タレントの桂文枝の20年不倫を報じた。相手は38歳の演歌歌手とかで、現在72歳の桂文枝が52歳の時から、現在38歳の相手の女性が18歳の時から20年続いていたという。

 桂文枝は長年連れ添った妻がいる。人の道に外れた同じ不倫であるはずだが、テレビ局の制裁も受けず、スポンサーの制裁も受けずにテレビ番組に出演し続けている。いわば社会的な制裁は一切なしとなっている。

 いわばベッキーの不倫は人の道に外れているが、桂文枝の不倫は人の道に外れていないことと意味づけていることになる。

 同じ人の道に外れてはいるものの、桂文枝が長年テレビ界で活躍していて、それなりの権力を得ているから、ベッキーのテレビ業界やスポンサー業界に与える影響力とは桁違いで、手出しはできないということなのだろうか。

 どのような事情はあれ、テレビ業界やスポンサー業界は不倫に対する社会的制裁に男女格差をつけていることになる。決して男女平等の制裁ではない。日本の社会は全体的に女性の過ちに厳しい。

 このような女性の過ちにより厳しい男女格差はかつての男尊女卑の影響を引き継いでいないだろうか。

 男尊女卑が激しかった江戸時代のように、あるいは現在もなお男尊女卑の世界となっているイスラムの国々のように男女という立場の違いでその不倫に対する社会的制裁に違いを見せることになる。

 例えそれが社会的には妻ある男性に対する不倫という形式になっても、あくまでも男女それぞれの意思から発した個々人の恋愛問題であるはずだ。である以上、それぞれの責任行為であって、と同時に男性は妻に対して責任を負い、女性にしても相手の男性の妻に対して責任を負う。

 妻と男性と女性の間でどう決着をつけるかも、男性の責任と女性の責任の問題であって、テレビ業界にしてもスポンサー業界にしても彼らの責任に任せるべき問題であるはずだ。

 だが、そのように任せることができずに不倫というだけで女性に対しては率先して社会的制裁を加え、男性に対しては何ら加えないか、あるいは格差をつける。

 一般社会に於いても女性により多くの批判や非難を向ける。

 犯罪を構成していない以上、そろそろ個人の責任行為と見て、それぞれの個人に任せる個人主義でいくべきではないだろうか。

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安倍晋三の対ロ経済協力8項目提案が「第2次大戦の結果ロシア領となった」との露側論理の撤回に繋がるのか

2016-05-09 09:11:33 | 政治


 安倍晋三が5月6日(2016年)午後(日本時間同日夜)、ロシアのソチを訪れ、大統領公邸でプーチンとの非公式会談に臨み、北方領土問題を巡って双方に受け入れ可能な解決策の作成に向けて新たな発想に基づくアプローチで交渉を加速していくことで一致し、5月に事務レベルの平和条約交渉、9月にロシア極東のウラジオストクで再び首脳会談を行うことを確認したと、5月7日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 プーチン「やはり経済が最も重要だ。難しい政治状況のなかであってもロシアに進出する日本企業を歓迎したいし、日本企業のビジネスを支援したい」

 安倍晋三「北方領土問題を含む平和条約交渉の停滞を打破するためには、2国間の視点だけでなくグローバルな視点を考慮に入れ、未来志向の考えに立って交渉を行っていく新しいアプローチが必要ではないか」

 安倍晋三が言っている北方領土問題解決の“未来志向の新しいアプローチ”、記事が解説しているところの“新たな発想に基づくアプローチ”とは、安倍晋三が提案した〈ロシア経済の発展と国民生活の向上に向けてエネルギー開発や極東地域の産業振興など8項目の協力プラン〉を問題解決の道筋とすると言うことらしいが、経済という餌を付け、領土返還という大物を狙って釣り糸を垂らしたところ、餌だけ取られて何も釣れなかったということになる危惧なきにしも非ずである。

 なぜなら、“双方に受け入れ可能な解決策”を言うなら、日本側の8項目の協力プランの提案がプーチンが「やはり経済が最も重要だ」と言っていることが示している通りにロシア側には受け入れ可能ではあるだろうが、日本側が受け入れ可能な解決策の出発点は「第2次大戦の結果ロシア領となった」とするロシア側の論理の撤回に置かなければならないからだ。

 勿論、安倍晋三に8項目提案が撤回させるだけの力を持つと見通しているなら、何ら問題はない。

 但し別の問題が浮上する。

 ロシアは2014年、ウクライナ憲法と国際法に違反してウクライナの主権と領土の一体性を軍事力を用いて、その現状変更を謀り、2014年3月18日、ロシアに編入したその領土拡張の陰謀に対して欧米はロシアに対して経済制裁を発動中である。

 安倍晋三の8項目提案の経済協力が日本も加わった欧米の経済制裁受けて疲弊しているロシア経済を建て直す役目を担った場合、経済制裁破りになるばかりか、ロシアがウクライナの領土に対して行った力による現状変更を認めることになる。

 安倍晋三はそのことの意味に気づいているのだろうか。

 2015年1月20日、外相の岸田文雄がベルギーで開催された国際シンポジウムで講演している。

 岸田文雄「現下のウクライナ情勢について、日本は,主権と領土のー体性を尊重し、力による現状変更は容認できないと考えます。G7の連帯を重視しつつ、ロシアに対し平和的解決に向け建設的役割を果たすよう求めています」

 そして講演後の対記者質疑。

 岸田文雄「ウクライナで起こっていることも力による現状変更だが、北方領土の問題も力による現状変更です」

 前者の力による現状変更を認めれば、後者の力による現状変更を認めなければならなくなる。

 安倍晋三はこの矛盾にどのような折り合いを付けるつもりなのだろうか。

 4月8日のNHK「日曜討論」で出席者の一人、元外務省官僚、現在京都産業大学法学部教授の東郷和彦が北方四島返還問題について次のように発言していた。

 東郷和彦「ロシアにとってのクリミアとウクライナの意味というのは、クリミアというのは本当にロシアの名誉と尊厳に関わる問題。それからウクライナというのはロシアの安全保障、それからロシアの地政学的な意味からすると、本当に大きな問題なので、これに対してロシアがある種の干渉を持つというのは、これはパワーポリティクスの観点から日本は認めてあげるべきだと思うんですね。

 中国の東シナ海と南シナ海の活動というのは全く違った側面があると思うんで、この違いというのを識別するというのは非常に重要で、喩えて言えば、クリミアというのは、ロシアにとってクリミアというのは日本のとっての北方領土問題、喩えて言えば、と言うことだと思います」――

 言っていることは制裁破りになってもいい、ロシアのウクライナの領土に対する力による現状変更を認めるべきだと主張し、ロシアのクリミアに対する領有の正当性は日本の北方領土に対する領有の正当性と同じ問題だとしている。

 さすが、その識見は元外務省官僚だけのことはある。京都産業大学法学部教授を務めているだけの見識を備えている。

 プーチンは前者の指摘は諸手上げて歓迎するだろう。だからと言って、交換条件として日本の正当性を認める気があったなら、その交換条件をとっくの昔に示していたはずだ。「第2次大戦の結果ロシア領となった」とするロシア側の常套句となっている論理をいつまでも振り回していなかっただろう。

 但し安倍晋三の8項目提案の経済協力は東郷和彦の前者の指摘と同じ構造を取ることになるが、あくまでもその効き目が日本の正当性へと大きく化けていくかどうかであり、その保証があるかどうかにかかっている。

 東郷和彦が言っている「パワーポリティクスの観点から」クリミアはロシアにとってEU諸国に対する安全保障上の重要な拠点とすることができるが、北方四島にしてもアメリカに対する安全保障上の重要な拠点としての意味を持たせているはずだ。

 旧ソ連解体によって米ロは次第に友好関係を築くに至った。だが、ロシアのクリミア併合によって米ロは険悪な関係に先祖返りし、新たな冷戦時代と言われるような米ロ対立時代に突入した。ロシアは自国を遥かに凌ぐアメリカという軍事的・経済的超大国と常に友好関係を築くことができるわけではないことを学習したはずだ。

 この学習には返還後の北方四島を安倍政権とそれ以後の政権が決して軍事基地化しないと約束したとしても、世界情勢はどう変化するか、予測不可能としなければならないということの教えも必ずや含んでいると見なければならない。

 返還という一つの現状変更が新たな現状変更を誘発しない保証はないと備えるのがパワーポリティクスの基本であろう。

 だからこそのロシアの北方四島に於ける軍事基地化の加速であるはずだ。

 かつて旧ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して対日参戦を敢行したことも当時のパワーポリティクスの利害から出た行動であったはずだ。

 日本もかつてパワーポリティクスの政治力学に則ってアジア諸国へ侵略していった。

 こう見てくると、安倍晋三の8項目提案が“双方に受け入れ可能な解決策”の動機となるかどうかは相当に疑わしい。

 そもそもからして“双方に受け入れ可能な”という言葉は既に手垢のついた常套句となっている。

 当時の日本の首相菅無能は2010年年6月26日カナダでのムスコカG8サミット出席の際、メドヴェージェ フ大統領と会談。

 菅無能「領土問題の解決は65年以上にわたる我が国国民の悲願であり、自分としても、鳩山 前総理が最も力を入れた、この問題の最終的な解決のために首脳レベルで前進を図っていきたい」

 メドヴェージェ フ「領土問題は、両国関係の中で最も難しい問題であるが、解決出来ない問題ではない、双 方に受け入れ可能な、建設的な解決策を模索していきたい」(外務省)   

 2013年4月28日から4月30日にかけて安倍晋三がプーチンの招待を受けてロシアを訪問。4月29日、日露パートナーシップの発展に関する「共同声明」を発表している。

 〈両首脳は,第二次世界大戦後67年を経て日露間で平和条約が締結されていない状態は異常であることでー致した。両首脳は,両国間の関係の更なる発展及び21世紀における広範な日露パートナーシップの構築を目的として,交渉において存在する双方の立場の隔たりを克服して,2003年の日露行動計画の採択に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の共同声明及び日露行動計画においても解決すべきことが確認されたその問題を,双方に受入れ可能な形で,最終的に解決することにより,平和条約を締結するとの決意を表明した。〉――

 それが現実に存在するかのように“双方に受入れ可能な解決策”を言い続け、存在させることができないままに現在も言い続けている。

 この際限のなさに加えて8項目提案が欧米の対ロ制裁破りになること、ロシアのクリミアに対する力による現状変更を認めること、このことがロシアによる北方四島に対するに力による現状変更を却って認めることになること、ロシアがパワーポリティクスの観点から北方四島をアメリカに対する安全保障上の重要な拠点としているはずであることなどを併せて考えると、8項目提案が「第2次大戦の結果ロシア領となった」とするロシア側の北方四島の領有に対する正当性の論理の撤回に繋げることは至難の業に見える。

 既に触れたが、経済という餌を付け、領土返還という大物を狙って釣り糸を垂らしたところ、餌だけ取られて何も釣れずといった結末が待ち構えていないとも限らない。

 いずれにしても安倍晋三は気づいているかどうかは分からないが、ロシアのウクライナに対する力による現状変更は認めてロシアの北方四島に対する力による現状変更は認めないという矛盾した橋を渡ることになる。

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島根県邑南町女子大生落石死亡 週2回のパトロールを実施と言うが、それで県の怠慢・不作為を免れ得るか

2016-05-08 06:27:02 | 事件


 昨日の「ブログ」で5月4日午後に起きた島根県邑南町(おおなんちょう)の県道での直径約1メートルの落石が軽乗用車に直撃、助手席に乗車していた18歳の女子大生が死亡した事故を取り上げて、20年前の調査で550メートルに亘って落石危険箇所と指定したものの、そのうち500メートルは落石防止ネットを張る対策を取ったが、今回の落石地点を含む残り50メートルは危険性は低いと判断、対策を取らなかった、その調査以来、県道を管理する島根県が点検・調査を一度も行っていなかった怠慢・不作為による殺人に相当、できるものなら、殺人罪で起訴すべきだと書いた。 

 根拠は「NHK NEWS WEB」記事が伝えていた島根県土木部長の記者会見の発言である。

 冨樫篤英島根県土木部部長「20年の間に浮石が発生し、大事故につながってしまった。今後は1度の調査・対策で終わりではなく、どう継続的に点検を行えるか、態勢を考えていかないといけない」

 どう読んでも、20年前の調査一度きりとしか読むことはできない。

 ところが、昨日の午後になって、島根県が落石防止ネットを張るなどの落石防止対策を取っていなかった事故の現場となった50メートル区間で島根県は週2回のパトロールを実施していたという記事に出会った。

 事実パトロールを実施して危険性を点検・調査していたなら、不可抗力の自然現象ということになって、ブログでの批判は見当違いも甚だしく、謝罪しなければならない。

 但しどのような内容の、どの程度のパトロールであったかによって、対策に対する姿勢が違ってくる。記事を参考までに全文引用して、自分なりに精査してみたいと思う。文飾は当方。

 《島根の女子大生落石死、地元観測史上最大の強風が原因か 2日前現場点検も危険性把握できず》産経ニュース/2016.5.6 19:10)  

 〈島根県邑南町(おおなんちょう)戸河内で、県道脇の斜面から落下した岩が軽乗用車にぶつかり、山口市平井の大学1年、栗原優奈さん(18)が死亡した事故で、島根県は6日、強風がきっかけで岩が落下した可能性があるとの見方を示し、第三者委員会を発足させ、専門家に調査を依頼すると発表した。
 県によると、強風で木が揺さぶられ、根元にあった石が不安定になって落下した可能性があるという。松江地方気象台によると、事故発生直後の4日午後4時8分に同町淀原で、この地点としては観測史上最高の最大瞬間風速24・2メートルを観測した。

 県は6日、記者会見を開き「お悔やみを申し上げる。申し訳ありませんでした」と謝罪した。現場付近では、週2回のパトロールを実施。最後に確認したのは2日だったが、危険性は把握できなかったという。

 冨樫篤英土木部長は「当時の調査は問題なかったが、経過観察が甘かった」と話した。今後、県は第三者委員会を立ち上げ、原因や再発防止について検討する。〉――

 この記事の紹介には矛盾がある。

 〈現場付近では、週2回のパトロールを実施〉していたが、冨樫土木部長は(落石危険箇所と指定した20年前の)「当時の調査は問題なかったが、経過観察が甘かった」と言っている。

 週2回のパトロールを以てしても「経過観察が甘かった」、その程度のパトロールだと矛盾したことを言っていることになる。

 この矛盾は週2回のパトロールを満足な「経過観察」のうちに入れていないことによって解くこととができる。

 ここで思い出したのが屋根にサイレンをつけたライトバン形式の黄色く塗った道路点検用のパトロール車である。高速で走らせる東名高速道などでは小さな落下物でも車が衝突したり、乗り上げたりした場合、大きな事故につながる危険性があることから、2人1組でパトロール車を定期的に走らせて路面に落下物がないか観察し、落下物があったなら、車を路肩に停めて、通行車両に気をつけながら、その落下物を拾って、荷台に乗せ、再び走らせて落下物がないか探す役目である。

 勿論、道路に停車した故障車を見かけたりした場合にも対応する。

 落石危険箇所の一般道路を走らせる場合でも、主として下(=路面)を見て走らせ、何も落下していなければ、そのことの報告だけで何も対策を打たないが、落下している土砂や石の量や落下範囲によって、その規模が大したことがなければ、上(=山の斜面)に何も問題は起きていないと判断し、その量も多く、範囲も広ければ、上(=山の斜面)で崩落が起きていると判断して、その時点で初めて車を停めて、上(=山の斜面)を直接目で見て確かめ、片側通行にするか、あるいは落下箇所をカラーコンで囲うだけにするかの対策を打つ、そういった内容のパトロールではないのではないだろうか。

  要するに直接山に登って調査・点検することは20年前の調査以来、一度もなかったのではないか。

 そうとでも判断しな限り、上記記事が書いている〈週2回のパトロール〉と言っていることは、主としてこのような下(=路面)だけを見て走るパトロール車の道路点検のことを指していて、道路の状況によって上(=山の斜面)を見て、落石の危険性を観察する点検のことでなければ、週2回のパトロールを実施していながら、「経過観察が甘かった」と土木部長が反省しなければならなかった矛盾に整合性を見い出すことはできない。

 いずれにしても第三者委員会を発足させて専門家に調査を依頼すると言うことだから、いずれは事実が明らかになるだろうが、新聞記事を読む限り、週2回のパトロールによって島根県の怠慢・不作為を拭い去ることができたとはとても思えない。



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島根県邑南町県道の落石による18歳女子大生死亡は明らかに行政の怠慢・不作為による殺人に相当

2016-05-07 06:52:30 | 政治


 2016年5月4日午後、島根県邑南町(おおなんちょう)の県道で(テレビの映像で見ると)急峻な山肌の高さ30メートル程の所から直径1メートル程の岩が落下、真下を走行中の軽自動車を助手席側を直撃、助手席に乗車していた18歳の女子大生が死亡、運転していた52歳の母親が頭などに軽い怪我をした。

 高さ30メートル、大きさ直径1メートル程と言うことなら、かなりの加速度と重量を得ていたに違いない。

 落石そのこと自体は果たして避けることのできなかった不可抗力の自然現象だったのだろうか。もしそうだとしたら、県道を管理している島根県に責任はないことになる。下を通った軽自動車は運が悪かったと片付けられかねない。

 「NHK NEWS WEB」記事が落石の恐れは低いと判断して島根県が対策を取らなかったと報道している。   

 記事は島根県の説明として次のように書き記している。

 現場付近は20年前の調査で幅およそ550メートルに亘って落石の恐れがある箇所に指定され、その後このうち500メートルについて落石防止ネットを張る対策を取ったものの、落石地点を含む残り50メートルの範囲については大きな岩がすぐに落ちてくる恐れは低いと判断して対策を取らなかった。

 記事は二つの発言を伝えている。

 島根県道路維持課「今回落ちた岩は木の根の中に隠れる形になっていて、当時は発見することができなかった。事故が起きてしまったことは非常に残念だ」

 冨樫篤英島根県土木部部長「県の管理する道路で重大な事故が起き、尊い命を失った。事故を重く受け止め、再発防止に向けて取り組みたい。申し訳ありませんでした。

 20年の間に浮石が発生し、大事故につながってしまった。今後は1度の調査・対策で終わりではなく、どう継続的に点検を行えるか、態勢を考えていかないといけない」

 どちらの発言も、どれ程に無責任なことを言っているのか気づいていないらしい。 

 最初の発言は、「今回落ちた岩は木の根の中に隠れる形になっていて、当時は発見することができなかった」と落石を不可抗力と看做して、そのことの責任も、県が岩に気づかなかったことの責任も、問題外としている。

 だから、「事故が起きてしまったことは非常に残念だ」と県の責任から切り離した物言いができる。

 土木部部長の発言も、「20年の間に浮石が発生し、大事故につながってしまった」と、落石を自然現象として扱い、不可抗力としている。

 但し土木部部長は後段の発言で自然現象ではなく、自分たちの責任行為であることを自身では気づかずに暴露している。

 「今後は1度の調査・対策で終わりではなく、どう継続的に点検を行えるか、態勢を考えていかないといけない」――

 このように言っていることは、「今回落ちた岩が木の根の中に隠れる形になってい」たのは20年前の一度きりの調査で確認した安全性であって、その後一度も調査せず、その安全性の有効性の確認を放置していたために「20年の間に浮石が発生し、大事故につながってしまった」という自分たちは認めていないものの、そのような経緯に対する反省の言葉であって、いくら意図していないとしても、県の責任行為であることを暴露する発言以外の何ものでもはい。

 つまり島根県は20年前の一度きりの調査で永遠の安全性を与えて、その安全性の有効性に無期限の保証を与えていた。だから、その後点検・調査を一度も行わなかった。

 落石が生じ、前途有為な女子大生を殺してしまってから、調査・対策の継続を言うのは遅過ぎるし、責任逃れとしかならない。

 この行政の怠慢・不作為の責任は重大である。

 「FNN」ニュース記事が家が落石に見舞われたという近所の中年女性の発言を伝えている。  

 中年女性「この山沿いはよく落石があるんですよ。私のウチも落石があって、家が、台所の方がグシャッとなったんですよ」

 屋根に当たって瓦を何枚か割った、あるいは台所の壁に当たって、壁を凹ましたといった程度の落石でないことが分かる。だが、県はよくある落石について把握していなかったことになる。

 地元の自治会から、何ら連絡が入らなかったのだろうか。住民が邑南町に伝えて、邑南町が県に連絡するといったことはなかったのだろうか。

 県が管理する山から落石があり、時間的に大きな広がりを持つ自らの将来に見る多くの可能性を予定調和としていた18歳の女子大生の、その予定調和を一瞬の内に死で以って断ち切ってしまった。

 それが落石事故死であったしても、島根県の怠慢・不作為が招いた死である以上、殺人に相当する。できるものなら、殺人罪で起訴すべきである。 

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安倍晋三の表現・言論の自由抑圧の手法 自粛という名の自己抑制の国家的・社会的同調作用への誘導・拡大

2016-05-06 11:19:46 | 政治


 何日か前に《nofrills/新着更新通知・RTのみ 》なるツイッターアカウントに出会った。2015年3月23日付の「BBC News」を翻訳して、自身のツイッターに載せた内容らしい。   

 何回かに分けた投稿を一つに纏める。

 〈2015年3月、首都カブール。モスクでお守りを買えと強要され反論したFarkhundaという女性がいた。「あの女は聖典を燃やしたんだそうだ」というデマがその場で広まった。男たちが群集となって彼女に襲い掛かった。殴る・蹴る・車で轢く…

 彼女に何が起きたかは遠巻きに撮影されていた映像に記録されていた。平屋の建物の屋根の上から蹴り落とす場面もあったと思う。車にくくられ引きずられた彼女は川べりで火を放たれた。彼女の棺は、女性たちが担って墓地に運んだ。異例のことだ。

彼女を殺した男たち49人が特定・起訴され、裁判で4人は死刑判決、8人は最高で16年の禁固刑を下された。しかし4人の死刑囚について控訴審で判決は覆り、有期刑となった。現場にいたのに止めもせず見てただけの警官には1年の刑。〉――

 これを読んだとき、安倍晋三の報道機関に対する表現の自由・言論の自由を抑圧する手法に通じるものがあるなと思った。

 多分、女性はお守りを買えと強要されて、強要は良くない行為だとでも反論したのだろう。あるいはモスクという場所柄、押し売りは不謹慎だとでも批判した可能性もある。

 イスラム世界に於いて聖典(コーラン)は侵すべからざる神聖なものとされているようだ。譬えるなら、日本の戦前の天皇のような不可侵とされた存在に共通しているに違いない。

 例えそれが事実に反するデマであっても、聖典が持つ神聖性を利用して、それを穢したと主張すれば、周囲にいる男たち(=群衆)が必ず反発し、同調するだろうと知っていて、そのことを計算して女性を侮辱したところ、思いもかけない大成功を収めて、女性によって与えられた面白くない感情の復讐とすることができたのは結果として起こった激しい集団リンチがそのことを証明している。

 いわば本人は結果的にそういうことをしたと気づいていなくても、社会的同調作用を巧みに利用して、女性の表現の自由・言論の自由を抹殺した。

 周囲の女性も、あるいはこのニュースを知った女性の中にも、モスクでお守りを買えと強要されたとしても下手に断ったら、同じ残酷な目に遭わされないとも限らない、買っておいた方が無難ではないかと知らず知らずのうちに社会的同調作用に応じる姿勢に傾き、結果的にお守りの押し売りに対して自身が欲している表現の自由・言論の自由を自己抑制する感情に絡め捕られない保証はない。

 決して大袈裟に解説しているわけではない。例えそれが些細な事であっても、相手が間違っていて、自分が正しいと思っていることを相手との力関係でそのことを告げることを遠慮して黙した場合、いわば自らの表現の自由・言論の自由を自己抑制した場合、自己保身に役立つことはあっても、一つの自己抑制が次の自己抑制を誘って、自身の表現と言論を間違っていると思っている力ある相手の表現と言論の支配下に置くことになる。

 この関係性の裏を返すと、間違っていると思っている力ある相手の表現と言論の支配を国家的にも社会的にも許すことを意味する。

 このことは戦前の日本で経験したはずである。

 2016年5月1日付「毎日jp」記事が《国旗・国歌 新たに15大学実施 文科相要請後に》と題して、〈下村博文文部科学相(当時)が昨年6月、すべての国立大(86大学)の学長に入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した後、15大学が対応を変え、今春から国旗掲揚や国歌斉唱などを実施していたことが毎日新聞のアンケートで分かった。〉とする内容を伝えている。 

 記事はこのような経緯の発端として安倍晋三の昨年2015年4月の参院予算委の答弁を取り上げ、次いで当時文科相の下村博文の国立大学長を集めた会議での発言、そして現在の文科相の馳浩の岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対する発言を取り上げている。

 新たに実施する15大学は、〈いずれも「大学として主体的に判断した」と答えた。〉と解説しているが、安倍晋三の国会答弁や国旗掲揚・国歌斉唱に対する姿勢、さらに文科相からの度重なる要請を受けたのちの“主体的な判断”であるはずだ。

 それ以前の国旗や国歌に対する大学としての“主体的な判断”は掲揚せず・斉唱せずだったはずだからだ。

 15大学はこの姿勢を自らの判断で長年“主体的に”守ってきた。政府側の姿勢が「決して強制ではない」としていながら、大学側は国旗掲揚・国歌斉唱へと“主体的な判断”の舵を切った。

 この前後の“主体性”の矛盾は後者の“主体性”が実は政府要請への同調が正体であって、そうと見られないための言い繕いとしなければ、整合性を見い出すことは不可能である。

 国旗を掲揚せず・国歌を斉唱せずを自粛という方法を用いて自己抑制を自らに強いることで結果的に国家的・社会的同調作用を発動させしめ、力ある相手の表現と言論の支配に自由であるべき自らの表現と言論を委ねた。

 安倍政権がやっていることはカブールのモスクでお守りを押し売りしようとして拒絶した女性に聖典(コーラン)を穢したとデマを飛ばせば、周囲にいる男たち(=群衆)が同調して女性に危害を加えるだろうと予測してデマを飛ばし、危害を加えることに成功し、結果的に社会的同調作用を巧みに利用することで女性の表現の自由・言論の自由を抹殺したことと本質的には何ら変わりはない。

 異なる点は安倍晋三を筆頭した政権幹部たちは民主主義を装っている点のみである。

 上記記事が取り上げてる三者の発言に関しては前二者は当「ブログ」に、後一者は別の「ブログ」にそれぞれ新聞記事を参考にしたりして取り上げているが、2015年4月9日参院予算委での松沢成文の質問は要約で以って、安倍晋三の答弁はそのまま、下村博文と馳浩の発言は新聞記事のまま改めてここに記載してみる。

 松沢成文次世代の党議員(2015年8月離党)「私学とは異なって、国立大学というのはほとんどが国からの運営交付金や補助金で運営されているわけです。私は、国民感情としても、国民の税金で賄われている国立大学なのだから、入学式、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱はある意味で当然だと思っているんじゃないでしょうか」

 安倍晋三「感想としては、大体、大学という性格上こういうことになっているのかなと思いますが、ただ一方、学習指導要領がある中学そして高校においてはしっかりと実施されていると同時に、今委員がおっしゃったように、税金によって賄われているということに鑑みれば、言わば新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないかと、私はこんな感想を持ったところでございます」

 「税金によって賄われている」からと言って、表現の自由・言論の自由まで売り渡してもいいというわけではない。だが、安倍晋三は暗に売り渡しを要求、国家への同調作用を求めている。

 売り渡しは自らの表現の自由・言論の自由を自粛し、自己抑制を働かせて国家への同調作用というプロセスを経て、力ある相手の表現と言論の支配に自由であるべき自らの表現と言論を委ねる経緯を取って初めて成立する。

 下村博文の2015年6月16日の国立大学の学長らを集めた会議での発言。

 下村博文「国旗と国歌はどの国でも国家の象徴として扱われている。国旗掲揚や国歌斉唱が長年の慣行により広く国民の間に定着していることや、平成11年に国旗および国歌に関する法律が施行されたことを踏まえ、各国立大学で適切に判断いただけるようお願いしたい」 

 会議後の記者団に対しての発言。

 下村博文「最終的には各大学が判断されることであり、要請が大学の自治や学問の自由に抵触することは全くない。昔と比べると、国旗や国歌に対する国民の意識も変わってきたと思うので、時代の変化を各大学で適切に判断していただきたい」

 会議に出席していた大学関係者の発言。

 佐和隆光学長滋賀大学「国旗掲揚と国歌斉唱に関する要請にあたっては、国立大学が税金でまかなわれていることが要請の理由ともとれる発言がこれまでに聞かれたが、納税者に対して教育研究で貢献することが大学の責任だ。今回の要請に従う必要はないと思っている」(以上NHK NEWS WEBから)

 岐阜市にある岐阜大学の森脇久隆学長が2016年2月17日定例記者会見で、今春の卒業式や入学式では大学の愛唱歌を歌う考えを示した。

 2016年2月23日の閣議後会見。

 馳浩「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」

 森脇久隆学長の3月15日定例記者会見質疑。

 森脇久隆学長「3月の卒業式と4月の入学式は例年通りです」(以上asahi.com)  

 自らの表現の自由・言論の自由を自粛することも、自己抑制を働かすこともせず、力ある相手への同調作用を拒んでいる。

 馳浩の「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」という発言は、自らの表現の自由・言論の自由を自粛という方法を用いて自己抑制して、その先に国家的、あるいは社会的同調作用を置き、力ある相手――国家権力の表現と言論の支配に自由であるべき自らの表現と言論を委ねるような日本人、あるいは国立大学に向けるべきだろう。

 安倍晋三が2014年12月14日総選挙約1カ月前の11月18日にTBS「NEWS23」に出演し、番組が取り上げた街のアベノミクス批判の声を「街の声ですから、皆さん選んいると思いますよ。もしかしたら」と、さもテレビ局が情報操作しているかのように言い、その2日後の11月20日、安倍晋三の側近である「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに番組報道の公平・公正・中立を求める文書を送ったのも、強制はできないがゆえに報道機関が持つ自由であるべき表現・言論に自粛という名の自己抑制の働きを求めて、国家的・社会的同調作用への誘導・拡大を狙い、結果的に国家が望む表現や言論の支配に委ねさせようとする欲求から出たテレビ報道への介入そのものであろう。

 そして総務相の高市早苗が2月9日(2016年)午前の衆院予算委員会で放送事業者が政治的公平性を欠く放送を繰り返し、行政指導でも改善されないと判断した場合は電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性について言及したのも、同じ構造の経緯を取らせて、国家の表現・言論に可能な限り同調させようとする狙いから出たものであろう。

 安倍政権による自粛という方法を用いさせた自己抑制の遠隔操作はかなりの効き目を発揮しているらしく、報道機関では安倍政権をあからさまに批判できない雰囲気が広がっているという。

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熊本地震:安倍晋三の物資輸送への米軍オスプレイ依頼は自衛隊ヘリの活用が不十分であったことの証明

2016-05-05 06:45:37 | Weblog


 自衛隊ヘリを活発に活用できていたなら、オスプレイの投入は必要なかったはずだ。

 米軍オスプレイは熊本地震4月14日深夜発生4日後の4月18日から熊本県南阿蘇村等への物資輸送支援に投入され、4月24日、その活動を終了した。

 約36トンの支援物資を輸送したという。テレビが放送していたが、着陸できる場所に着陸した態勢で積み荷を手渡しで運び込んでいた。知る範囲ではオスプレイがホバーリング状態で空中に停止して物資をロープで吊り降ろしたといった記事にお目にかからなかったし、テレビでそのような報道に接することもなかった。

 着陸しての物資搬入は自衛隊のヘリコプターでも代替し得る作業であるはずだ。

 但し自衛隊も今後の大規模災害を考えると、交通渋滞や道路の寸断に備えてヘリコプターで空中から直接避難所へ吊り降ろす物資支援を当たり前としなければならないはずだ。

 4月20日付「琉球新報」記事、《<社説>オスプレイ派遣 災害の政治利用はやめよ》が、輸送機として使用できる回転翼機(ヘリコプター)が陸上自衛隊だけでも222機を所有していながら、4月17日深夜の時点で自衛隊が派遣した固定翼機と回転翼機を合わせて118機だったと伝えている。     

 米軍が派遣したオスプレーは4機。積載量が一般のヘリよりも多く、さらに飛行速度も一般のヘリよりも早くても、自衛隊が3倍かそこらの数のへりを投入すればオスプレイの代わりはできたはずだ。

 上記社説やその他の記事が安倍政権のオスプレイの災害支援投入に“政治利用”の臭いを嗅ぎ取っているが、要するに国民が抱いているオスプレイに対する危険性を災害での有用性に替えて政権への風当たりと陸上自衛隊への導入に対する忌避感を和らげようとの政治的思惑があったということなのだろう。

 自衛隊が派遣した固定翼機と回転翼機を合わせて118機だったということだが、ヘリコプターは100機程度と見積もったとしても、果たしてその有用性を発揮し得たのだろうか。

 防衛省の中谷元は4月17日午後11過ぎに防衛省で記者団に次のように発言している

 中谷元「大規模な災害に対して、高い機動力と空輸力を持っており、特に孤立していたり、道路が渋滞したりしている場合に、早く物資を送るには、垂直離陸能力を持ったオスプレイの能力は必要だ」(NHK NEWS WEB

 確かにそのとおりだろう。だが、今回の熊本地震では福岡県と熊本県などを結ぶ九州自動車道では熊本県内の一部で通行止めが生じたり、熊本市内につながる国道57号線と南阿蘇村内を通る国道325号線が合流する地点にある全長200メートルの阿蘇大橋が崩落して迂回を余儀なくされたり、熊本市内と阿蘇方面をつなぐ国道57号線が南阿蘇村内で道路斜面決壊で通行止めとなったりして交通渋滞を引き起こし、あるいは一般道でも倒壊した建物が道路を塞いだり、通行可能な道路に車が殺到することになって各所で交通渋滞が発生、トラックでの支援物資の輸送に大きな支障を来たしたとの報道が数多くあった。

 この理由は交通止めや交通渋滞が各地で発生しているにも関わらず各避難所への支援物資輸送をトラック輸送に比重を置いていたからだろう。物資の集積場への輸送はヘリコプターを活用したかもしれない。だが、集積場にいくら物資を集めても、各避難所に滞り無く届かなければ意味はない。

 このことは東日本大震災で経験済みで、いわば緊急を要する物資支援に関わる定番化した遅れと言える。定番化していながら、解決できずに繰返す。ヘリコプターが大規模災害時に孤立した被災者を吊り上げて救助できるなら、物資を吊り降ろすことはできるはずだが、東日本大震災でも、今回の熊本地震でも自衛隊や消防のヘリコプターが支援物資を避難所の近くでワイヤロープで吊り降ろす場面をテレビで見ることも、記事で読むこともなかった。

 だが、中谷元は各避難所に早急に物資を送るために自衛隊のヘリコプターを活用していないにも関わらず、「孤立していたり、道路が渋滞したりしている場合に」「垂直離陸能力を持ったオスプレイの能力は必要だ」と、オスプレイの活用だけを言う矛盾に気づいていない。

 この矛盾は被災者を蔑ろにしていることになる。

 交通状況を調べるために上空からヘリを飛ばせば、交通不通箇所や交通渋滞個所とその程度を特定できるはずで、支援物資の輸送に時間がかかりそうな避難所にはトラック輸送に替えてヘリ輸送にしたなら、様々な物資不足の解消に時間短縮化を図ることができるはずだ。

 もし地震発生翌日の4月15日からヘリを活用して物資支援に十分に力を発揮していたなら、米軍オスプレイは4月18日からの投入だから、中谷元が「特に孤立していたり、道路が渋滞したりしている場合に、早く物資を送るには、垂直離陸能力を持ったオスプレイの能力は必要だ」と言っていることは滑稽なことになる。

 この言葉が有効性を示すためには被災者支援に向けた自衛隊ヘリの活用が不十分である必要がある。

 不十分だったからこそ、政治利用の疑いはさておき、オスプレイの支援を依頼することができたのであり、マスコミは交通渋滞ために避難所に支援物資が届きにくい状況が続いていると報道することになった。

 災害大国日本の今後を考えると、人命救助のみならず、ヘリコプターは避難所への物資支援に欠かすことはできない輸送手段であるはずだが、今以て殆んど活用できていない。

 ここでヘリによる人命救助の非効率性に触れたいと思う。

 東日本大震災発生2011年3月11日の3日後の3月14日投稿の当ブログ記事――《救急ヘリコプターは1人吊りではなく、複数吊りできないものなのなのか、教えてもらいたい - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で題名通りの提案を行った。  

 〈ヘリコプター胴体底部にコンビニ出入口の二枚ドアの左右に開く自動扉のように電動で左右に開閉する開口部を設けて、その開口部から真上のヘリコプター内部の天井に取り付けた電動ウインチでロープではなく、ヘリコプター自体が風に煽られて動いたとしてもロープよりも影響の少ないワイヤーを取り付けて、その先端に折りたたみ式の金属製コンテナを取り付けて、箱型に組み立てた上、隊員1人が乗って目的場所まで降ろせば、安全ベルト等を装着する必要もなく、そのままの状態で3人から5人までの被災者を一度に救助でき、効率性は上がる。

 普段は折り畳んで収納しておけば、4~5個あったとしても、場所を取らない。

 コンテナはワイヤー先端から4本に分かれていて吊り上げることになるから、安定していて、少しぐらい風に煽られたとしても、人間を落とすことはない。万が一の用心にコンテナの壁部分の高さを人間の胸ぐらいの高さの物を用意すれば、自分から飛び降りるのでなければ、落ちることはない。他に注意することあるとすれば、折りたたみ式で四方の壁部分がそれぞれ独立しているから、開いた状態で外れないようにロックをしっかりと固定しておくことぐらいだろうか。

 コンテナが開口部近くに到達したとき、中で待ち構えていた隊員がワイヤーを掴んで開口部とコンテナのそれぞれの辺が合い、開口部に当たらずに室内に引き上げることができるように誘導すればいい。4本に斜めに分かれたワイヤーが開口部の何れかの辺に当たることによって逆に誘導してくれて、隊員はそれ程苦労しなくても誘導できるはずだ。〉――

 要するに開口部の四辺形にコンテナの四辺形を一致させるよう誘導して、コンテナが開口部に引っかからないようにする。

 左側に載せたヘリコプターの画像はマウスで線描きのツールを使ってコンテナを描いてそのときに使用したものである。

 今回の熊本地震でも南阿蘇村で自衛隊ヘリがウギの画像のように一人の隊員が抱きかかえた形で被災者を吊り上げて、その後広い駐車場に着陸して10人程度乗せて被災者を救援していたが、着陸しての救援は兎も角、吊り上げる場合は先ず被災者を途中で落下させないように両脇下や両腿下を通して支えることができる救助用ベルトをしっかりと装着してから、それぞれのベルトを一本に纏めたベルトの先端を吊り下げロープに固定、そして隊員自体の身体もロープに固定してその被災者を抱きかかえてヘリまで誘導する、画像で紹介しているようないつもの救助方法を取っていた。

 このように一人ずつの救助では時間がかかり、非効率である。

 熊本地震ではヘリで救助しなければならない被災者が少なかったからいいが、東日本大震災のような大規模災害が再び起こった場合や2015年9月10日午後0時50分頃、台風18号から変わった温帯低気圧と日本の東の海上を北上する台風17号の影響で関東と東北地方が記録的な大雨に見舞われ、茨城県常総市で増水した鬼怒川左岸の堤防が崩れ、氾濫して周囲約40平方キロメートルが浸水し、2千人以上が浸水域に孤立した大規模災害のような場合でも、これまでと同様に一人ずつ吊り上げていく、時間のかかる非効率な救助を行っていくのだろうか。

 ところが最近になって、《東京消防庁<航空消防救助機動部隊>》のサイトに巡り合った。  

 そこに「航空消防救助機動部隊」についての説明が載っている。〈首都直下地震発生が危惧される中、ヘリコプターの機動性を最大限に生かし、空と地上から都民の安心・安全を守るため、新たに作られる部隊です。

 平成28年1月6日発隊を目指し、日々厳しい教育、訓練を行っています。 〉――

 「Wikipedia」によると、〈2016年1月6日に東京消防庁出初式にて発隊式が行われて正式に運用を開始した。〉と書いてある。ブログに書いてから、4年6カ月にしてやっと実現したようだ。

 要するにこれまでのハイパーレスキュー隊とは異なる最新の技術を駆使した救助その他をヘリコプターで行うことを目的としているということなのだろう。

 そのページに、〈新資器材取り扱い訓練(車両吊り下げ及び大量救出用バスケット)〉 との説明と、〈孤立地域や高層ビルなどの救助活動時の人員投入や複数の要救助者を同時に救助するための資機材です。〉との解説が載っている。

 このページからコピーして画像を載せておいたが、 車両吊り下げの場合は画像にあるように車をモッコに乗せて、そのモッコをワイヤーで吊り下げながら空中を移動するようだが、解説からすると、大量救出用バスケットは孤立した被災者の救助だけではなく、消防隊員を孤立地域や高層ビルなどの救助活動に人員投入する場合、今まではヘリコプターから一人ずつ吊り降ろしていたのをバスケットに一度に大勢を乗せて吊り降ろすことで効率よく人員投入を図るという目的をも持たせていることになる。

 と言うことなら、大量救出用バスケットやモッコを使って、支援物資を避難所の駐車場なりの空き地に直接吊り降ろすことも可能と言うことになる。

 自衛隊にしても災害時の支援物資補給や人命救助を担っていながら、今回はヘリコプターで一度に複数人数を吊り上げる救助の機会はなかったかもしれないが、少なくとも交通の事情で輸送遅れが生じている避難所への物資補給をヘリコプターの活用で早めることができたはずだ。

 東京消防庁ができることを自衛隊ができないことはあるまい。東京消防庁がしていることと同じことは自衛隊はしないということなら、タテ割り根性に雁字搦めとなっていることの証明としかならない。
 
 今回の安倍政権の米軍オスプレイへの物資輸送支援要請が私の中では災害時の自衛隊ヘリ活用の不完全さを浮き上がらせることとなった。固定翼機と回転翼機を合わせて118機派遣したといったことは殆んど意味をなさない。支援が被災者に直接役立つかどうかを常に問題としなければならない。

 大規模災害時発生当初の避難所での定番化した物資不足の状況や非効率さが定番化した人命救助から如何に定番化を回避できるかを政府危機管理の課題としなければならない。

 それをせずに首相が避難所を訪問して、正座して被災者の声に耳を傾けようと、「国民の生命・財産を守る」としていることのゴマカシにしかならない。

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安倍晋三の憲法9条改正意欲に見る大いなる勘違い 国家主義の立場からと国民主義の立場からの改正は異なる

2016-05-03 08:52:00 | 政治


 安倍晋三が4月28日収録、4月29日放送の日本テレビ番組で憲法9条の改正に意欲を示す発言をしたとの趣旨を4月29日付「産経ニュース」が伝えている。

 下線部分は解説文を会話体に直した。

 安倍晋三「(9条改正を)これからもずっと後回しにしてよいのか、思考停止している政治家、政党に考えてほしい。政治家がやらなければならない仕事は沢山あるが、(憲法9条改正を)ずっと後回しにしてきた。

 もっと憲法審査会で活発な議論をするべきだ。指1本、触れてはならないという考え方はおかしい。

 国民も憲法をどう考えるかについて、まだ1票を投じるチャンスを与えられていない」

 司会「夏の参院選で憲法改正を発議できる3分の2以上の議席確保を目指すか」
 
 安倍晋三「私たちだけで3分の2を取るのは、ほとんど不可能に近い」

 相変わらず単細胞な発言を垂れ流している。確かに安倍晋三は9条改正に意欲を燃やしている立場から如何に改正するか、常に思考を働かせているだろう。だが、9条改正反対派、あるいは9条を守ろうとする立場の人間は如何に9条の改正を阻止するか、如何に9条を守るか、常に常に思考を巡らせているはずだ。

 それを「思考停止している」と決めつける単細胞は流石である。それぞれが異なる思考の持ち主だと気づきもしない。自身の思考を以って異なる思考は全て停止していると見ている。

 安倍晋三はコーヒーを飲みたいと思っている。安倍昭恵はお茶を飲みたいと思っている。安倍晋三は昭恵に対してきっと、「こいつ、思考停止している」と思うのだろう。

 「(憲法9条改正を)ずっと後回しにしてきた」と言っているが、大多数の国民が憲法9条改正を望んでいながら、政治がその意思に応えてこなかったということなら、「後回しにしてきた」と表現することは正しいが、大多数が望んでいるわけではないのだから、改正派の政治家としては後回しにせざるを得ない状況が続いていて、今以て同じ状況が続いているということであって、そう表現するのが正しい言い方となるはずだ。

 トンチンカンとしか言いようがない。いつものことだが、合理的判断能力ゼロ。

 5月2日付報道の「憲法の改正」についての4月15日~4月17日実施「NHK世論調査」がこのことを何よりも証明している。
 
 「憲法を改正する必要があるか」

 「改正する必要があると思う」27%
 「改正する必要はないと思う」31%
 「どちらともいえない」38%

 改正意思を示したのは27%、示さなかったのが31%。そしてどちらの意思も示さなかったのが最多の38%。改正意思は最少となっている。 

 憲法改正に関わるこういった国民の意見の分かれを踏まえると、「後回しにしてきた」という表現がどこから出てくるのだろうか。27%前後に対して正当性を持つ表現に過ぎない。多く見ても、半数は超えないはずだ。

 こういった状況にあることを弁えているからだろう、韓国訪問中の自民党総務会長二階俊博の5月2日の発言が出てくることになる。

 二階俊博「国民は必要性は認めていても慎重に考えている向きがあり、『憲法だ、憲法だ』と言うのは得策ではない。今の状況で自民党が参議院でも3分の2の議席を取ると言って、先頭に立ってしゃにむに憲法改正の旗を振るような姿勢を示せば、参議院選挙には勝てない」(NHK NEWS WEB/2016年5月2日 13時04分)   

 改正一点張りの思考のまま停止しているのは安倍晋三の方である。

 以上見てきたことからすると、安倍晋三の「国民も憲法をどう考えるかについて、まだ1票を投じるチャンスを与えられていない」との発言を記事は、〈現憲法下で国民投票を通じた改憲が一度も行われていない状況を強調した。〉と解説しているが、改正のために1票を投じる国民投票を必要としない国民も多く存在することを公平に考慮することができず、自身の必要性を以って他者の必要性と結論する、あるいは自分の都合を全てとするレベルの発言に過ぎないことになる。

 当然、「指1本、触れてはならないという考え方はおかしい」という発言も上記の範疇に入る、自分の都合から出ているに過ぎない。

 全ては単細胞だからできる発言の数々となっている。

 兼々安倍晋三は国家主義者だと言ってきた。国家主義者とは国家の存在性を優先させて、国民の存在性を国家の存在性に従わせる思想を言う。

 当然、国民主義は国家主義の逆の思想ということになる。国民の存在性を優先させて、国家の存在性を国民の存在性に従わせる思想と言うことになる。

 簡単に言うと、前者は“国家あっての国民”という考えで、後者は“国民あっての国家”という優先順位を取る。

 安倍晋三の国家主義は戦前の大日本帝国を肯定する儀式となっている、靖国史観に基づいた真榊奉納を含めた靖国神社参拝によって証明できる。戦前の大日本帝国は国民を天皇と国家への奉仕者と位置づけていて、国民の存在性よりも国家の存在性を優先させ、前者を後者に従わせる国家主義を国家と国民との関係性としていた。

 そのような戦前国家を靖国参拝を儀式として肯定しているのだから、国家主義者以外の何者でもない。

 安倍晋三の国家主義は2013年4月5日衆院予算委での細野豪志の質問に対する答弁にも象徴的に現れている。

 安倍晋三「先ずですね、勝手に私がですね、(笑って)あたかも自由や民主主義や基本的人権を否定しているが如くにですね、発言されるのは極めて迷惑な話でありまして、自民党案に於いても明確に(日本国憲法の三大原則である)平和主義・民主主義、基本的人権、この基本的な考え方、いわば国民主権ですね、そうしたものは受け継いでいくということを予めですね、宣言をしているわけでございます。

 そこは誤解のないようにして頂きたいと思いますが、憲法制定過程に於ける、問題点についてですね、私は申し上げているわけでありまして、しかし問題点は決して小さなものではないということは申し上げておきたいと、思うわけであります。

 そして同時にですね、憲法って言うものについては、権力を持っている、ま、権力者側、に対してですね、かつては王権でありますが、王権に対して様々な制約を国民が課す、という、そういう存在でありました。

 しかし今ですね、自由や民主主義が定着していて、国民主権ということが明らかである中にあって、果たしてそれだけでどうかということなんですね。いわば、どういう国にしていくか、ということもやはり憲法には、これは込めていくべきなんだろうと、このように私は考えているわけであります」――

 憲法が国家権力の恣意的な権力行使を制約する基本原理であり、日本国憲法の三大原則「平和主義・民主主義、基本的人権」が日本国民が国家権力に守らせるべき原則である以上、「平和主義・民主主義、基本的人権」は国民の存在性をより優先的にそうあるべきだと保障する規定であって、その保障に、そうしなければいけませんと国家の存在性を従わせる構造を取っていることになる。

 ところが安倍晋三は日本国憲法の三大原則を受け継いでいくとしながら、「果たしてそれだけでどうか」と言って、それ以外にという意味で、「どういう国にしていくか」と、新たな国家の存在性を構築すべきことを憲法に書き込むべきだと主張している。

 いわば憲法の「平和主義・民主主義、基本的人権」をより優先的に保障している国民の存在性を発展させて、その発展に国家の存在性を置く、後者よりも前者を優先させる主張ではなく、新たな国家の存在性の構築を言うことで、国民の存在性と分けて考えている。

 当然安倍晋三は国家の存在性を優先させて、国民の存在性を国家の存在性に従わせる国家主義者である。国家の存在性と国民の存在性を分ける考えは憲法の国民の存在性優先の枠を外すことを意味する。

 安倍晋三が自らの国家主義の思想と相まって分けて考えることによっていつ何時、国家の存在性を国民の存在性に優先させる決まり事を憲法に塗り込めない保証はない。

 その第一歩と狙っているのが、安倍晋三が考えている大規模災害や軍事的有事の際、首相の権限強化と人権の特別な制限を定め、そのことによって国民の存在性よりも国家の存在性を優先させる国家主義を前面に押し出すことになる緊急事態条項の日本国憲法への追加であろう。

 それが制限なく国家の存在性を優先させていった場合、国家の存在性優先の国家主義の色合いを益々濃くしていくことになる。

 いくら安倍晋三が「思考停止」だ何だと言って憲法改正を急ごうとも、国家主義の立場からの憲法改正と国民主義の立場からの憲法改正とでは全く別物であって、国家優先か国民優先かで国民の存在性に与える危険度はケタ違いとなることに留意しなければならない。

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熊本地震:2次元的水平方向のゴミ処理に見る定番化した混乱、3次元的垂直方向への処理に変えるべき

2016-05-02 10:27:23 | Weblog


 何日か前のブログに大自然災害が発生した場合の避難所の被災者の収容が床だけの2次元的水平方向の空間利用にとどまっていて、そこに大勢を押し込めることになるから、窮屈や不自由を強いて、プライバシーも守れなくなるが、天井方向の空間がだだっ広く広がるに任せて何も利用させていない、ビル建設時の足場を作るレンタル資材を利用して2段か3段の高さにすれば、各仕切り毎に個室に近いスペースを設けることができる3次元的垂直方向の空間利用で被災者を収容させたなら、より多く被災者を収容できて、プライバシーもそれなりに守ることができるし、物資支援等の管理も集約できると書いた。

 2次元的水平方向の空間利用のみで3次元的垂直方向の空間利用が頭にないのは避難所の被災者収容に関してのみではない。ゴミ処理に関しても同じことを指摘できる。

 熊本地震が発生して4、5日も経つと、避難所の建物の前の道路脇はビニール袋に入れられた生ごみ等の生活ゴミが山積みとなり、道路の中央近くにまで場所を広げている様子をテレビが映し出していた。

 市のゴミ処理センターの焼却炉が壊れて運転不能が生じていたり、道路が通れなくなっていたり、不通道路があちこちで生じているために交通渋滞が生じていたり、あるいは人手不足などの理由を挙げていたが、要するに回収が追いつかない状況に追い込まれていた。

 悪臭がするといった批判も起きていたようだ。道路が仮のゴミ置き場となって道幅を狭めると、車がスムーズに走れなくなって、このことがまた交通渋滞の原因となる。

 だが、こういったことは大きな災害が起きるたびに繰返すことになる定番化しているシーンである。

 回収されないまま一個所に野積み状態で棄て続ければ、3次元的垂直方向へは一定限度以上は高く積み上げることができす、それ以降は2次元的な水平方向へのみ場所を広げていくことになる。

 底辺が広がれば、ゴミの山に登ってより高く積み上げていくことができると考えるかもしれないが、ビニール袋はいくらゴミを中に詰め込んでも、しっかりと固まった状態になるわけではないし、ゴミ袋とゴミ袋の間に足を取られて不安定この上なく、満足に立っていることも歩くこともできない。下手をすると、ビニール袋を破いて、腐臭があたり一面立ち込めることになる。

 結果、テレビで報道している通りのシーンとなる。

 ゴミ処理に関してもいつまでも2次元的水平方向の空間利用を繰返すのではなく、なぜ3次元的垂直方向の空間利用を可能とする方法を思いつかないのだろうか。

 大型スチール製ボックスパレットなるものが存在する。 

 画像で示しておいたが、加工用のキャベツや里芋その他、小型の鋳物製品等、段ボール箱に入れて何段か重ねると、上から圧力がかかって製品が潰れたり傷ついたりする恐れのある場合は貯蔵に5、6段、あるいはそれ以上、運送に3、4段は重ねることができるスチール製のボックスパレットを使うことになる。

 つまり野菜工場や鋳物工場、その他日常的にボックスパレットを使っている会社と災害時には借りる契約を前以て結んでおいて、各避難所に運び入れて、一列に何個か並べておいて、ペットボトルならペットボトル、生ごみなら生ごみと手製の貼紙をしておけば、その場で分別もできる。

 重さは何も入っていない一個の場合は大人二人で持つことができる。一杯になったら、空のボックスパレットを積んでクレーン付きの車に来て貰えば、入れ替わりにゴミで一杯になったボックスパレットを2段重ね、3段重ねで荷台に積むことができるから、その場の処理も簡単にできるし、焼却場が使えなくなっていて仮置き場に置くにしても、前後2列3列と裾から順に広げていけば、7段や8段、あるいは10段近くは積むことができて場所は取らないし、ボックスに入っていれば野積みと違ってビニールが破れることも殆どない。

 3次元的垂直方向の空間利用は満足にできない山積みではなく、本格的にそれができることになる。

 今回の熊本地震では熊本県内各地の焼却炉が使えくなって、他の自治体が引受けることになったが、仮置き場からそこに運ぶにしても、ボックスパレットに入っていれば、さしたる面倒もなく移動させることができ、処理時間を短縮できる。

 もし道路が通行不能でボックスパレットを運び込むことができない避難所があるなら、自衛隊のヘリで運べばいい。

 2008年6月14日発生の岩手・宮城内陸地震では宮城県栗原市の旅館「駒の湯温泉」が土石流に飲み込まれて客や従業員ら7人が犠牲になったが最後の2人の捜索に政府は自衛隊の大型ヘリを使って掘削容量0.4平方メートルの重機(機体質量8トン強)を地震発生12日後にやっと運び込んでいる。

 それまでは道路が寸断されていて重機は搬入できないとして、自衛隊員が手作業で捜索に当っていたが、満足に捗らせることができなかった。2次元的水平方向ばかり見ていて、3次元的垂直方向を見る目を持たなかった。

 画像は当時自衛隊のヘリが重機を吊り上げていたときのものである。

 今回は建物の倒壊が多く、片付けの段階となって木材が大量に搬出されて、電気器具やその他と一緒に仮置き場で重機で無差別に山積みされていったのだろう、無残な廃材の山をテレビで見ることになった。

 道路や庭の置ける場所にボックスパレットを置いて電気製品は電気製品、コンクリートの塊や瓦はそれらと分別させて順序よくボックス内に収めて貰ったなら、1個のボックスにより沢山収納できるし、仮置き場に運んだ以後の処理もよりスムーズに行うことができる。

 廃材は仮置き場に木材破砕機を置いて、その場でチップにできないものなのだろうか。チップにしてしまえば、後処理がより簡単になる。

 画像はコマツ製の自走式木材粉砕機だが、米国製の自走式木材粉砕機の販売を2003年12月から手掛けている会社のサイトには、〈金属片や巨大な異物等が回転破砕部に混入しても、機械本体の致命的な損傷を抑える「スクリーン個別解除装置」で完全に保護できます。〉、〈排出用のベルトコンベア先端にはマグネットローラーを装備。釘などの金属類を選別・除去し、異物の混入を防止します。〉と書いてあって、例え釘や他の小さな金属が取り付けてあっても廃材のチップ化に不都合がないことを伝えている。  

 2003年から販売しているのだから、日本の自走式木材粉砕機が過去に於いては金属が付いていた場合粉砕できなくても、モノマネは得意なのだから、既に米国製同様、あるいはそれ以上に金属片を除去する技術を備えているはずだ。

 ネットで調べると、コマツだけではなく、日立建機、株式会社諸岡でも製造している。価格は7千万円以上するが、それなりに需要があることになる。これも災害時に限ってレンタルできる契約を結んで利用できないものだろうか。
 最近駐車場の一角や道路脇の空き地に古紙やビール缶等のリサイクル品を捨てるボックスが置いてある。一杯になると、画像にある脱着ボデー車(アームロール車)がやってきて、運転手が一人で運転席の機械を操作して空のボックスを置いて、一杯になったボックスを荷台に積んで走り去る。車はダンプできるようになっているから、簡単にそれぞれの圧縮機にかけることができる。

 この脱着ボデー車はもう20年かそこら前から東名高速道路の法面の草刈りの際に出た草を処理・運搬するのに使われていた。災害の際にはこの利用も考えられる。

 大きな災害が発生する場に繰返す定番化したシーンを少しでも改めるためには2次元的水平方向の空間利用から3次元的垂直方向の空間利用への転換を心がけるべきではないだろうか。

 いわば2次元的水平思考から3次元的垂直思考への転換である。

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稲田朋美にとって靖国神社は戦前日本国家を映し出し、そこに繋がる通路、参拝はそのための儀式

2016-05-01 09:29:51 | Weblog


 安倍晋三にとっても右へ倣え、同じである。

 安倍晋三と右翼国家主義を共にする稲田朋美がサンフランシスコ平和条約発効日と同じ4月28日に靖国神社に参拝した。サンフランシスコ平和条約は1952年4月28日発効。

 この日日本はこの条約によって連合国との戦争状態が終結し、沖縄を除いて主権の回復が許された。

 稲田朋美は毎年この日に合わせて靖国神社を参拝していると、「NHK NEWS WEB」が伝えているが、そのことを迂闊にも初めて知った。  

 当然、稲田朋美にとって、この日に合わせることに意味があることになるが、合わせていると知れば、多くの人が「ああ、そうか」と簡単に頭に思い浮かぶはずだ。

 記事は参拝後の稲田朋美の発言を伝えている。

 稲田朋美「主権国家として、しっかりと歩んでいくという思いを込めて、この日に参拝を続けている。きょうも、祖国のために命をささげた方々に感謝と敬意と追悼の気持ちを持って参拝した。靖国神社を参拝することは国民一人一人の心の問題だ」――

 「靖国神社を参拝することは国民一人一人の心の問題だ」と言っているが、その「心」の質・内容如何にかかる。

 当然、「主権国家として、しっかりと歩んでいく」についても、どのような「主権国家」を目指そうとしているのか、その質・内容が何よりも問題となる。

 その答は靖国参拝をサンフランシスコ平和条約発効日と同じ4月28日に合わせているところにあるのは断るまでもない。

 日本は戦艦ミズーリ船上で連合国との間で降伏文書に正式調印した1945年(昭和20年)9月2日から1952年4月28日サンフランシスコ平和条約発効前日まで連合国の占領下にあった。

 占領政策については毀誉褒貶があるが、その占領軍によって日本は戦後民主主義を獲得できた。このことは戦後の幣原内閣(1945年(昭和20年)10月9日~1946年5月22日)下で憲法の調査研究を担当した松本烝治国務大臣が自ら作成した「憲法改正私案」が証明する。

 戦前の国家主義の血を色濃く継いだ条文のみを掲載する。


 《松本国務相「憲法改正私案」国立国会図書館) 

第三条 天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス

第十一条 天皇ハ軍ヲ統帥ス

第十二条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ戦ヲ宣シ和ヲ講ス

第十三条 天皇ハ諸般ノ条約ヲ締結ス但シ法律ヲ以テ定ムルヲ要スル事項ニ関ル条約又ハ国庫ニ重大ナル負担ヲ生スヘキ条約ヲ締結スルハ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ

第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

 松本試案は天皇の地位を「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と定め、その絶対性を謳っていて、大日本帝国憲法の「第1章天皇 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めた天皇の絶対性と表現は違っていても、意味そのものは何ら変わりはない。

 戦後政府の人間は民主主義とは無縁の戦前の国家主義の血をそのまま引き継ぎ、その血を以後の時代に伝えようとした。いわば民主主義の血を期待しようもなく排除していた。

 天皇の地位を絶対的としているために、その反対給付として国民の基本的人権を制約することになる。

 「第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」・・・・・

 「信教ノ自由」等の基本的人権は国家・社会の「安寧秩序」を壊さない条件付きでしか認められないとしている。国家権力が国家・社会の安寧を壊すものだと決めれば、直ちに基本的人権は制限を受けることになって、国家権力の恣意に従わされる危険性を常に抱えることになる。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーは天皇の絶対性を保障する点に於いて大日本帝国憲法と何ら変わらない、いわば民主主義の血を通わせていない松本憲法改正私案を拒否、日本政府には任すことはできないと諦めたのだろう、GHQ 監督下で、安倍晋三が「占領軍の作った憲法だ」と忌避・嫌悪する現行の日本国憲法が作成され、帝国議会の審議を経て1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行されることとなった。

 この経緯を見ても、戦後日本は占領軍によって民主主義を獲得できたと言うことができる。

 戦後政府の人間に任せていたなら、天皇は戦前の国家主義の姿を纏ったまま戦後の日本の国家・社会に復活することになり、国民の基本的人権は天皇の絶対性を保障する道具とされたはずだ。

 当然、稲田朋美が靖国参拝を日本が主権を回復したサンフランシスコ平和条約発効日と同じ4月28日に合わせているということは、主権回復を祝していると同時に占領時代(占領と占領政策)を主権を奪った時代として否定し、忌避・嫌悪していることを意味する。

 このことは2015年12月27日の当ブログ《歴史検証機関「歴史を学び未来を考える本部」立ち上げは安倍晋三の「歴史認識は歴史家に任せる」を裏切る - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取り上げた稲田朋美の記者会見発言が証明することになる。    

 金友記者「共同通信の金友です。GHQの占領政策の検証を始められるという報道がありますが、具体的にはどういった検証を、どういった目的で始めようとお考えなのか、教えてください。

 稲田朋美「GHQということに限らず、党内でいまやっております日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会であったり、4月28日を主権回復記念日にする議員連盟であったりの参加議員から、何を日本として反省するかということを含めて、1928年すなわち不戦条約以来の日本の歩みについてきちんと検証することが必要だという意見があったり。

 また4月28日の議連はサンフランシスコ平和条約が発効した4月28日までの6年8カ月の占領期間において何が行われ、また憲法の制定過程も含めて、そういったことをきちんと検証をする必要があるという提案をいただいていますので、そういったことをきちんと検証することが必要であろう、というふうに思っております」

 金友記者「いつ頃どういった形で、というのは現時点で何かありますでしょうか」

 稲田朋美「やはりいま日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会で、これは特に慰安婦の問題を中心に取扱っているんですけれども、この提言がまとまって以降に考えています」――

 そして自民党は2015年12月22日、 安倍晋三直属の歴史検証の勉強会を立ち上げた。

 趣旨は「日本の名誉と信頼を回復するため」

 要するに占領と占領政策は日本の名誉と信頼を失わせた元凶と位置づけ、主権回復の日を日本の名誉と信頼を回復した契機と見ている。当然、占領政策を否定することになる。

 当ブログに何度となく取り上げていることだが、安倍晋三も占領政策を否定している。2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」に寄せた安倍晋三のビデオメッセージ。

 安倍晋三「皆さんこんにちは。安倍晋三です。主権回復の日とは何か。これは50年前の今日、7年に亘る長い占領期間を終えて、日本が主権を回復した日です。

 しかし同時の日本はこの日を独立の日として国民と共にお祝いすることはしませんでした。本来であれば、この日を以って日本は独立を回復した日でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、そしてきっちりと区切りをつけて、日本は新しいスタートを切るべきでした。

 それをやっていなかったことは今日、おーきな禍根を残しています。戦後体制の脱却、戦後レジームからの脱却とは、占領期間に作られた、占領軍によって作られた憲法やあるいは教育基本法、様々な仕組みをもう一度見直しをして、その上に培われてきた精神を見直して、そして真の独立を、真の独立の精神を(右手を拳を握りしめて、胸のところで一振りする)取り戻すことであります」・・・・・・・
 
 否定的な趣意で、占領政策によって日本は改造され、日本人の精神に影響を及ぼしたと主張することで占領時代(占領と占領政策)を否定している。

 この否定は戦前日本国家の肯定に他ならない。安倍晋三が言っていることの裏を返すと、「占領がなければ、日本は改造されることも日本人の精神が影響されることもなかった」と言っていることになるからだ。

 結局のところ稲田朋美の靖国参拝は占領政策を否定するためにサンフランシスコ平和条約発効の4月28日に合わせているのであって、安倍晋三と同様、占領政策の否定は戦前日本国家の肯定に他ならないことになる。

 稲田朋美が靖国参拝時に記者に「主権国家として、しっかりと歩んでいく」と発言していたことは戦前型の主権国家指していることになる。

 戦前日本国家と戦後日本国家との間に連続性を持たせたかったが、占領政策がそれを邪魔した。連続性を持たせるためには日本国憲法ではなく、松本「憲法改正私案」に基づいた天皇絶対性の憲法が必要だったはずだ。

 でなければ、連続性を持たせることは不可能となる。
 
 稲田朋美が靖国参拝をサンフランシスコ平和条約発効の4月28日に合わせることが占領時代(占領と占領政策)の否定と戦前日本国家の肯定を意味するなら、稲田朋美にとって靖国神社は戦前日本国家を映し出し、そこに繋がる空間となっているはずだし、参拝はそのための精神的且つ身体的儀式となっているはずだ。

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