◆2010年3月10日:阪急電鉄創業100年
本日、阪急電鉄は創業から100周年を迎えました。Weblog北大路機関発祥の地が十三駅、ということもあり、百周年の本日は、Weblog北大路機関も阪急特集です。
阪急電鉄と言えば大阪梅田を中心に、神戸三宮、京都河原町、宝塚を結ぶマルーン一色の地味な電車というイメージを持たれる方も多いかもしれないが座席はアンゴラ羊の高級感あるものが採用されていて、窓には重厚なアルミ製鎧戸、内装は木目調化粧板が張られた暖かみのあるものに仕上がっています。クロスシート、ロングシートともに他の鉄道線にのって初めて気づく配慮がある電車を運行しています。
阪急電鉄は営業距離144kmの大手私鉄で、宝塚本線24.5km、神戸本線32.3km、京都本線45.3kmを中心に10の路線から成り立っています。1923年、日本で最初にパンタグラフを採用、1926年には民営鉄道として最初の複々線路線を一部区間で実現しています。
1959年には複々々線が実現して、1967年には日本で最初に千里線へ自動改札機が実現しまして、技術的にも日本で先端をゆく会社であったりもします。先進的な部分をいち早く取り込む一方で比較的早い時期にアルミ車を導入しても塗装はマルーンのままなど保守的な一面もあるので、こういうところが、阪急カラー、というところなのでしょうね。
しかし、阪急といったら阪急百貨店や芦屋の高級住宅地、沿線に誘致した数々の大学や私立高校といった都市計画のほうがピンとくるかもしれません。沿線の宅地開発は、阪急の象徴ともいえる事業で、大阪府豊能郡の池田町室町に住宅街を整備したことを筆頭に多くの宅地開発を行ってきました。
宅地開発は広く行われていまして、箕面市の桜井、豊中市豊中と東豊中と曽根、池田市の石橋、宝塚市の雲雀丘、稲野と新伊丹を中心とする伊丹市、西宮市の西宮北口、尼崎市の武庫之荘や塚口と園田、神戸市の岡本といった住宅街が整備されました。阪急の駅を中心に街を創り上げていったという事ですね。
旅客輸送需要がある場所には既に鉄道省が路線を整備していましたので、それならば住宅街を整備して需要を生み出せばいいのだ、という概念は時期的には阪急の小林一三社長の考え出したものが最初のようなのですが、小林氏の同郷で後輩の五島慶太氏もそれに見習うことになりました。
五島氏は先輩の小林氏とおなじ鉄道経営者で東京横浜電鉄の社長を務めた人、阪急に見習って造成されたのは田園調布住宅街で、東京横浜電鉄とは今日の東急電鉄です。こうして阪急電鉄が鏑矢を放った鉄道会社の宅地開発は、鉄道会社の事業拡大の一つのモデルとなっていきました。
阪急電鉄は電鉄会社ではあるのですけれども、デパートから宝塚劇場まで、阪急阪神東宝グループ300社の中心にある企業で、阪急電鉄だけで年間旅客輸送八億という旅客輸送を担っているのですが、その実態は従業員5000、年商の半分は鉄道輸送で、そしてもう半分は街づくり、という企業だったわけです。
阪急電鉄というと、今では揺るがぬ存在、マルーンの電車ここにありといえるのですけれども、箕面電車として箕面に路線を引いてから、神戸本線や宝塚本線が開業するまでは、小さい私鉄、という印象が強かったようです。そこで本日は、阪急の三本線について、その創業時代の話を百周年という事で掲載します。
阪急の始まりは箕面有馬電気軌道が1910年3月10日に開業したところから始まります。東風吹く風に先駈けて♪開く梅田の東口♪行き交う汽車を下にみて♪北野にわたる跨線橋♪、いまから百年前の話です。梅田と宝塚間の24.9km、石橋と箕面の4kmが始まりの路線でした。
しかし、創業時に専務の小林一三氏は沿線に遊園地造成や宅地開発などを行い、阪急電鉄へと大きく展開させることとなります。創業当時は木製1型電車が単行で単線の新淀川鉄橋を渡り行き交っていたとのこと、乗客ははじめてみる電車に思わず下駄を脱いで乗車して、沿線で老人が手を挙げると電車は停車して駅でなくとも乗車できた、そんな時代であったということです。
日露戦争終結から五年、第一次世界大戦へと繋がるモロッコでの独仏の対立や中国大陸での動乱を背景に、日本は全力で近代化を試みていた時代、幾つもの鉄道線が計画され、そのなかで実現したいくつかの路線の一つが、箕面有馬電気軌道であった、ということです。今日の配線か存続かではなくどこに新しい路線を建設するか、という時代だったんですね。
阪神急行電鉄として躍進を遂げるのは十年後、神戸本線の開業1920年、いまから90年前の話です。鉄道敷設には鉄道省の許可が必要な時代で、鉄道省線と競合する区間というのはなかなか敷設許可が降りず、軌道、つまり路面電車として開業している会社も多かった時代、既に阪神電鉄が大阪と神戸を結んでいました。
阪急電鉄、当時は箕面有馬電気軌道という社名でしたけれども、大阪と神戸を結ぶ路線の許可を鉄道省に求めた時代、当然、阪神電鉄は鉄道省に苦情を申し入れましたが、なんとか敷設許可も下りて、1920年に神戸本線が上筒井間での区間開業した際に、既に路線と固有の乗客をもっていた阪神電鉄からは複々線化工事の検討など勢いもあって、いやあ同情するよ、阪神には今更追いつけないだろうからね、という言葉が寄せられたのだとか。
この発言の主は阪神電鉄の乗務から、といわれているのですが、ここから阪神電鉄と阪急電鉄は戦争状態にはいっていった、と伝えられています。戦争ではなく、競争では、という気もしますが、伝えられる資料を読み解くと、いや、これはもう、という部分があります。そこで、少しその状況を紹介しましょう。
箕面有馬電気軌道は神戸本線着工で、阪神急行と社名を改めたのですが阪神電鉄は、阪急神戸本線開業とほぼ同時期、車内で乗客にハンカチの記念品配布を行った、と伝えられています。乗客の維持、という意味でしょうか。すると、開業したばかりの阪急神戸本線でも負けてはいられないと言うことで記念品のタオルが配られたとのこと。当時大阪~神戸間は運賃40銭、今ほどタオルもハンカチもやすかった時代ではありませんので赤字になっていたのではないでしょうか。
宝塚にあった阪急の宝塚大劇場前に阪神電鉄系列のバス会社が路線を開業して大阪とを結ぼうとした際に、阪急社員がバリケートを設置したとか、話が残っています。似たような話は近畿日本鉄道と名古屋鉄道の間でもあったのですが、もう少し阪急阪神の方が激しいような気もします。
年末年始には阪急が神戸本線の西宮北口と夙川の中間に臨時駅を仮設して西宮神社への参詣輸送で阪神電鉄からの乗客移転を試み、怒った阪神が当時電気事業を行っていた関係で沿道の街灯を停電させて対抗した、という話、今津線沿線の東光寺での催事に臨時運行を行った際に道路の歩道に障害物を置いたなど、勇ましい話(?)は数多く残されています。
駅員さんがバリケートを構築したり、停電させたり、と戦前の話なのだとはいえ、かなりきわどいことが行われていたのですけれども、サービスの維持と運賃値上げを行わない、定時運行と安全厳守など、鉄道事業者としての不可欠な部分でも競争は行われていたことは言うまでもありません。
さて、こうした中で1921年、阪急電鉄は運行の高速化のために架線と車両の間に、トロリーポールではなくパンタグラフを採用します。パンタグラフといえば、逆に日本国内ではトロリーポールの車両の方が動いている車両では明治村の京都市電暗いしか思い浮かばないのですが、当時としては最新の技術で、パンタグラフ採用は、日本では阪急が最初であった、ということです。
こうして、大阪と神戸の間は当初50分を要していましたが、40分にまで短縮され、トロリーポールの時代は度々外れて立ち往生したのにくらべ、故障の発生率は大きく低下した、と伝えられています。1930年には全鋼製電車900系が投入されて、1934年に大阪神戸間は特急で25分に短縮、1936年には三宮駅が開業し、阪急は神戸中心部に直接乗り入れることが実現しました。
京都本線の開業についての話です、京都本線はは、45.3kmと、現在のところ阪急では本線と名が付く中で最長の路線なのですけれどもその昔は京阪電鉄系列の新京阪が整備した路線でした。開業は1931年。現在の京阪本線は大阪までJRの新快速や阪急特急と比べて遅い印象があります。
京阪本線より早い路線を、そのための高速線として開業した路線が現在の京都本線、ということになっています。ここはおもしろい話があって、電車ファンならずとも他の鉄道線や高速道路と併走するときはなかなか手に汗を握るものがあります。握りすぎて”電車でD”という”頭文字D”のパロディ本が巻を重ねていることもあるのですが、新京阪が現在の京都本線を整備したときにもにたようなものがあったという話が残されています。
新京阪電鉄は、大型で特急用のP6型、小型で普通電車や千里山線や嵐山線用のP5編成という二系列から成っていたのですが、多くの運転士は新鋭で大型高性能のP6編成を運転することを夢見て、運転士としてP5で経験を積んでいきました。品行方正で優秀な運転士でなければP6の運転台へは上げてもらえなかったということなのですけれども、1300時天神橋発京都行き特急だけは、その例外であったようです。
というのも、同時刻、鉄道省が誇る特急つばめ号が大阪駅を東京に向けて発車しているからです。相手は蒸気機関車、モクモクと煙を上げながら東海道本線を進む姿は遠くからも見えたようで、早い時期から直流1500ボルトであった新京阪線としてはここから追い上げるわけです。新淀川の鉄橋で高々と白煙をあげる機関車をみつけるとP6もどんどん加速、正雀を過ぎて吹田のあたりで再び機関車の蒸気が見えてきます、ここは直線区間なのでP6は勝負をかけて茨木、高槻を越えた場所で再び東海道線に接近、天王山の戦いや山崎の決戦とよばれるこの場所でP6は、つばめ号を追い抜くと向こうは特急料金が必要な日本最速の列車、P6の社内からは拍手さえもわき起こった、と伝えられています。ええと、P6に乗務するには品行方正で、優秀な、と言われていたはずなのですが・・・。というように、宝塚本線、神戸本線、京都本線は興味深い歴史とともに建設されました。第二次世界大戦により輸送合理化の為の国家方針により京阪電鉄と合併して京阪神急行電鉄になり、戦後には分社化、今日の阪急電鉄に至るまでの話も、それはそれは興味深い話があるのですが、かなり長くなりますので、本日はこのくらいにしたいと思います。最後になりましたが阪急電鉄創業100周年、おめでとうございます。
北大路機関
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