■京都,祇園四条界隈を巡る
祇園四条といえば祇園会の八坂神社はじめ多くの寺社仏閣を思い浮かべる方が多いでしょう、実は先週個人的な話ですが結膜炎で痛い目に遭いまして、そこで思い出したのが此処の参拝でした。

目疾地蔵尊仲源寺、東山区四条通大和大路東入ル祇園町と八坂神社の直ぐ手前にあります。仲源寺という山号よりも、目疾地蔵尊、めやみのお地蔵様、と聞きますと祇園界隈では分りやすい。広大な寺域という訳ではありませんが、その歴史は平安朝中期まで遡る京都街中の古寺です。

洛陽三十三所観音霊場第十六番札所に列せられる仲源寺は仏師定朝が彫像を重ねる中に会心の出来を開眼し、自らその仏像を奉じる寺院を望み、1050年頃に建立しました。当初は仏堂一つの、今日と同じ規模の御堂を鴨川は四条大橋の東北地に安置したと伝わります。

定朝とは天喜年間の11世紀中ごろまでに活躍した仏師で、藤原実資の支援により寄木造技法彫像を完成させ、従来の一本大木を多数必要とする仏教彫像を一新した偉業があります。この技術は時の権力者藤原道長をも唸らせ、法橋の階位を仏師として初めて賜りました。

平等院本尊の木造阿弥陀如来坐像、定朝の彫像として最も知られているものはこの国宝でしょう。目疾地蔵尊仲源寺は、上記傑作を寺社へ奉じ続けた定朝でさえ、一つ手放したくなく、法橋の階位とともに自らの仏像奉じ寺院建立を決意させた、ということとなります。

鎌倉時代安貞年間の1228年、御堂は寺院へと広まります。この安貞年間に幾度か遭った豪雨、中でも鴨川大洪水となりまして、当時は堤防は勿論水防の認識も無い時代、防鴨河使の使者が仏堂の地蔵尊に洪水鎮定を祈願したところ、水位低下の御利益があったという。

寿福山仲源寺の寺号を賜ったのは、この1228年の洪水鎮定が朝廷に評価された為でした。ただ、洪水鎮定の御利益というよりは、目疾地蔵尊として眼病平癒がいつからか民衆に御利益として広まった為という。四条通散策に併せて、ひとつ、この目疾地蔵尊を参拝する。

目疾地蔵という事で眼病か、と問われますとそうではなくカメラのレンズ、つまりカメラの眼について、昨今悩みがあるのです。京都盆地は梅雨時からどうしても湿気が籠り、これも部屋の除湿云々ではなく、洛中洛外一括りに湿気が籠っているから困りものでして。

地蔵菩薩へ手を合わせて拝むのは日常の御挨拶ですが、御利益あるならばカメラレンズの曇りは如何ともならないか、という。具体的には当方、即座に最初の一枚を撮れるよう、特にミラーレス一眼についてはレンズキャップを常時開放したままにて携行しています。

眼病というよりも、そこで湿気のある日に上着のポケットに収容したミラーレス一眼のEOS-M-3はレンズがどうしても曇ってしまいまして、まあ、今回ご紹介のような写真となってしまうのですね。目疾地蔵へ祈るのは、この原因の暑さと湿気よ、去ってほしい、と。

パソコンを仕事でもその他でも活用しているのですが、カメラのレンズとともに当方の目も休ませたい、とは思うもの。考えてみればカメラもそうですが当方も視覚に頼っている訳でして、これは昔から今までも変わらぬ、眼病平癒の願いというものを考えさせられる。

観音堂の千手観音は木造千手観音坐像となっていますが、目疾地蔵は山門を入り手前に鎮座していまして、水掛地蔵のように眼病平癒を願い地蔵尊を洗います。それほど大きな寺院ではないのはご覧の通りですが、四条通は八坂神社参拝と共に拝みたい神社の一つです。

天正年間の1585年、豊臣秀吉による鴨川治水工事の一環として四条大橋界隈にも築堤が行われる事となりまして、目疾地蔵尊仲源寺は現在地へと遷座しました。洪水鎮定の祈願よりも築堤こそがという合理精神ですが、遷座は僅か数百m、その御利益は続きそうですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
祇園四条といえば祇園会の八坂神社はじめ多くの寺社仏閣を思い浮かべる方が多いでしょう、実は先週個人的な話ですが結膜炎で痛い目に遭いまして、そこで思い出したのが此処の参拝でした。

目疾地蔵尊仲源寺、東山区四条通大和大路東入ル祇園町と八坂神社の直ぐ手前にあります。仲源寺という山号よりも、目疾地蔵尊、めやみのお地蔵様、と聞きますと祇園界隈では分りやすい。広大な寺域という訳ではありませんが、その歴史は平安朝中期まで遡る京都街中の古寺です。

洛陽三十三所観音霊場第十六番札所に列せられる仲源寺は仏師定朝が彫像を重ねる中に会心の出来を開眼し、自らその仏像を奉じる寺院を望み、1050年頃に建立しました。当初は仏堂一つの、今日と同じ規模の御堂を鴨川は四条大橋の東北地に安置したと伝わります。

定朝とは天喜年間の11世紀中ごろまでに活躍した仏師で、藤原実資の支援により寄木造技法彫像を完成させ、従来の一本大木を多数必要とする仏教彫像を一新した偉業があります。この技術は時の権力者藤原道長をも唸らせ、法橋の階位を仏師として初めて賜りました。

平等院本尊の木造阿弥陀如来坐像、定朝の彫像として最も知られているものはこの国宝でしょう。目疾地蔵尊仲源寺は、上記傑作を寺社へ奉じ続けた定朝でさえ、一つ手放したくなく、法橋の階位とともに自らの仏像奉じ寺院建立を決意させた、ということとなります。

鎌倉時代安貞年間の1228年、御堂は寺院へと広まります。この安貞年間に幾度か遭った豪雨、中でも鴨川大洪水となりまして、当時は堤防は勿論水防の認識も無い時代、防鴨河使の使者が仏堂の地蔵尊に洪水鎮定を祈願したところ、水位低下の御利益があったという。

寿福山仲源寺の寺号を賜ったのは、この1228年の洪水鎮定が朝廷に評価された為でした。ただ、洪水鎮定の御利益というよりは、目疾地蔵尊として眼病平癒がいつからか民衆に御利益として広まった為という。四条通散策に併せて、ひとつ、この目疾地蔵尊を参拝する。

目疾地蔵という事で眼病か、と問われますとそうではなくカメラのレンズ、つまりカメラの眼について、昨今悩みがあるのです。京都盆地は梅雨時からどうしても湿気が籠り、これも部屋の除湿云々ではなく、洛中洛外一括りに湿気が籠っているから困りものでして。

地蔵菩薩へ手を合わせて拝むのは日常の御挨拶ですが、御利益あるならばカメラレンズの曇りは如何ともならないか、という。具体的には当方、即座に最初の一枚を撮れるよう、特にミラーレス一眼についてはレンズキャップを常時開放したままにて携行しています。

眼病というよりも、そこで湿気のある日に上着のポケットに収容したミラーレス一眼のEOS-M-3はレンズがどうしても曇ってしまいまして、まあ、今回ご紹介のような写真となってしまうのですね。目疾地蔵へ祈るのは、この原因の暑さと湿気よ、去ってほしい、と。

パソコンを仕事でもその他でも活用しているのですが、カメラのレンズとともに当方の目も休ませたい、とは思うもの。考えてみればカメラもそうですが当方も視覚に頼っている訳でして、これは昔から今までも変わらぬ、眼病平癒の願いというものを考えさせられる。

観音堂の千手観音は木造千手観音坐像となっていますが、目疾地蔵は山門を入り手前に鎮座していまして、水掛地蔵のように眼病平癒を願い地蔵尊を洗います。それほど大きな寺院ではないのはご覧の通りですが、四条通は八坂神社参拝と共に拝みたい神社の一つです。

天正年間の1585年、豊臣秀吉による鴨川治水工事の一環として四条大橋界隈にも築堤が行われる事となりまして、目疾地蔵尊仲源寺は現在地へと遷座しました。洪水鎮定の祈願よりも築堤こそがという合理精神ですが、遷座は僅か数百m、その御利益は続きそうですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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