北大路機関

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【京都発幕間旅情】滋賀院(比叡山延暦寺滋賀院門跡),名勝屏風に平安朝院政の始まりを見る

2019-05-15 20:10:24 | 旅行記
■天海開祖の寺院拝観
 滋賀散策は近くて新鮮な風情との出逢いが多い、京阪石山坂本線を終点まで乗っていったのはほんの気まぐれという気軽な散策の延長でした。

 比叡山延暦寺滋賀院門跡、延暦寺といいますと京都市内からは見上げる比叡山の奥に鎮座し、桓武天皇以来歴代天皇の御霊を祀る寺院です。そして延暦寺は京都市ではなく、琵琶湖望む滋賀は大津市の寺院となっていまして、なにか近くて遠い印象を受けるのですね。

 滋賀院門跡、大津市坂本は比叡山延暦寺の本坊即ち総里坊という、薬師如来を奉じる天台宗の寺院です。開祖は天海、江戸幕府開府に際し多大な宗教的影響を及ぼした僧侶です。その始まりは天海僧侶が後陽成天皇より洛中岡崎の法勝寺建物を下賜されたというもの。

 びわ湖百八霊場第九番札所に数えられる寺院は、京阪石山坂本線終点の比叡山坂本駅より比叡へ歩みを進めた立地に在りまして、明暦年間は1655年に後水尾天皇より滋賀院と名を賜り、天台宗法主として法親王の座所となっていた事から滋賀院門蹟と冠されています。

 滋賀院御殿という、天台宗寺院に在って皇室と所縁ある寺院は長大な伽藍を有していましたが、明治11年即ち1878年に大火災に見舞われ、法勝寺移築の大伽藍は全て灰燼に帰してしまいました。大正時代までに比叡山無動寺谷法曼院建築物を移築し、再興している。

 比叡山の強訴というものはどういうものなのか、政治学を大学院に極めたとしても昨今の政治体制からは中々想像が出来ません、しかし、滋賀院の特別公開屏風絵に、強訴の様子が描かれたものがあり、撮影は謝絶ですが、その仕組みについての詳細解説もありました。

 強訴とは、比叡山の僧侶が歴代の天皇を祀った神輿を担いで朝廷まで押し寄せる、その様子は知っていたのですが、高校時代は世界史を選択し大学では国史を専攻しなかった事から、暴力的な陳情を行う位なのだろう、と思っていたのけれども、比叡山の強訴は独特だ。

 神輿を僧兵が担いで、朝廷前に押し寄せますと神輿をそのまま門前に放置して帰ってしまう、滋賀院屏風絵と共に解説された強訴は神輿の放置というものでした。警察というか検非違使が遺失物として扱う、なんて生易しいものではなく、朝廷門扉が開けなくなる、と。

 寺社勢力の強訴は武装し朝廷警護の武者との衝突で負傷者が多く暴力的ではありますが本質は陳情であるため、朝廷側が寺社勢力の望む妥協を行う事で漸く神輿の御輿は比叡山へと戻られるという。警護の武者は兎に角門扉を先回りして閉ざそうとしまして、摩擦が。

 院政が本格化した平安朝末期に強訴は多々行われたといいますが、神輿の御輿は一対しかありませんので、ここは当方の印象なのですが朝廷が強訴に機能を封じられた際の行政機能を維持していたのが院の御所、上皇の威光、という。緊急避難的な行政機構、といえる。

 二院制か、と問われると本質的には現代の二院制とは別個の物ではあるけれども、朝廷の機能に支障が在った際に行政機能を発揮する、という意味はあったのでしょうか。もっとも典型的な二重権力状態であった為に、院政というものには良い印象はないのですが、ね。

 比叡山無動寺谷法曼院の移築された建物ですが、比叡では猿を神聖視する事から、この周りにも多く野生の王国が広がるようで、内仏殿の拝観に際しては、猿が内仏殿に入る事の無いように門扉を閉める注意書きがありまして、そこになにか笑みが溢れたものでした。

 滋賀院門跡、しかし撮影出来ないところが非常に多く、庭園さえ写真の撮影位置よりも奥には撮影謝絶の看板が掲げられており、庭園奥の部分を撮影出来ないのは閉口しました。滋賀院門跡庭園は小堀遠州作と伝えられていまして、国指定名勝に位置付けられています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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