北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】彦根城,江戸幕府対外情報機関は"唐通事""長崎和蘭通詞""琉球監督""釜山倭館情報"四機関

2022-09-07 20:22:31 | 旅行記
■大陸派遣を実施すべきか
 大陸派遣か鎖国かという江戸時代の議論を敢えて文面にしたためますと恰も平成時代のような印象となるのは歴史が繰り返すということでしょうね。

 鎖国政策、平成の中頃まではこの言葉で江戸時代の外交政策を包括していました。しかし彦根城城下町を散策しますと朝鮮人街道という、朝鮮通信使の宿所などを示す石碑もありまして、鎖国というのも理解されるような封鎖制度では無かった事を気付かされます。そこで当時の情報収集体制を見てみたい。

 徳川家光は先ず対馬藩主宗義成を呼び出し、援軍派遣に際して李氏朝鮮の協力が得られるかを問いました、なにしろ上海まで長崎から数万の大船団を送る事は現実的ではなく、家光は朝鮮半島を経由して部隊派遣を検討していた事が分ります。しかし、ここには課題が。

 李氏朝鮮は既に金の属国となっており、宗義成は朝鮮について、金との戦いで疲弊しており食糧などの補給は望めない、と伝えました。ただ、現実論として豊臣秀吉の朝鮮出兵で大打撃を受けた李氏朝鮮が統治者が違えど同じ日本軍を歓迎する事が無いのは、自明です。

 唐通事、当時の日本の情報機関として長崎奉行には唐通事という部署があり、ここは長崎へ入港する中国からの交易船を全て管理し、積荷などの情報とともに船長からの情報、大陸の景気は勿論情勢や政情までを集約、報告書として江戸に送り老中も閲覧できました。

 長崎和蘭通詞、もう一つの情報網はやはり長崎奉行にありました長崎和蘭通詞というオランダ商館にある部署です、オランダは長崎奉行から日本周辺の海賊情報を提供されると共に長崎奉行に対してはキリシタン関連情報などを求めており、互恵的な情報交換という。

 琉球監督。もう一つは島津藩の情報で島津藩は慶長14年こそ西暦1609年に琉球に侵攻し、薩摩藩監督が琉球に置かれてました。一方で琉球は中国の福州に琉球館を置いており、いわば薩摩藩は大陸の琉球館からの情報を集約、薩摩藩は江戸にも情報を送っていました。

 倭館情報網、そして第四の情報として釜山に置かれていた対馬藩の倭館、ここは朝鮮通信使の接遇なども所掌しているのですが、李氏朝鮮は明国の北京漢城へも朝貢を送っており、いわば北京釜山ルートというべき情報網が対馬藩を経由し、江戸に集約されていたのです。

 官儒、当時幕府には中国語センターというべき部署があり、官儒林家が集約された中国語情報を邦訳していました。問題は邦訳とともに林家に情報処理を当たらせていた事で、いわば一次情報ではなく二次情報として老中に手渡されていた状況です。当然忖度もある。

 二次情報の弊害は、徳川家光に誤解を、明国援軍を日本が派遣するならば李氏朝鮮は喜んで支援する筈だ、という、豊臣秀吉の朝鮮出兵からの戦後処理が遥か前に完了しているという思い込み、これを醸成する文書しか集められていなかった点です、情報は重要という。

 鄭芝龍敗れる、唐通事からの衝撃的な情報が江戸に届けられたのはまさに派兵検討を進める最中でした。明国滅亡と共に南京に臨時政府を建国し徹底抵抗を続けると共に、援軍に応じるならば当然李氏朝鮮も中国の民衆も歓迎するであろう、こういう思い込みがあった。

 井伊直孝は徳川頼宣とともに徳川家光へ意見を奏上しました。いまから幕府軍を大陸へ派遣したとしても朝鮮民衆や漸く戦乱が収束した中国大陸の民衆からの反発を買い、敵を増やすばかりである。そして既に南明は敗北を喫し和睦中であり既に時機を逸している、と。

 徳川家光の治世下、諸藩の改易が相次ぎ、要するに忖度と保身こそが大名の目的の様になっていました、これは大藩といえども例外ではない、事ここに至り井伊直孝は改易さえ覚悟したのではないでしょうか、しかしこの諫言、徳川家光は受入れたことで戦争は回避されました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】彦根城,中国からの密使が長崎奉行所へ-徳川家光に命じられた御三家と大老井伊直孝の議論

2022-09-07 20:00:15 | 旅行記
■風雲急告げる大陸情勢
 彦根城は江戸時代初期、或る日本の江戸時代における外交政策の分水嶺となる江戸での論争の基点となる人物を冠していた時代がありました。

 徳川家光治世の江戸時代、日本は長い戦国時代が漸く終焉し、いわば応仁の乱の時代から萌芽した下剋上の価値観も豊臣秀吉の天下統一により過去のものとなり、その権力継承の混乱が悲劇ではあれ終止符を打たれた事でいよいよ中世から近世という安定期を迎える。

 中国からの密使、長崎奉行所に林高という豪商が大陸から入港すると明の高官と共に公式文書を届けました、高官の名は崔芝、明国では総督の地位にあり、明らかに過去の公式文書と重なる文書には、江戸幕府に武器援助を求める、これは正保2年、1645年の事でした。

 北京陥落。金は朝鮮半島を蹂躙するとそのまま中国本土に侵攻し1644年には北京を占領、明朝皇帝崇禎帝毅宗は自害する事となりました。明朝は南京に遷都し、ここに明朝は終焉を迎えると共に南京を首都とする南明を建国、万暦帝長男の弘光帝が即位、徹底抗戦へ。

 長崎、当時日本最大の貿易港がありました長崎に、北京攻防戦や北京陥落の情報は中国人商人情報網を通じ長崎奉行に知らされる事となりました。日本にも危機迫る、こうした認識のもとで長崎奉行に示された情報はそのまま急報として江戸に知らされる事となった。

 崔芝総督からの正式な救援要請、正保2年こと1645年、明朝から江戸幕府へ正式な軍事援助要請が長崎に届きました。要請には北京陥落により南京臨時政府が樹立し弘光帝以下徹底抗戦を続けている、北方民族に蹂躙される故国の防衛に支援を願う、切実な要請でした。

 鄭成功、明の提督でオランダ軍を台湾から駆逐した英雄などは幕府で知られている人物で、まだ明の影響力の残る中国南部と長崎との間で貿易を認める等、日本としては可能な範囲での支援も行っています。しかし求められているのはさらに踏み込んだもの、どうするか。

 清朝というのは、要するに韃靼人や元寇のモンゴルと同じ北方民族ではないか、こういう視点から日本国内の世論、世論といっても武将や文化人という程度ではあるのですが、滅び行く明朝に対してはかなり同情的であったという。そして議論は派兵論へとつきすすむ。

 京都所司代板倉重宗は朝廷と幕府を結ぶと共に徳川家光の幕政協議の参議を幾度か務めていましたが、この際に家光の方針として出兵を検討していた、甥の板倉重矩へ手紙を送っています。この情報は江戸城を駆け巡り、九州諸藩も万一への検討を行っていたという。

 長崎奉行山崎権八郎は、しかし林高らに対し即座の決定は出来ないとして帰国を促していますが、一方で柳川藩主立花忠茂は江戸城での派兵議論に接し、国元に内々の準備令可能性について家老へ検討を命じています。しかし、検討が進む中で事態は悪化してゆくもの。

 鄭芝龍、かの鄭成功の実父であり南明の高官は正保3年こと1646年、二度目の使者として黄徴明を長崎に派遣しました。弘光帝から時代は隆武帝の時代となっていますが、二度目の使者は隆武帝の書簡とともに徳川家光への献上品として絹織物などを携えていたのです。

 彦根藩2代藩主井伊直孝、幕府最初の大老職に任じられた井伊直孝は、幕府御三家、水戸藩藩主と尾張藩藩主に紀州藩藩主とともに家光より明国救援軍派遣の可能性について議論を命じられました。実はこのとき、御三家の中には武威示すべしとの強硬論もありました。

 紀州藩主徳川頼宣と大老井伊直孝は、しかし慎重論、いやしっかりと明確に派兵の反対を奏上します。しかし同時に如何ともしがたい状況にあったのは幕府の情報不足、忍者部隊が中国へ潜入する様な絵物語などは現実味がなく、情報不足の中で情報収集を行います。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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浜田新防衛大臣と防衛費GDP2%問題【3】12式地対艦誘導弾と03式中距離地対空誘導弾発射器を共通化すべき

2022-09-07 07:01:10 | 国際・政治
■共通化予算が効率化に繋ぐ
 長期的な視座に依拠して一つ一つの予算を削り全体で高くなる選択肢を避ける努力も必要ではないか。

 陸上自衛隊は12式地対艦誘導弾システムと03式中距離地対空誘導弾システムの発射装置を共通化させることが急務ではないのか。機動車輛については二つの装備は共通化されているのですが、発射装置に互換性がありません。しかし、これをもし共通化させる事が出来たならば、要するに海上自衛隊のMk41VLS垂直発射装置のように汎用性を高められる。

 12式地対艦誘導弾システムと03式中距離地対空誘導弾システム、機動車輛は共通ですが発射装置を統合しますと、高射特科群が地対艦ミサイルを射撃出来るようになりますし、地対艦ミサイル連隊が接近する敵爆撃機を自隊で防空出来るようになります。もちろんレーダーは異なりますが、これらを結ぶのがデータリンク、今や別箇であるほうが不自然です。

 急務、こう表現する背景には幾つかの転換点が迫っている為です。一つは12式地対艦誘導弾システムの後継装備を長射程化するという後継開発が開始される為で、いま共通規格を開発しておくならば、自然な流れで転換が可能となるのです。もう一つは射程の延伸する12式地対艦ミサイルの規格に併せて発射装置を共通化するならば、射程の面で有利となる。

 03式中距離地対空誘導弾システムは、陸上自衛隊の高射特科部隊が装備するという前提で射程を航空自衛隊のペトリオットミサイルと比較した場合で中距離、となっています。ペトリオットミサイル後継として、航空自衛隊は1989年度から配備を開始したペトリオットミサイル、この射程は徐々に射程や発射装置という部分で陳腐化が進んでいるのも事実だ。

 12式地対艦誘導弾システムの射程延伸とともに、03式中距離誘導弾システムを発射装置の共通化と共に射程を延伸する、こうする事が出来れば、地対艦ミサイル連隊や高射特科群の垣根を越えて、統合ミサイル連隊や特科ミサイル連隊として統合化できるようにも思います。また1セルに数発を装填する事で、短距離地対空誘導弾の発射も可能となるやも。

 こうした施策は短期的に予算を必要とします、が長期的には効率化する。防衛費を財政裏づけと共に考えるならば、陸上自衛隊の地対空ミサイル射程を延伸させ、航空自衛隊のペトリオットミサイル部隊を陸上自衛隊へ、元々は陸から空へ移管された部隊なのですが、統合再編する様な改編、統合により任務の共通化という視点も必要なように考えるのです。

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