■大陸派遣を実施すべきか
大陸派遣か鎖国かという江戸時代の議論を敢えて文面にしたためますと恰も平成時代のような印象となるのは歴史が繰り返すということでしょうね。

鎖国政策、平成の中頃まではこの言葉で江戸時代の外交政策を包括していました。しかし彦根城城下町を散策しますと朝鮮人街道という、朝鮮通信使の宿所などを示す石碑もありまして、鎖国というのも理解されるような封鎖制度では無かった事を気付かされます。そこで当時の情報収集体制を見てみたい。

徳川家光は先ず対馬藩主宗義成を呼び出し、援軍派遣に際して李氏朝鮮の協力が得られるかを問いました、なにしろ上海まで長崎から数万の大船団を送る事は現実的ではなく、家光は朝鮮半島を経由して部隊派遣を検討していた事が分ります。しかし、ここには課題が。

李氏朝鮮は既に金の属国となっており、宗義成は朝鮮について、金との戦いで疲弊しており食糧などの補給は望めない、と伝えました。ただ、現実論として豊臣秀吉の朝鮮出兵で大打撃を受けた李氏朝鮮が統治者が違えど同じ日本軍を歓迎する事が無いのは、自明です。

唐通事、当時の日本の情報機関として長崎奉行には唐通事という部署があり、ここは長崎へ入港する中国からの交易船を全て管理し、積荷などの情報とともに船長からの情報、大陸の景気は勿論情勢や政情までを集約、報告書として江戸に送り老中も閲覧できました。

長崎和蘭通詞、もう一つの情報網はやはり長崎奉行にありました長崎和蘭通詞というオランダ商館にある部署です、オランダは長崎奉行から日本周辺の海賊情報を提供されると共に長崎奉行に対してはキリシタン関連情報などを求めており、互恵的な情報交換という。

琉球監督。もう一つは島津藩の情報で島津藩は慶長14年こそ西暦1609年に琉球に侵攻し、薩摩藩監督が琉球に置かれてました。一方で琉球は中国の福州に琉球館を置いており、いわば薩摩藩は大陸の琉球館からの情報を集約、薩摩藩は江戸にも情報を送っていました。

倭館情報網、そして第四の情報として釜山に置かれていた対馬藩の倭館、ここは朝鮮通信使の接遇なども所掌しているのですが、李氏朝鮮は明国の北京漢城へも朝貢を送っており、いわば北京釜山ルートというべき情報網が対馬藩を経由し、江戸に集約されていたのです。

官儒、当時幕府には中国語センターというべき部署があり、官儒林家が集約された中国語情報を邦訳していました。問題は邦訳とともに林家に情報処理を当たらせていた事で、いわば一次情報ではなく二次情報として老中に手渡されていた状況です。当然忖度もある。

二次情報の弊害は、徳川家光に誤解を、明国援軍を日本が派遣するならば李氏朝鮮は喜んで支援する筈だ、という、豊臣秀吉の朝鮮出兵からの戦後処理が遥か前に完了しているという思い込み、これを醸成する文書しか集められていなかった点です、情報は重要という。

鄭芝龍敗れる、唐通事からの衝撃的な情報が江戸に届けられたのはまさに派兵検討を進める最中でした。明国滅亡と共に南京に臨時政府を建国し徹底抵抗を続けると共に、援軍に応じるならば当然李氏朝鮮も中国の民衆も歓迎するであろう、こういう思い込みがあった。

井伊直孝は徳川頼宣とともに徳川家光へ意見を奏上しました。いまから幕府軍を大陸へ派遣したとしても朝鮮民衆や漸く戦乱が収束した中国大陸の民衆からの反発を買い、敵を増やすばかりである。そして既に南明は敗北を喫し和睦中であり既に時機を逸している、と。

徳川家光の治世下、諸藩の改易が相次ぎ、要するに忖度と保身こそが大名の目的の様になっていました、これは大藩といえども例外ではない、事ここに至り井伊直孝は改易さえ覚悟したのではないでしょうか、しかしこの諫言、徳川家光は受入れたことで戦争は回避されました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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大陸派遣か鎖国かという江戸時代の議論を敢えて文面にしたためますと恰も平成時代のような印象となるのは歴史が繰り返すということでしょうね。

鎖国政策、平成の中頃まではこの言葉で江戸時代の外交政策を包括していました。しかし彦根城城下町を散策しますと朝鮮人街道という、朝鮮通信使の宿所などを示す石碑もありまして、鎖国というのも理解されるような封鎖制度では無かった事を気付かされます。そこで当時の情報収集体制を見てみたい。

徳川家光は先ず対馬藩主宗義成を呼び出し、援軍派遣に際して李氏朝鮮の協力が得られるかを問いました、なにしろ上海まで長崎から数万の大船団を送る事は現実的ではなく、家光は朝鮮半島を経由して部隊派遣を検討していた事が分ります。しかし、ここには課題が。

李氏朝鮮は既に金の属国となっており、宗義成は朝鮮について、金との戦いで疲弊しており食糧などの補給は望めない、と伝えました。ただ、現実論として豊臣秀吉の朝鮮出兵で大打撃を受けた李氏朝鮮が統治者が違えど同じ日本軍を歓迎する事が無いのは、自明です。

唐通事、当時の日本の情報機関として長崎奉行には唐通事という部署があり、ここは長崎へ入港する中国からの交易船を全て管理し、積荷などの情報とともに船長からの情報、大陸の景気は勿論情勢や政情までを集約、報告書として江戸に送り老中も閲覧できました。

長崎和蘭通詞、もう一つの情報網はやはり長崎奉行にありました長崎和蘭通詞というオランダ商館にある部署です、オランダは長崎奉行から日本周辺の海賊情報を提供されると共に長崎奉行に対してはキリシタン関連情報などを求めており、互恵的な情報交換という。

琉球監督。もう一つは島津藩の情報で島津藩は慶長14年こそ西暦1609年に琉球に侵攻し、薩摩藩監督が琉球に置かれてました。一方で琉球は中国の福州に琉球館を置いており、いわば薩摩藩は大陸の琉球館からの情報を集約、薩摩藩は江戸にも情報を送っていました。

倭館情報網、そして第四の情報として釜山に置かれていた対馬藩の倭館、ここは朝鮮通信使の接遇なども所掌しているのですが、李氏朝鮮は明国の北京漢城へも朝貢を送っており、いわば北京釜山ルートというべき情報網が対馬藩を経由し、江戸に集約されていたのです。

官儒、当時幕府には中国語センターというべき部署があり、官儒林家が集約された中国語情報を邦訳していました。問題は邦訳とともに林家に情報処理を当たらせていた事で、いわば一次情報ではなく二次情報として老中に手渡されていた状況です。当然忖度もある。

二次情報の弊害は、徳川家光に誤解を、明国援軍を日本が派遣するならば李氏朝鮮は喜んで支援する筈だ、という、豊臣秀吉の朝鮮出兵からの戦後処理が遥か前に完了しているという思い込み、これを醸成する文書しか集められていなかった点です、情報は重要という。

鄭芝龍敗れる、唐通事からの衝撃的な情報が江戸に届けられたのはまさに派兵検討を進める最中でした。明国滅亡と共に南京に臨時政府を建国し徹底抵抗を続けると共に、援軍に応じるならば当然李氏朝鮮も中国の民衆も歓迎するであろう、こういう思い込みがあった。

井伊直孝は徳川頼宣とともに徳川家光へ意見を奏上しました。いまから幕府軍を大陸へ派遣したとしても朝鮮民衆や漸く戦乱が収束した中国大陸の民衆からの反発を買い、敵を増やすばかりである。そして既に南明は敗北を喫し和睦中であり既に時機を逸している、と。

徳川家光の治世下、諸藩の改易が相次ぎ、要するに忖度と保身こそが大名の目的の様になっていました、これは大藩といえども例外ではない、事ここに至り井伊直孝は改易さえ覚悟したのではないでしょうか、しかしこの諫言、徳川家光は受入れたことで戦争は回避されました。
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