■千年前から賑わいと共に
四条通に面した交差点の賑わいの向こうに見上げます楼門からは車道の混雑がそのまま続いている印象もありますが、雑踏よりも意気揚揚を感じるのがここの神域です。
八坂神社、この数年間で大きな文化財としての認識の展開がありまして、2020年12月23日、本殿が国宝に指定されることとなりました。これだけではなく26棟の建造物が重要文化財に指定されるところとなりまして、これを祝う幟が参拝者に華を添えている印象だ。
素戔嗚尊と櫛稲田姫命と八柱御子神らを祀る社殿、広大というよりも四条通の喧騒から一歩高みから静けさを湛えているとの面持ちで、しかし、祇園の繁華街に面しているところで時間帯によっては印象を季節の様に面持ち変える、佇まいが面はゆい、が、活気はある。
境内には出店なども戻ってきている情景を見ますと、COVID-19は最悪期を脱したものだとしみじみ実感するところではあります。もっとも、当方人ごみが苦手となりましたもので、行事等は仕方ないにしても寺社仏閣巡りの際には前以上に静寂を探すようになります。
本殿は国宝に指定されているものですが、この建物は祇園造といまして、数多ある神社では本殿と拝殿を別棟とするところを、入母屋屋根で覆いある種一つの建物として造形している独特の建築様式を採ります。ただ、祇園造の起源については、定かではありません。
祇園造による本殿は、承応3年こと西暦1654年、徳川家綱により再建されたと記録されています。ここもCOVID-19では大変な事になっていまして、暫く鈴の綱から感染を警戒し、センサーにより鈴の音が聞こえるようになっていましたのも、今からするとなつかしい。
境内は忠盛灯篭という、円山公園へ至る鳥居に当りから椛の木下にて眺めた様子が個人的には好きなところでして季節を椛の色合いから感じる事が出来ます、椛が紅葉する頃合いとなりますと、また混雑しますので、そういうときは静かな場所でお茶と読書と時折寺へ。
西楼門、明応6年こと1497年の建築、八坂神社を参拝する際にはこの重要文化財と指定されています四条通沿いの楼門から詣でます、南楼門の方が大きいのですが、交通の利便というところですか、阪急の河原町や京阪の四条駅から四条通沿い不思議とこちらを選ぶ。
大国さまと白うさぎの像、重要文化財の神馬舎や絵馬堂と並ぶところなのですが、楼門からそれ程ではないのだけれども階段の小路を曲がりますと、本殿に至るというこの径とともに歩み進めますともともと重要文化財であった西楼門と蛭子社社殿そして石鳥居を望む。
斉明天皇2年こと西暦656年に創建されたと伝わる社殿のはじまりですが、もともとは花見小路あたりまで神域が広がっていたといいますので、街に近い社殿というよりも神域の一部が繁華街となった訳なのですが、忠盛灯篭というものを見ますと考えも変わります。
忠盛灯篭は平清盛の実父平忠盛が白河上皇の衛視を務めていた時代、祇園の御しのびを愉しんでいた際に物の怪に襲われた、とおもい白河上皇が恐れおののいたところを平忠盛が落ち着いて松明で照らすと、乞食坊主であり危うく斬るところを落ち着いて見極めた、と。
祇園に通う際にここ八坂神社の境内を通る程なのですから、平安朝の頃からここには賑わいがあった、という証左でもありますので、ここが賑やかなのは千年単位である意味伝統なのだなあ、なんていう事も考えてしまいますね。しかし上皇猊下、昔は自由でしたねえ。
八坂神社は賑やかであっても落ち着きある、ただ座って落ち着くには少々賑やかすぎるものでして、どちらかといいますとなにか買い物で迷った時などに、繁華街が近い訳ですので神社にお参りし、少し落ち着いてから、こう日常に触れあえる社殿でもあるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
四条通に面した交差点の賑わいの向こうに見上げます楼門からは車道の混雑がそのまま続いている印象もありますが、雑踏よりも意気揚揚を感じるのがここの神域です。
八坂神社、この数年間で大きな文化財としての認識の展開がありまして、2020年12月23日、本殿が国宝に指定されることとなりました。これだけではなく26棟の建造物が重要文化財に指定されるところとなりまして、これを祝う幟が参拝者に華を添えている印象だ。
素戔嗚尊と櫛稲田姫命と八柱御子神らを祀る社殿、広大というよりも四条通の喧騒から一歩高みから静けさを湛えているとの面持ちで、しかし、祇園の繁華街に面しているところで時間帯によっては印象を季節の様に面持ち変える、佇まいが面はゆい、が、活気はある。
境内には出店なども戻ってきている情景を見ますと、COVID-19は最悪期を脱したものだとしみじみ実感するところではあります。もっとも、当方人ごみが苦手となりましたもので、行事等は仕方ないにしても寺社仏閣巡りの際には前以上に静寂を探すようになります。
本殿は国宝に指定されているものですが、この建物は祇園造といまして、数多ある神社では本殿と拝殿を別棟とするところを、入母屋屋根で覆いある種一つの建物として造形している独特の建築様式を採ります。ただ、祇園造の起源については、定かではありません。
祇園造による本殿は、承応3年こと西暦1654年、徳川家綱により再建されたと記録されています。ここもCOVID-19では大変な事になっていまして、暫く鈴の綱から感染を警戒し、センサーにより鈴の音が聞こえるようになっていましたのも、今からするとなつかしい。
境内は忠盛灯篭という、円山公園へ至る鳥居に当りから椛の木下にて眺めた様子が個人的には好きなところでして季節を椛の色合いから感じる事が出来ます、椛が紅葉する頃合いとなりますと、また混雑しますので、そういうときは静かな場所でお茶と読書と時折寺へ。
西楼門、明応6年こと1497年の建築、八坂神社を参拝する際にはこの重要文化財と指定されています四条通沿いの楼門から詣でます、南楼門の方が大きいのですが、交通の利便というところですか、阪急の河原町や京阪の四条駅から四条通沿い不思議とこちらを選ぶ。
大国さまと白うさぎの像、重要文化財の神馬舎や絵馬堂と並ぶところなのですが、楼門からそれ程ではないのだけれども階段の小路を曲がりますと、本殿に至るというこの径とともに歩み進めますともともと重要文化財であった西楼門と蛭子社社殿そして石鳥居を望む。
斉明天皇2年こと西暦656年に創建されたと伝わる社殿のはじまりですが、もともとは花見小路あたりまで神域が広がっていたといいますので、街に近い社殿というよりも神域の一部が繁華街となった訳なのですが、忠盛灯篭というものを見ますと考えも変わります。
忠盛灯篭は平清盛の実父平忠盛が白河上皇の衛視を務めていた時代、祇園の御しのびを愉しんでいた際に物の怪に襲われた、とおもい白河上皇が恐れおののいたところを平忠盛が落ち着いて松明で照らすと、乞食坊主であり危うく斬るところを落ち着いて見極めた、と。
祇園に通う際にここ八坂神社の境内を通る程なのですから、平安朝の頃からここには賑わいがあった、という証左でもありますので、ここが賑やかなのは千年単位である意味伝統なのだなあ、なんていう事も考えてしまいますね。しかし上皇猊下、昔は自由でしたねえ。
八坂神社は賑やかであっても落ち着きある、ただ座って落ち着くには少々賑やかすぎるものでして、どちらかといいますとなにか買い物で迷った時などに、繁華街が近い訳ですので神社にお参りし、少し落ち着いてから、こう日常に触れあえる社殿でもあるのですね。
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