北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】永観堂,南都六宗三論宗法相宗修めた永観の堂宇彩る椛の木々は紅葉へ夏の熱波を越え秋を待つ

2022-09-28 20:20:25 | 写真
■椛は春待ち桜傍ら秋を待つ
 拝観に歩みを進めますと間もなく中秋は晩秋に向かうという季節の移ろいを実感はするもの。

 永観堂の紅葉、まだまだ先の話と中秋にふと思うところですがここ永観堂が高揚の際に混雑しますのは敢えて触れるまでも無いでしょう。しかし、その由来を聞きますとそもそも此処が永観の時代に浄土教に帰依し、大きな転換を迎えた際、植物との出会いがあった。

 永観さんの時代の国家安泰を願った天台宗や真言宗から浄土信仰への転換は、考えてみますと転換し民衆の支持を集められたかどうかというものが、千年間続く事が出来た寺院なのかどうか、古地図などを視てその上で今の地図を並べますと気付く事でもあるのです。

 薬王寺悲田院として施療院を造営したのは永観の時代なのですが、柿の木や梅ノ木を植えるとともに梅の実などを薬草、強壮薬としても用いていまして、椛の薬用はと問われますと難しい所はありますが、いわば植物と共に在る寺院という価値観を定着させたかたちで。

 椛の永観堂、そしてここは紅葉の季節には物凄い拝観者でもみくちゃにされ、椛を視るのであって拝観するところではないのではないかという切迫感さえ感じるものの、この為の椛の手入れは、英国庭園の春待ちというような準備期間よりも遥かに手が込む準備という。

 春待ち、庭園では緑芽吹くころへの準備というある種楽しみな冬の仕込みではあるのですが、椛は晩秋の彩でありますので、新緑眩しいころからの準備が必要なのですね。春待ちといえば桜の桜花も、と思われるかもしれませんが、桜の開花時期は季節と品種で決まる。

 紅葉は、例えば中秋の季節に桜の木々を巡りますと、そろそろ葉を落として冬支度をと紅葉をしている事に気付かされ驚くのですが、椛一つとっても、日照条件や気温と、それから刈込み具合などでぜんぜんと色合いがちがいますし、なにより夏の温度がものをいう。

 迷彩柄のようにまだらの模様となる事がここ数年続いていますが、紅葉一つとって普通に丹念に手入れされているだけではそれだけ絵見事な紅葉というわけにはいかないのだ、とは永観堂の椛に詳しい方のお話しというものでして、しかしここ十数年、夏が特に暑い。

 暑いのではなく最早熱いのだ、こう表現する他ないのは京都の夏でして、先日の中秋の名月では、こんなものかと思っていた蝉の鳴き声も、少し岐阜基地や小牧基地の周辺などを散策しますと、もうとっくに蝉の季節が終わっていると教えられ、京都の熱の異常さ。

 永観堂では、この異常な、特に東山の強烈な西陽の照射とともに京都盆地の鍋のような蒸し焼きのアスファルト舗装増しを前に、椛には場所によっては覆いで遮蔽し、なかには氷を敷いて温度の上昇を抑える事もあるという。なにそれ凄く行きたくなる、という話です。

 氷を敷くといいましても苔の上にさらりと敷いて温度上昇を抑える程度ですから、氷床一面に涼をというような凄い話ではないのですけれども、まあ、大変な話です。そして、永観堂の椛、植物園や単に椛が多く植えられているところの紅葉というだけではありません。

 歴史と共に在る椛なのだ、こう考えますと、紅葉の季節の雑踏についても暖かい視点で見る事は、いややはりこの季節の少しだけ色づき始めている頃合いを拝観するほうがいいようにも思えるのですが。混雑するというのも、拝観ができる限度があると思いますからね。

 禅林寺永観堂、しかし、この禅林寺が永観堂として親しまれるには、もう少し興味深い出来事が永観さんの時代にありまして、椛の名所として親しまれる寺院は、椛以外こそが季節の移ろいを引き立てている、それが歴史の奥深さと好奇心が広げる世界観だと、おもう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】永観堂,禅林寺永観堂そのはじまりは弘法大師空海の高弟真紹僧都が啓いた京都の真言宗寺院

2022-09-28 20:00:24 | 写真
■東山の青椛に中秋の彩り
 椛がそろそろ色合いを空に映える青色から紅葉の気配を見せ始めますとこの夏があの夏と思い返せるほどに秋の到来を実感する。

 わたしにとってちょっとした恐怖といえるのは永観堂でした、もちろん超常現象的な事が在ったという訳ではなく、ほんの数年前のことです、紅葉の季節に永観堂の紅葉を眺めに久々に行ってみようか、こう考えた次第なのですが、考えが甘かった、大行列でした。

 COVID-19の前の時代、なのですけれどもまず最初に山門の前に伸びる大行列を視まして、続いて警備員の怒号、混雑しているところで写真を撮ろうとした周りの方を牽制する為に、戦場のような、少なくとも富士総合火力演習よりも喧しい騒音と怒号に満ちていたのです。

 紅葉の季節でも、前はこれ程では無かったのだよねえ。そして入場まで1時間半待ちですう、とスピーカーがわんわんがなり立てまして、入場じゃなくて拝観だろう言葉遣いさえできない場所なのか、となにかこうテーマパークのような煩さに、気持ちが遠のいたのだ。

 禅林寺永観堂、ここは東山、京都市左京区永観堂町にあります浄土宗西山禅林寺派の総本山という寺院です。法然さんの金戒光明寺もほど近い故に浄土宗の寺院ではあるのですが、しかし東山のこの地に佇む寺院は驚くほど古い歴史と共に当地に佇んでいます。その歴史とは。

 弘法大師空海の高弟である真紹僧都が、故人となった藤原関雄の山荘を買い取り寺院を起こす事を思い立ったのがその始まりとされています。当時の京都は官寺である東寺と西寺のみを寺院とする、南都奈良での仏教と政治の摩擦を反映した施策が執られていたころ。

 真紹僧都は仁寿3年こと西暦853年、真言宗の修行道場を京都から遠い高野山とともに、この京都にもと願い、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする真言宗寺院を建立しました、ここは貞観5年こと863年、清和天皇より勅許と禅林寺の寺号を賜わり定額寺となりました。

 禅林寺、ここは永観堂という名で親しまれていますが永観堂の名は中興の祖永観の時代の物でして、禅林寺は清和天皇から賜った山号でもあります。その御寺には7世住持の永観律師の時代を迎えます。永観が受戒したのは齢十一にして禅林寺に入りました僧侶です。

 深観という花山天皇皇子が法主を務めていた西暦1044年に受戒しました永観、今の時代からは不思議に思われるかもしれませんが当時の寺院は国家安寧を願う修行道場という位置づけであり、永観は東大寺において南都六宗の三論宗を修学、続いて法相宗等を修めます。

 藤原頼通が平等院鳳凰堂などを開いた時代、永観は知己を得るなど、いわば当時の仏教としては高僧の地位を目指していたもので、しかし平安朝末期は世界が火山噴火などを受け小氷期を迎える時代、不作続きにより窮乏続く時代でした、すると仏教にも変化の時代が。

 永観はこのころに浄土教に帰依する事となりまして、要するに国家や貴族たちへの祈りから万民の安寧を祈るよう改めた形です、そして日々に一万遍の念仏を日課としまして、康平5年こと西暦1062年には南都の北にあります山城国光明寺に隠棲することとなりました。

 光明寺はしかし修験の同乗としては適していたが寒すぎたようで、永観はここで体を壊す事となりました、そしてこれを機会に浄土教を広く布教するため、延久4年こと1072年、京都に戻りますと得度の地である禅林寺に戻り念仏を勧めることとなったといいます。

 永観堂、こう称されるようになりましたのはこの頃からといいまして、民衆救済には祈るだけではなく薬王寺悲田院として施療院を造営しまして、また柿木や梅ノ木などを植樹しまして薬用に用いる等、民衆に寄り添った信仰へと転換した事が、永観の名を広めました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ズムウォルト横須賀寄港,アメリカ海軍最新鋭!建造費80億ドルの巨大ステルス駆逐艦ズムウォルト級の1番艦

2022-09-28 07:00:01 | 防衛・安全保障
■ズムウォルト横須賀へ
 横須賀に撮影へ行ければ良かったと久々に後悔しますのは、ワクチン副作用休暇中の友人が横須賀でズムウォルト級駆逐艦を撮影したと一報を送ってきた為です。

 ひゅうが型護衛艦をアメリカ海軍に売り込んだ方がズムウォルト級よりも良かったのではないか、こういう特集を前に掲載したものでした。F-35Bを搭載すると制海艦、MV-22を搭載し強襲揚陸艦、MH-60を搭載し対潜中枢艦、MH-53を搭載し掃海母艦と艦載機の交代で多用途に運用出来ます。もっとも実物が横須賀に来ているならば、撮りたいものでした。

 ズムウォルト級駆逐艦は、開発計画の時点では30隻前後が艦隊に配備され、特に斬新なステルス設計と共に155mm艦砲の威力は当時必要とされていた沿岸部における作戦へ大きな威力を発揮すると期待されていました、しかし、実際には155mm艦砲を暫定装備として続いて開発される計画のレールガンは実用化の目処が立たず、搭載兵装も迷走しています。

 80億ドル、結局諸々の計画費用を建造された3隻で三等分しますと、1隻あたり80億ドルという、ニミッツ級原子力空母を上回る建造費になりまして、高すぎるといわれたジェラルドフォード級原子力空母でさえ100億ドルですので、ズムウォルト級は間違いなく世界で最も高価な駆逐艦となりました。いずも型護衛艦と比較しても実に7倍以上の費用です。

 ズウォルト級駆逐艦の能力を大きく制限したもう一つの要素は3隻しか建造されなかった点で、これではズムウォルト級固有のシステムを改修しようと予算を組んだ場合でも、開発費を30隻で分散させる事と、3隻で三等分するのでは負担の大きさがまるで違い、海軍での運用を使い難くさせるのではないかという懸念があります。そして海軍は次の段階へ。

 ズムウォルト級は2023年、つまり来年から現在の155mm艦砲を撤去し、極超音速ミサイル搭載改修を行うとのこと。これはロシアのスラヴァ級巡洋艦の様に一発屋てきな打撃専用艦への転換を意味するところでしょうが、抜本的なステルス設計を採用している為、沿岸部へ少なくともレーダーに対しては見つかり難く浸透できる点で利点が考えられます。

アメリカ海軍はズムウォルト級を佐世保基地へ桟橋を造成するなど、将来の前方展開を強化する方針を示唆しています。今回のズムウォルト横須賀寄港は、今後の西太平洋地域におけるアメリカ海軍の艦隊運用変容の鏑矢となるのか、欧州正面とは異なる海洋安全保障体制の環境が広がる西太平洋地域におけるシーパワーの推移から、目が離せません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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