北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】八坂神社,蝉の声響く残暑とともに旧暦八月十五日は中秋節と中秋の名月-夏空秋空観月祭の支度

2022-09-14 20:22:23 | 写真
■青空の八坂神社は観月祭
 熱さが暑さには切り替わったものの中途半端な暑さは蒸し暑さに通じる今日この頃です。

 旧暦8月15日、旧暦というものは若干変動するものでして、平成30年の2018年では09月24日が旧暦8月15日となりますし、令和元年の2019年には09月13日が旧暦8月15日、令和2年2020年は10月01日、令和3年の2021年では09月21日となりました。

 中秋の名月か、蝉がまだまだ鳴いているのに、こう思ったところではありますが、要するに気候変動で昔はこの頃には涼しい風が、この京都盆地にも吹いていたのだろうなあ、今涼しい風といえば台風の雨風くらいだものなあ、そうも考えつつ楼門を見上げてみますが。

 八坂神社、所用あって近くまで探訪しましたので参拝と歩み進めましたならば、観月祭と扁額がありましたので、そうか中秋の名月か、こう感じました次第です。こんな時代ですので中々友人知人集い観月祭、という訳にもいかない、なんとも色あせた時代の旧暦です。

 東山区祇園町北側に鎮座します社殿は斉明天皇2年こと西暦656年に南都奈良の僧侶円如が創建し、祇園神が東山の麓にあります祇園林に降臨した事が、当地に社殿と祈りが始まった基点ともされています。平安遷都の前であっても大津京始め人々の営みが在った。

 四条通に面した八坂神社は、少し小高い所にありますから、阪急河原町の、これも河原町で全国的に通じると思う地名なのだけれども、そのあたりからも朱色の楼門は望見することができまして、ちょっと混雑していますけれども祇園のあたりにと歩み進めれば直ぐ。

 令和4年2022年は09月10日、旧暦8月15日となります。そしてこの日は観月の日ともなります、さてこの観月というもの、元々は中国大陸のものでして、しかし月を愛でる風習は、古代以前の頃から祭事等を通じ日本でも馴染まれていた、これが祭事となったのは。

 貞観年間、西暦ですと859年から877年の時代ですが、日本の貴族社会へ大陸の文化として伝わりました。貞観年間は古富士噴火として知られ山梨県平野部全域が溶岩流に呑まれた貞観富士噴火、そして千年前の東日本大震災として知られる貞観地震等が起ったころ。

 観月祭ともなれば御馳走といいますかお供え物を、という運びとなりまして美味しい和菓子を揃える口実に喜びつつ、しかしまあ日本の制度の幾つもの始まりが、大災害続いた貞観年間に始まったものといいますから、日本はほんとうに災害と御縁がある、運命という。

 千年前の東日本大震災として知られる貞観地震等が在った頃からの祭事なのですから、こうちょっと一年くらい保存の利く高級な羊羹や缶詰などの非常食などを買い揃えて、翌年の祭事の際に賞味期限内に美味しく頂く、そんな文化に書き換えても良いのかな、とも。

 中秋節という旧暦8月15日、平安時代の頃に貞観年間の災厄を忘れられるようになった安定期、観月祭にあては次第に規模を大きく公式行事となるように進みまして、延喜19年こと西暦919年、時の宇多法皇が日本独自の十三夜の月見というものを催すこととなります。

 宇多法皇の時代、この頃から始まりました観月祭にあっては詩歌や管絃を奏でつつ酒を酌むという雅な催しとなっていまして、舟遊びとして水面に揺れる月を愉しむという、中々雅なものではあったようですね。しかし八坂神社の観月祭は神事として月を愛でるもの。

 夕刻より夕立というものが流れてきましたが時雨というところでして、一献二献と酒杯を重ねて静かに待っていますと、こう雲の間から静かに満月が姿を示すというなにか風流というか神がかった月の出ではありましたが、情緒あふれる中秋の名月というところでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】彦根城,徳川家光大陸派兵論議後も大老井伊直孝情報網は次の危機大陸三藩の乱に活きる

2022-09-14 20:00:35 | 旅行記
■備えよ!常に!危機管理
 歴史というものは結局のところ繰り返すのだなあと考えつつ歴史を教訓とするならば失敗は繰り返さずに済むという。故に成功といえる経験を活かすのもまた重要です。

 いまなぜ彦根城かというと。徳川家光が明国からの北方騎馬民族国家金の侵略を受けた際の救援要請を前に、真剣に大陸派遣を検討した事実とともに、徳川御三家に重ね初の大老となりました彦根藩主井伊直孝の慎重な判断という歴史を振り返る、そんな時機故です。

 井伊直孝、井伊直政に続いて第二代彦根藩主を務めた武人ではあるのですが、その際に慎重を期したのは、現実的に可能かというよりも派遣に必要な時機と兵站という、一歩間違えれば亡国の危機に繋がる命題を、しっかり情報収集の上で結論を出したということです。

 徳川家光がかなり真剣に派兵を検討していた事は、2000年代に入っての歴史研究、大名の書簡などから判明している事ではありますが、特に“既に戦闘の大勢は決している”という点と“朝鮮半島での補給は望めない”、この事実を把握していた事は大きいでしょう。

 鎖国政策、近年の義務教育においては安易にこの言葉を用いる事無く江戸時代の対外政策という表現を用いているようですが、要するに19世紀のチベットのように国境を閉ざしていた事は確かです。その江戸時代にあっても、必要ならば派遣の検討をしたことは大きい。

 憲法九条と平和主義、今の視点では江戸時代の鎖国政策と防衛上の鎖国政策を昭和時代中後半に行った日本は重なるところではあるのですが、自制しつつも備えていたという点で、日本の、いや江戸幕府の国際安全保障観というものは筋が通っていたともいえるのですね。

 三藩の乱、江戸時代にはもう一つ緊張が走った事例がありまして、これは明朝滅亡に際して明から後の清国に寝返った呉三桂将軍が、自らの領土として安堵された三藩の統治権を清国の康熙帝が廃止を定めた際に武装放棄した、1673年からの大規模な内戦の際でした。

 長崎和蘭通詞、琉球監督、倭館情報網、唐通事と江戸幕府は鎖国下でも対外情報網を広げ、欧州情報とアジア情報の収集に余念はありませんでした、三藩の乱の情報は勃発翌年に唐通事より幕府に送られ、成都と昆明に桂林と福州、戦闘概況を老中に情報を上げている。

 琉球監督は少し遅れて三藩の乱が海上戦闘に拡大しており、南西方面から九州にかけ日本への影響が及ぶ可能性を、これは台湾の鄭氏が参戦した事による影響なのですが、既に江戸幕府は周辺時代が日本有事に繋がるかという安全保障観に依拠し情報を分析しています。

 倭館情報網は多少偏向があり、これは明国再興により清国冊封下から抜け出した李氏朝鮮により偏向した情報が幕府に送られていた為ともいいまして、情報収集は一つの情報源に頼らないという原則も江戸時代に確立していた事となります、それは平時にあっても、だ。

 鎖国体制はアメリカのペリー浦賀来航とともに、とは一般的な理解として考えられる幕末の変動ではありますが、アメリカとの関係を冷静に見極めたのは長崎和蘭通詞からの情報であり、明治維新にいたる国内改革を成し遂げた背景も情報収集が裏にあった訳ですね。

 いまなぜ彦根城かというと。2020年代に日本の安全保障環境を見ますと、1940年代に制定された憲法と共に幾度か重ねた修正では根本的な条件が変容している現実があります、しかし情報収集という枠組みを構築しておくならば、井伊直孝のような判断が下せるという。

 備えよ常に、こう定番の常套句を改めて主張する訳ではないのですが不確定要素の多い国際関係に直面するからこそ、情報収集始め基本的な事を行わなければ国を維持する事は出来ない、彦根城は優雅な城郭なのですが、その城主は重圧と共に責務に当っていたのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ軍ハリコフ州全域を奪還しルガンスク州へ,ロシア軍の極東ボストーク演習兵力転用と予備戦力の枯渇

2022-09-14 07:00:44 | 防衛・安全保障
■臨時情報-ウクライナ情勢
 ウクライナ軍はルガンスク州解放を示唆する行動を示していますが実際どう展開するかは当事者以外分りません。

 極東において実施されたボストーク演習、日本海でも中ロ艦艇の射撃などが行われ海上自衛隊が警戒に当りましたが、この演習がウクライナ軍反撃に影響したのでしょうか。ロシア軍は友好国と併せ6万名の兵力を集中し、まだロシア軍には余力がある事を誇示しましたが、ウクライナ軍の反撃は、政治的な誇示というロシア側の施策は裏目に出た形です。

 ボストーク演習での兵力引抜きは、ウクライナ軍から見る限り、喩え6万とはいえロシア軍に予備戦力が枯渇、そして予備戦力の無い中で、更にウクライナ軍が実施した特殊部隊主体と思われる南部ヘルソン州やクリミア半島での遊撃作戦への警備強化を名目としたロシア軍分散が、東部でのウクライナ軍反撃、実に80km近く前進を支えたといえましょう。

 ルガンスク州へのウクライナ軍反撃も見えてきました、ルガンスク州は2014年のウクライナ東部紛争においてロシア軍装備を備えた事象民兵集団だるルガンスク人民共和国軍により2014年10月10日にウクライナ軍が撤退し、州都もルガンスク市が武装勢力に占拠されたことから臨時に西部のセヴェロトネツク市へ遷されています。ここでの反撃には意味が。

 ルガンスク州はロシア系住民が多いとしてロシアが割譲を目指す東部二州の一つです。ウクライナ軍はハリコフ州全域を解放すると共にルガンスク州への奪還と思われる行動を執っており、攻勢限界点、どの程度の弾薬や燃料や整備などの見通しを持っているかは現時点で発表されていませんが、仮にこのまま前進するならば、計画が在った事になります。

 火力と兵力が第一のロシア軍に対して、NATOは冷戦時代に機動力で戦闘正面に兵力を集中し、火力の総量よりも火力の精度で補う手法です、新しいものでも無く中世からある伝統的な内線作戦の現代版です。他方、奪還した地域ではロシア軍により深刻な人権侵害があり、この事実はウクライナ世論に占領地全域の奪還へ支持を強める事となるでしょう。

 クリミア半島のセバストポリ軍港は維持できるのだろうか、これはソ連黒海艦隊の拠点でありウクライナ独立後もロシア軍がクリミア半島の軍港周辺だけでも維持し、2014年のクリミア危機ではロシア軍が全土を占領した地域です。クリミア半島の奪還を掲げているウクライナ政府がウクライナ世論では支持されていますが、此処にセバストポリを含むのかが、未知数です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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