■桜の紅葉進む秋の京
桜の紅葉は一瞬、秋の散策は早めにとお勧めすると共に歩み進めるならばなにか心打つものを見上げたい。

知恩院、この三門を見上げるたびにあっという新鮮さは幾度重ねても続く。東山三十六峰が目の前に日本らしい情景を広めるとともに、しかし日本らしいというには壮大といえる三門が、ここは東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町、浄土宗総本山、知恩院です。

承安5年西暦1175年に比叡山を降りた法然により開かれたという御山は後に法然と同じく比叡山を降りた親鸞さん、この時御年29歳ということですが、当地で法然から教えを受けたという。日本仏教が一部の貴人から大衆の信仰に支えられる転換点となった場所だ。

法然所縁の地、御影堂に法然上人像を阿弥陀如来を阿弥陀堂に御本尊として安置します寺院は石段の上にあります寺院です。石段は、三門とともにその奥に急な石段が見えているのですが、遠目には此処が壁のように見えてしまう、この先に御影堂へとのぼってゆく。

自衛隊の駐屯地や航空祭を探訪する際にはこれでもかというほどに下調べし、街並みから交通手段はもちろん過去に探訪したことがあっても太陽の向きから建物の配置まで衛星写真からヒューミント情報まで駆使て情報とともに情報の階段と舗装路を探訪するのですが。

寺院探訪となりますと、情報を全く考えず、そういえばここにこうした寺院が、と調べるでもなく気ままに探訪します、何故でしょう、こう考えたのですが、まあ、近いからというのと、違った場合でも次にほかの自社仏閣を探訪できる余裕もあるのかもしれません。

華頂山という山号の寺院故に坂之上の御堂、ただ、この急な階段は男坂と呼ばれていまして、隣に傾斜が緩やかな女坂があります、坂を見上げるにとどめてゆったり上るもよし、一気に登ってしまうもよし。その先に法然さんの信仰への源流と云える景色があるのです。

平成の大修理、実は、ひさしぶりに知恩院を拝観しよう、こう考えたのは何年前だったでしょうか、まあこの階段を上って拝観に望んだらば、本堂が工事の準備を進めている最中で、みてみますと平成の大修理、こう大書されていまして、要するに拝観の時機を違えた。

木造建築の伽藍は維持しなければ朽ちるに任せますと倒壊してしまいます。故に平成大修理が必要ということは理解するのですが。いきなり探訪した寺院が航空機格納庫のようなものに覆われているのは寂しい、情報収集を怠った事を悔いるとともに、反省はしないが。

狩矢父娘シリーズ、田村亮さんと藤谷美紀さんの競演という山村美紗さん原作のドラマを見ていましたらば、そうだよこのときだよ、という背景に修理中の知恩院がでていました回の再放送がありまして、そうか、一ついってみるか、思いたちましたのがこのはじまり。

吉水御坊とも呼ばれます当地は、比叡山延暦寺を降りた法然が庵を開いた場所がここ東山吉水である由来なのですが、専修念仏、つまり南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われるという解釈は、成仏という概念と救いの無い中世の日本において広く受け入れられました。

庵から始まりましたこの寺院、当時は無人の山裾だったのでしょう、当地で法然は40年近い長期に渡り布教に勤しみ、その40年間には讃岐への配流、そして4年後に京都へ戻る事が許されると吉水御坊に戻るも荒れ果てており、近くに大谷禅房という堂宇を建てました。

大谷禅房は、現在知恩院勢至堂当りとなっていまして、こう、全て伽藍で結ばれている今日の知恩院は、法然の没後、法然を懐かしんだ浄土宗の信徒たちが集まりました堂宇が大きくなりまして、幾度か延暦寺の攻撃で破壊されましたが再建し、今日に至るという。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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桜の紅葉は一瞬、秋の散策は早めにとお勧めすると共に歩み進めるならばなにか心打つものを見上げたい。

知恩院、この三門を見上げるたびにあっという新鮮さは幾度重ねても続く。東山三十六峰が目の前に日本らしい情景を広めるとともに、しかし日本らしいというには壮大といえる三門が、ここは東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町、浄土宗総本山、知恩院です。

承安5年西暦1175年に比叡山を降りた法然により開かれたという御山は後に法然と同じく比叡山を降りた親鸞さん、この時御年29歳ということですが、当地で法然から教えを受けたという。日本仏教が一部の貴人から大衆の信仰に支えられる転換点となった場所だ。

法然所縁の地、御影堂に法然上人像を阿弥陀如来を阿弥陀堂に御本尊として安置します寺院は石段の上にあります寺院です。石段は、三門とともにその奥に急な石段が見えているのですが、遠目には此処が壁のように見えてしまう、この先に御影堂へとのぼってゆく。

自衛隊の駐屯地や航空祭を探訪する際にはこれでもかというほどに下調べし、街並みから交通手段はもちろん過去に探訪したことがあっても太陽の向きから建物の配置まで衛星写真からヒューミント情報まで駆使て情報とともに情報の階段と舗装路を探訪するのですが。

寺院探訪となりますと、情報を全く考えず、そういえばここにこうした寺院が、と調べるでもなく気ままに探訪します、何故でしょう、こう考えたのですが、まあ、近いからというのと、違った場合でも次にほかの自社仏閣を探訪できる余裕もあるのかもしれません。

華頂山という山号の寺院故に坂之上の御堂、ただ、この急な階段は男坂と呼ばれていまして、隣に傾斜が緩やかな女坂があります、坂を見上げるにとどめてゆったり上るもよし、一気に登ってしまうもよし。その先に法然さんの信仰への源流と云える景色があるのです。

平成の大修理、実は、ひさしぶりに知恩院を拝観しよう、こう考えたのは何年前だったでしょうか、まあこの階段を上って拝観に望んだらば、本堂が工事の準備を進めている最中で、みてみますと平成の大修理、こう大書されていまして、要するに拝観の時機を違えた。

木造建築の伽藍は維持しなければ朽ちるに任せますと倒壊してしまいます。故に平成大修理が必要ということは理解するのですが。いきなり探訪した寺院が航空機格納庫のようなものに覆われているのは寂しい、情報収集を怠った事を悔いるとともに、反省はしないが。

狩矢父娘シリーズ、田村亮さんと藤谷美紀さんの競演という山村美紗さん原作のドラマを見ていましたらば、そうだよこのときだよ、という背景に修理中の知恩院がでていました回の再放送がありまして、そうか、一ついってみるか、思いたちましたのがこのはじまり。

吉水御坊とも呼ばれます当地は、比叡山延暦寺を降りた法然が庵を開いた場所がここ東山吉水である由来なのですが、専修念仏、つまり南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われるという解釈は、成仏という概念と救いの無い中世の日本において広く受け入れられました。

庵から始まりましたこの寺院、当時は無人の山裾だったのでしょう、当地で法然は40年近い長期に渡り布教に勤しみ、その40年間には讃岐への配流、そして4年後に京都へ戻る事が許されると吉水御坊に戻るも荒れ果てており、近くに大谷禅房という堂宇を建てました。

大谷禅房は、現在知恩院勢至堂当りとなっていまして、こう、全て伽藍で結ばれている今日の知恩院は、法然の没後、法然を懐かしんだ浄土宗の信徒たちが集まりました堂宇が大きくなりまして、幾度か延暦寺の攻撃で破壊されましたが再建し、今日に至るという。
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