■絶景は紅葉と清水の舞台
京都のこれが定番と云う情景には混雑していても探訪しておきたいと急に思い起こす事があります。
本堂。この情景は午前中でなければ見られないものでして、午後からは逆光になってこの朱色紅色が黒くなってしまうのですね。そう京都の紅葉は十一月十二月、太陽の陽光は素早く傾く故に紅葉の景色を頂きの時間帯に見るには太陽の頂きと相談せねばなりません。
感嘆といいますか歓声と云いますか、、吶喊の掛け声は流石に聞こえてきませんが、なにかこう無意識に思った事が声として漏れてくるような、それが清水寺と思う。混雑を避けて静寂の寺院は好きなのですが、こういう定番の情景もやはりいいかな、こう思ってしまう。
紅葉はその真下から眺めるには逆光の方がいい事もあるのです、それは新緑と同じ様に透けて光り輝く事もありますから、しかし清水寺の場合は透けて見えるというより俯瞰風景ですから、時間帯は午前中に多少混雑しても眺めてみた方が、これはという景色に出会う。
平成の大修理を終えましたこの情景は、京都を象徴する情景故にまた日常で観れる事が嬉しい。実は一時期に平成の大修理というものが行われている寺院を地図上で表示できるようにできないかと考えた程なのですが、しかし修理最中の情景も面はゆいと考え直した。
十一面千手観世音菩薩が秘仏としまして奉じられています本堂には、その須弥壇上には三基の厨子が並びましてこちらも国宝という。そして観音菩薩は補陀洛山に現れるとの観音経妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の考えが有りまして、清水寺のこの舞台の由来に。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五には観音菩薩は補陀洛山に現れる、つまり清水寺はこの音羽山を補陀洛山に見立てているといいまして、その御本尊を安置し多くの方に拝観巡礼してもらうには、とこう懸造の構造が採用されているのですね。これが清水の舞台だ。
清水の舞台、この本堂は江戸時代初期、三代将軍徳川家光の寄進により寛永10年こと西暦1633年に再建されたものといいます。ここが本堂、そしてここ清水寺もあの応仁の乱で大被害を受けてしまい、百年以上仮本堂であったといいまして、家光公により漸く修理成る。
徳川家光が再建したこの本堂と舞台ですが、しかし、応仁の乱で焼けてしまうまえはどのような堂宇であったのかが気になるところです。それにしても応仁の乱、坂上田村麻呂が開いた寺院さえも焼いてしまうとは、本当に無差別攻撃だ、と文化財焼失を残念におもう。
懸造の堂宇は国宝に指定されているものですが、この懸造の舞台は139本もの欅材の柱から構成され、そして意外と広く平面の間口で36mあり奥行も31mに達するという、思い浮かべますですと、電車は全長20m25mプールのことを考えますとここは遥かに広い。
欅材は寿命が本当に長い、柱や貫は寛永再建時のものがそのまま使われているというのですから、この柱はいったいどれ明け多くの人の歩みを支えてきたのだろう、と考えつつ、そういえばわたしも何度目だ、と延べ回数を考えてみると、いやはやこれは大変な事です。
舞台の床面板は、しかし良く踏まれますので耐用年数は25年から30年程度といい、さて次の大修理というものも考えて撮影してゆかなければ、また令和の大修理ということで何年も本堂が覆われてしまうことも確かです。その年度に修学旅行の子たちはどう思うのか。
清水寺を改めて探訪しようと後年思ってくれるのかな、そんなことも平成の大修理の際しては思い浮かべたものですが、いましかない貴重な修理の情景云々と云うよりも、やはり写真にあるような教科書から観光案内から載っているような、情景がいいものですよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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京都のこれが定番と云う情景には混雑していても探訪しておきたいと急に思い起こす事があります。
本堂。この情景は午前中でなければ見られないものでして、午後からは逆光になってこの朱色紅色が黒くなってしまうのですね。そう京都の紅葉は十一月十二月、太陽の陽光は素早く傾く故に紅葉の景色を頂きの時間帯に見るには太陽の頂きと相談せねばなりません。
感嘆といいますか歓声と云いますか、、吶喊の掛け声は流石に聞こえてきませんが、なにかこう無意識に思った事が声として漏れてくるような、それが清水寺と思う。混雑を避けて静寂の寺院は好きなのですが、こういう定番の情景もやはりいいかな、こう思ってしまう。
紅葉はその真下から眺めるには逆光の方がいい事もあるのです、それは新緑と同じ様に透けて光り輝く事もありますから、しかし清水寺の場合は透けて見えるというより俯瞰風景ですから、時間帯は午前中に多少混雑しても眺めてみた方が、これはという景色に出会う。
平成の大修理を終えましたこの情景は、京都を象徴する情景故にまた日常で観れる事が嬉しい。実は一時期に平成の大修理というものが行われている寺院を地図上で表示できるようにできないかと考えた程なのですが、しかし修理最中の情景も面はゆいと考え直した。
十一面千手観世音菩薩が秘仏としまして奉じられています本堂には、その須弥壇上には三基の厨子が並びましてこちらも国宝という。そして観音菩薩は補陀洛山に現れるとの観音経妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の考えが有りまして、清水寺のこの舞台の由来に。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五には観音菩薩は補陀洛山に現れる、つまり清水寺はこの音羽山を補陀洛山に見立てているといいまして、その御本尊を安置し多くの方に拝観巡礼してもらうには、とこう懸造の構造が採用されているのですね。これが清水の舞台だ。
清水の舞台、この本堂は江戸時代初期、三代将軍徳川家光の寄進により寛永10年こと西暦1633年に再建されたものといいます。ここが本堂、そしてここ清水寺もあの応仁の乱で大被害を受けてしまい、百年以上仮本堂であったといいまして、家光公により漸く修理成る。
徳川家光が再建したこの本堂と舞台ですが、しかし、応仁の乱で焼けてしまうまえはどのような堂宇であったのかが気になるところです。それにしても応仁の乱、坂上田村麻呂が開いた寺院さえも焼いてしまうとは、本当に無差別攻撃だ、と文化財焼失を残念におもう。
懸造の堂宇は国宝に指定されているものですが、この懸造の舞台は139本もの欅材の柱から構成され、そして意外と広く平面の間口で36mあり奥行も31mに達するという、思い浮かべますですと、電車は全長20m25mプールのことを考えますとここは遥かに広い。
欅材は寿命が本当に長い、柱や貫は寛永再建時のものがそのまま使われているというのですから、この柱はいったいどれ明け多くの人の歩みを支えてきたのだろう、と考えつつ、そういえばわたしも何度目だ、と延べ回数を考えてみると、いやはやこれは大変な事です。
舞台の床面板は、しかし良く踏まれますので耐用年数は25年から30年程度といい、さて次の大修理というものも考えて撮影してゆかなければ、また令和の大修理ということで何年も本堂が覆われてしまうことも確かです。その年度に修学旅行の子たちはどう思うのか。
清水寺を改めて探訪しようと後年思ってくれるのかな、そんなことも平成の大修理の際しては思い浮かべたものですが、いましかない貴重な修理の情景云々と云うよりも、やはり写真にあるような教科書から観光案内から載っているような、情景がいいものですよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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