北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】知恩院,平成の大修理経た国宝御影堂-華頂山眼下に御所と二条城望む徳川家康の国家観

2022-11-09 20:22:44 | 写真
■吉水草庵は巨大伽藍へ
 御影堂は凛として壮大でやはりいつ見上げても大きいものだと感じ入るものがあります。

 落慶法要、実は此処御影堂は国宝なのですが平成の大修理が2011年から2020年まで長きに渡り行われていました、落慶法要はしかし2020年という時節ゆえ縮小、吉水草庵があった場所に寛永16年こと1639年、徳川家光が吉水草庵を再建すると、この規模になった。

 知恩院、法然さんを懐かしむ堂宇が、しかしこうした大規模な争乱伽藍となった、さぞや凄い寄進が集まったのだろう、こう思われるところでしょうが、ここには政治と宗教、日本が現代国家にいたる中世の時代という歴史が色濃く反映しました、徳川家康による。

 徳川家康、現代に至る知恩院の壮大伽藍は江戸時代初期、徳川家康による造営となりました。家康といえば戦国時代に一向一揆などで危機に曝されたこともあるのですが、豊臣秀吉の京都大改造を江戸幕府開府ののちに権力者として引き継いだという一環ともいえます。

 将軍家菩提寺、ただこの知恩院については京都大改造を引き継いだというには遙かに大きな規模による復興といえる、もともと京都大改造は応仁の乱からの復興が端緒ではあったのですが法難に何度も曝された知恩院は応仁の乱では琵琶湖畔、新知恩院に疎開しました。

 良純法親王、家康は知恩院再興とともに後陽成天皇の皇子を知恩院の門主に迎えまして、こうして知恩院は門跡寺院という格の高さを得るとともに、伽藍を現代の知恩院のような見上げるばかりという規模に築き上げました、なにしろ三門からして日本最大の三門だ。

 華頂山、ここ知恩院は東山三十六峰の華頂山に立地する寺院なのですが、同時にここは京都一円を眼下に納めるという絶景とともに、それほど遠くない立地に京都御所と、その向こうに二条城を望むという、つまりここ知恩院はお上の御所を見下ろしているのですね。

 二条城といえば徳川家康の最後期に造営した城郭、もともとは神泉苑という京都への平安遷都の際の水源を掘り割りの水利に用いる織田信長の二条御所跡地に広がります城郭です。そして京都御所、征夷大将軍は天皇から将軍宣下の詔勅をもって任官する官位なのです。

 徳川家光が二条城へ天皇行幸を受けた際には大手門がお上を見下ろすに忍びないとして大手門の上段を取り払う敬意を示したことはよく知られるところですが、武家政権は常に朝廷の介入と政治権力の維持に慎重であったこともまた日本史の間違いのない事実ではある。

 御所を崇敬し、しかし日本社会と国内政治安定には幕府の盤石な統治機構の維持、ここの調和と均衡が江戸幕府開府と新しい中世と近世に至るための日本政治システム構築には、朝廷と幕府とともにもう一つの分権体制というものに、浄土宗総本山を考えたといえます。

 三権分立、この考え方ではないのでしょうが対立を避けるための構造、という。しかし門跡寺院であり征夷大将軍としての官位であり、主権には配慮しつつ実権を考える。こうした考え方から、この知恩院は法然さん懐かしむ庵からこの壮大な規模となりましたしだい。

 法然院。しかし知恩院は大きくなりすぎた、とは江戸時代にそもそも法然上人の専修念仏から離れるほどの威容ではないか、こうした考え方からもう一つ法然院が小さな庵として造営される等、原点回帰を模索する動きもあり、信仰と権力の距離感は中世の課題という。

 知恩院の石階段、男坂と緩やかな女坂と有りますが、此処を降りると共に今は凄いの一言に尽きる壮大伽藍も三門も、これらを包み育んだ歴史というものは成程複雑な背景と云うものがあるのだ、考えさせられつつ色づき始めた紅葉の木々を改めて見上げたのでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】知恩院,専修念仏は日本の曖昧さと寛容性という価値観の源流を感じ入る法然さんの吉水草庵跡

2022-11-09 20:00:12 | 写真
■はじまりの知恩院
 日本の宗教への寛容性は上手く転じれば社会の多様性に繋がり悪用されればだまされる人を量産してしまうのでしょうが、柔軟さのない硬すぎる社会よりは良くする努力の余地が残る社会の方がまだ良い。

 知恩院という寺院は、南無阿弥陀佛ととなえる源流という考えができるようです。それは当地が法然さんの臨終の地であり、門弟たちがその別れを惜しみ追善法会を知恩講として集った事が、知恩講の場所としての寺院、すなわち知恩院、冠せられたためといいます。

 念仏、法然の教えは、この以前と以後では日本の価値観を大きく変容させたようにおもえるもので、専修念仏、ただ南無阿弥陀佛と唱えることが信仰の要諦であるとした民衆救済のあり方として広めたものでした。悪人でも善人でも貴賤とわず救われるという考え方だ。

 南無阿弥陀佛、この考えが日本の価値観というものを転換させたのは、それまでは仏教とは出家し学問として先人の教えを学び、その上で厳しい修行を経た僧侶が、徳を積んでそして修行を津痔家学び続け、こう救われるには相応の努力か、別のものを要していました。

 観光寺院のなかにはいくつか有りますが貴人が寄進した別荘や別宅の寺院化というのはこの努力を飛ばして、金銭は努力の結晶というような考えとともに、お金は出すので往生をという、時代は違うが昨今一部カルトの問題に先例を与えるような流れをおこなっている。

 寺院、この表現は迷ったのですがそうした寺院は当時としては意味があった、ただ敢えて例示とだしたのは、カルトは千年前の手法をいま用いているところが問題で、これは百年前の価値観と現代の兵器や核兵器で隣国を侵略する某国と同じように問題、区別は要る。

 祈るだけで、この法然さんの教えというものはここで転換点となった、考えれば明治維新後の四民平等、現行憲法の法の下の平等は、既に宗教、当時の宗教といえば価値観に影響を及ぼしている重大要素ですから、平等という価値観の源流の一つを築いたともいえます。

 神は実在すると思うか、この問いに対して日本は先進国のなかでもっとも低い数字の回答という。日本の同盟国は半数が実在を信じているというし、とあるNATO加盟国では九割以上が実在するし存在を疑わない、回答したようです。これも21世紀の感覚というものか。

 信仰を問われる考えですが、しかし日本でもっとも高い回答は、いるかもしれないしいないかもしれない、いたらよいと思うことはある、との割合の合計がかなり高い水準になるという。このあたりが、日本の寛容さというか曖昧さというか、価値観に通じるようにも。

 法然さんの専修念仏という考え方はまさにこの点でして、実在を確信するまでに突き詰めるには人生を傾ける覚悟と行動が必要になり、しかし実在を確信する人たちだけでは社会を動かすことはできません、そしてそこには平等というものも存在し得なくなってしまう。

 専修念仏という考え方そのものは、いわば宗教の大衆化とえいるのかもしれません、それは同時に大衆化による負担云々よりも、なにしろ救いのない時代でした故に、求められていた信仰との距離感なのかも知れません。これが曖昧さと寛容さという日本的価値観へ。

 法然さんは建暦2年こと西暦1212年、当地で没しました。嘉禄3年こと西暦1227年に延暦寺衆徒に焼き払われた嘉禄の法難というように、当時の日本はある種保守的ではあったといいますか、その保守性が寺院焼き払いとなったのは少々考えさせられるところですが。

 四条天皇により華頂山知恩教院大谷寺という寺号を下賜されますと、こうした法難の騒擾が漸くひと段落しまして。しかし元々ここは吉水草庵という小さな庵、法然さんがそこに座っていて迎えてくれた、そこから親鸞さんなども、という今よりも小規模であったのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【国際観艦式2022】あたご&もがみ停泊の山下埠頭,くまの&はたかぜ&せとぎり&ぶんご停泊の米軍瑞穂埠頭

2022-11-09 07:01:03 | 海上自衛隊 催事
■横浜の護衛艦隊
 国際観艦式の横浜停泊艦艇の様子を本日も紹介しましょう。

 あたご、もがみ。あたご型護衛艦が建造された当時はステルス性を重視したモノポールマスト等先進的な設計に時代の移ろいを感じたもの、そして、あたご就役は北大路機関創設後なのですが2000年代の護衛艦、もがみ、2020年代の護衛艦、20年の違いを感じる。

 もがみマスト部分を拡大します。2020年というCOVID-19感染拡大の最中に進水式を迎え建造された、いわば自衛隊行事空白期に量産が開始された護衛艦、毎年2隻を建造するという久々の量産体制により、短期間で海上自衛隊の艦隊運用を一新させる護衛艦といえる。

 くまの、その奥に見えるのは練習艦はたかぜ、でしょうか。こちらは横浜港瑞穂埠頭、いわゆる米軍埠頭です。横浜港は戦後この重要埠頭を米軍が占有した事で復興に影響が及びました。一方、瑞穂埠頭は相模原総合補給処や横田基地を結ぶ米軍兵站の要衝の一つ。

 せとぎり、奥には掃海母艦ぶんご。あさぎり型護衛艦も今後は新型の護衛艦もがみ型に置換えられ早ければ十年を経ずして護衛艦からは退役するのでしょうか。ロービジ塗装となりました護衛艦あさぎり型は今見ておくべき艦です。そして掃海母艦、後継はどうなるか。

 インペッカブル、アメリカ海軍の音響測定艦で、双胴船体から長大なSURTASS曳航アレイ式探知装置を繰り出して広範囲の対潜情報を収集、中国海軍の潜水艦建造速度が冷戦時代のソ連潜水艦建造速度に匹敵する状況である昨今には重要な平時の情報収集手段です。

 瑞穂埠頭は横浜ノースドックとも呼ばれ、朝鮮半島有事等における兵站拠点となるのですが韓国軍の近代化と戦時作戦権返還などで横浜港の一等地に位置するこの埠頭がどのように日米間で扱われるか、当面使わない鉄道線路跡返還など進み、今後の関心事ですよね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする