■賑わいは平安朝の頃から
青空が広がり椛も色づく季節でしたからやはり清水寺は多くの拝観者が訪れ実に賑やかでした。

紅葉の季節がやってきた。こう認識するところで、まだ椛も楓も鮮やかではあっても深紅の一面という紅葉最盛期までには時間があるところではあるのですが、こう色合いの移ろいを見ますと、いよいよ一年も終盤の冬に入るのだなあ、こう心に沁みるようなもの。

鞍馬寺に広隆寺、平安遷都よりも遡る事この当地に信仰の庵を開いていました寺院は幾つかあるのですが、ここ清水寺もその一つです。清水寺は南都六宗の一翼を担う法相宗の寺院となっていますが、始まりは僧侶延鎮は夢のお告げを受け当地を巡った事に始まる。

清水寺は、物凄い観光客、これはもう宗教関係なく拝観者というよりも観光客でにぎわうというところですが、不思議と混雑は情緒の一つを醸しているよう、それは清水寺の拝観通路が巨大な一方通行であり、一日10万20万は日常の様に拝観できるという順路による。

西国三十三所第16番札所となりました寺院ですが、延鎮が清らかな水の湧く山麓に行くようお告げを受けたといい、そこで不思議な老人とであった事を縁として庵を開いた、そこに偶然といいますか、坂上田村麻呂が鹿狩りに訪れまして、延鎮と出会う事で歴史は動く。

延鎮と坂上田村麻呂、普通ならば山道でであっても会釈して通り過ぎるようなものなのでしょうが、鹿狩りを行おうとする坂上田村麻呂に延鎮は生命の尊さを説き、やめるよう促しました、ただ坂上田村麻呂は懐妊の奥方に滋養のつくものを探しており、狩りを続けた。

出会いのある寺院、こういう訳ではないのでしょうが坂上田村麻呂は初代征夷大将軍、こう射った矢は見事鹿に命中するのですが、その鹿は身篭っていて絶命の瞬間に小鹿を生む、その瞬間目の当たりにしまして坂上田村麻呂は後悔したのですね、そして仏教へ帰依する。

坂上田村麻呂は桓武天皇に平安京造営を命じられた一人でして、実はこの時代まで日本はほぼ20年から30年おきに首都を転々とさせていたのですが、これが経済的に膨大な負担、平安京を千年の都とした数名の武人と官僚が居なければ日本は経済破綻していた可能性も。

京都が京都たりえたというのは、幾つかの出会いと偶然とが積み重なったものなのですから、もちろん論拠と根拠を集積し学説まで昇華させるには個人では研究費という箍が厳しく響くところですが、状況証拠と伝承から想像を膨らませるのは知的好奇心をよく満たす。

音羽山こと清水山は標高242m、ここからは想像にすぎないのですが坂上田村麻呂は仏教に帰依すると延鎮の庵に寄進を続け、大きな寺院としていました。経済破たんの瀬戸際にある古代日本を、音羽山の眼下に広がる平安京を最後の遷都とする事で守ろうとしたのか。

観音霊場である清水寺は、ほんとうに賑やかでして、実のところ雑踏をかき分けて撮影するという表現が正しいように人波の凪を探して人のいない瞬間を撮影するのです。ただこの賑やかさというのは昔からと云いまして、それもコロナ前とか戦後とかの話ではない。

枕草子、中世日本文学には枕草子に清水観音の縁日について触れているといいまして、さわがしきもの、その一例としてつまり雑踏は嫌あねえ的に挙げています。つまり21世紀にもこの当たりは観光客が多すぎる、と感じるのは千年前からの二番煎じ千番煎じという。

源氏物語や今昔物語集にも記されているといいますから、歴史絵巻が流れる様に人の流れに身を任せ流れてゆくと共に、しかし寺院の懸造という構造は不変であっても眼下に広がる京都の市街地や木々の色合い雲の形に青い空と空気に香さえ、同じものは無いのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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青空が広がり椛も色づく季節でしたからやはり清水寺は多くの拝観者が訪れ実に賑やかでした。

紅葉の季節がやってきた。こう認識するところで、まだ椛も楓も鮮やかではあっても深紅の一面という紅葉最盛期までには時間があるところではあるのですが、こう色合いの移ろいを見ますと、いよいよ一年も終盤の冬に入るのだなあ、こう心に沁みるようなもの。

鞍馬寺に広隆寺、平安遷都よりも遡る事この当地に信仰の庵を開いていました寺院は幾つかあるのですが、ここ清水寺もその一つです。清水寺は南都六宗の一翼を担う法相宗の寺院となっていますが、始まりは僧侶延鎮は夢のお告げを受け当地を巡った事に始まる。

清水寺は、物凄い観光客、これはもう宗教関係なく拝観者というよりも観光客でにぎわうというところですが、不思議と混雑は情緒の一つを醸しているよう、それは清水寺の拝観通路が巨大な一方通行であり、一日10万20万は日常の様に拝観できるという順路による。

西国三十三所第16番札所となりました寺院ですが、延鎮が清らかな水の湧く山麓に行くようお告げを受けたといい、そこで不思議な老人とであった事を縁として庵を開いた、そこに偶然といいますか、坂上田村麻呂が鹿狩りに訪れまして、延鎮と出会う事で歴史は動く。

延鎮と坂上田村麻呂、普通ならば山道でであっても会釈して通り過ぎるようなものなのでしょうが、鹿狩りを行おうとする坂上田村麻呂に延鎮は生命の尊さを説き、やめるよう促しました、ただ坂上田村麻呂は懐妊の奥方に滋養のつくものを探しており、狩りを続けた。

出会いのある寺院、こういう訳ではないのでしょうが坂上田村麻呂は初代征夷大将軍、こう射った矢は見事鹿に命中するのですが、その鹿は身篭っていて絶命の瞬間に小鹿を生む、その瞬間目の当たりにしまして坂上田村麻呂は後悔したのですね、そして仏教へ帰依する。

坂上田村麻呂は桓武天皇に平安京造営を命じられた一人でして、実はこの時代まで日本はほぼ20年から30年おきに首都を転々とさせていたのですが、これが経済的に膨大な負担、平安京を千年の都とした数名の武人と官僚が居なければ日本は経済破綻していた可能性も。

京都が京都たりえたというのは、幾つかの出会いと偶然とが積み重なったものなのですから、もちろん論拠と根拠を集積し学説まで昇華させるには個人では研究費という箍が厳しく響くところですが、状況証拠と伝承から想像を膨らませるのは知的好奇心をよく満たす。

音羽山こと清水山は標高242m、ここからは想像にすぎないのですが坂上田村麻呂は仏教に帰依すると延鎮の庵に寄進を続け、大きな寺院としていました。経済破たんの瀬戸際にある古代日本を、音羽山の眼下に広がる平安京を最後の遷都とする事で守ろうとしたのか。

観音霊場である清水寺は、ほんとうに賑やかでして、実のところ雑踏をかき分けて撮影するという表現が正しいように人波の凪を探して人のいない瞬間を撮影するのです。ただこの賑やかさというのは昔からと云いまして、それもコロナ前とか戦後とかの話ではない。

枕草子、中世日本文学には枕草子に清水観音の縁日について触れているといいまして、さわがしきもの、その一例としてつまり雑踏は嫌あねえ的に挙げています。つまり21世紀にもこの当たりは観光客が多すぎる、と感じるのは千年前からの二番煎じ千番煎じという。

源氏物語や今昔物語集にも記されているといいますから、歴史絵巻が流れる様に人の流れに身を任せ流れてゆくと共に、しかし寺院の懸造という構造は不変であっても眼下に広がる京都の市街地や木々の色合い雲の形に青い空と空気に香さえ、同じものは無いのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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