北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-最近ではアニメーションが有名に,少女びわと建礼門院徳子

2024-10-23 20:24:01 | 写真
■建礼門院徳子
 声明の里といわれた大原は今もう一つの視点で。

 平家物語、最近ではアニメーションが有名に、と紹介したいところなのですが、あのアニメーションは2022年という、考えれば時間が経つのが早くなったように思えるのは歳を取ってしまったからなのでしょうか、この寂光院、作中の末尾に描かれています。

 寂光院でも庵主さん、ではなく寺務員の方、ちょうどこの寂光院の本堂を開設する際にアニメーション作品の方に触れられていまして、そうですよね寂光院といいますと最近ここ寂光院がわだいになったのはあの作品、と勝手に納得してしまったのですけれど。

 寺務員さんの方は学生時代に漫研だったというお話を、堂宇とお山の解説全般が終わりました後で雑談しました際に、平家物語のわだいにあわせまして交歓しましたもので、実際、淡々とではあるが感情移入できる視座をもとの平家物語の大筋に沿って。

 けいおん!の山田尚子監督作品、けいおん!の監督、というだけで色彩豊かな世界観を共有できるのかな、と思うところです。監督は京都アニメーションに入社ののちにさまざまな作品に参加し、また監督として全体の制作を統括しています、どれも完成度が高い。

 中二病でも恋がしたい!、境界の彼方、氷菓、と監督が絵コンテで参加されました作品なんかはDVDかBDを揃えていますし、けいおん!についても。あとヴァイオレットエヴァーガーデン、一部BDをかったものの店頭品薄、というよりBDを扱う店が減った。

 古川日出男の新訳、平家物語を原作とした作品は琵琶法師の少女びわを主人公に、実父を平家の武士に殺害され抗議に向かった先で平重盛に拾われるところで、重盛の子、平維盛と平資盛と平清経とともに生活し、平家の興亡を目の当たりにするという展開だ。

 徳子、平徳子とびわの出会い、そして高倉天皇への入内、後白河法皇と平氏の確執の高まりとともに鹿ケ谷の陰謀を発端として高まる全面対立、歴史にある通りの混とんと動乱の機運が戦禍へとつながる様相が、治承三年の政変により一気に沸点に達します。

 びわ、平徳子、実質この二人を中心に物事は、大河ドラマという通り一人の力では抗う事は出来ず見るほかない大河のような流れに翻弄されているのですが、入内した平徳子は高倉天皇の皇子、のちの安徳天皇を身ごもるところで降りれぬ歴史舞台へ立つ。

 福原遷都を強行した後に、後白河法皇の平家追討院宣の発布、源頼朝の挙兵と富士川の戦い、南都焼き討ち、次第に形成は不利の様相を呈するとともにつかの間の勝利が戦術的勝利の代償に戦略的敗北を被る悪循環となり、一ノ谷など決定的敗北を重ね。

 壇ノ浦の戦いはその最終話に描かれていまして、歴史上には実在していない少女びわの視点を通し、一つの歴史が終わり一つの歴史の転換点、というものをかなりわかりやすく描いています。それはその時代を生きる人々の感情を今風に解釈したうえででも。

 安徳天皇は、壇之浦において平家と運命を共にしました、それは敗北を重ねた平家が最後に源氏への決戦を試みた壇之浦の戦いにおいて皇太后徳子とともに入水するのですが、徳子だけは引き上げられ、罪を問われることなくしかし出家、寂光院へ入る。

 三種の神器さえ帰って来るならば、別に平家を撃ち滅ぼそうとまでは思っていなかった。後白河法皇は劇中の末尾に、建礼門院徳子をここ寂光院に訪ねるとともに雲の狭間から射した陽の光が堂宇をふっと照らし、本尊を照らす様子を悲しく見上げて物語は終わる。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】寂光院,静けさの大原と平家物語大原御幸は諸行無常という六道語りを今に伝える

2024-10-23 20:00:54 | 写真
■平家物語ゆかりの地
 大原というと京都市内でもはるか北の先という印象が有りますが実際に散策してみますと此処を隠遁の地とした人々のきもちがよくわかる。

 寂光院、京都の奥座敷と言われる大原は左京区大原草生町という、特に奥まった、しかし静けさと共にある立地の尼寺です、山号は清香山、平家物語ゆかりの寺としても知られ、それは平清盛の娘である建礼門院徳子が晩年を過ごした寺院という歴史ゆえ。

 天台宗寺院である寂光院、この一帯の大原は三千院、梶井門跡として長らく洛中近くに位置していました寺院が当地に明治以降遷りまして歌にも謡われたほどなのですけれども、もともと当地は貴人の隠遁の地、という風情をたもっていまして。

 真如覚比丘尼という名に改めた建礼門院徳子は第3代住持として平家滅亡後の、しかし追討命令を発布した後白河法皇にとっても、結局は鎌倉幕府開府による武家社会が始まり、それは七百年にわたり朝廷と皇室は権威だけの世界に留まるところとなる。

 清香山の山号とともに、しかし実のところここ寂光院の寺院はその始まりの歴史がはっきりとわかっておらず、寺伝によればとう山の開基は聖徳太子、その創建は推古天皇2年こと西暦594年、最初の住持は聖徳太子の乳母玉照姫恵善尼とされています。

 声明、融通念仏、音韻により読経を広める大原声明発祥の地とされ、梵唄という大陸伝来の仏教声楽から日本の音楽、とはいいつつも仏教音楽という一つの体系ではあるのですが、その発祥の地でもあることから、日本における独自音楽が確立した地ともいう。

 聖徳太子が開いた、という寺伝は残るものの7世紀から12世紀まで、寂光院がどのような歴史をたどったかについては歴史として確認できるものが無く、建礼門院に仕えて後に出家した阿波内侍を、恵善尼に続く二代の住持として寺伝でも記しています。

 7世紀から12世紀までの空白、といいますと今の感覚では長大な時代の流れのようにも見えるのですが、ただこれも中世以前の時間感覚であり、それは堂宇に至る細いほそい参道を曲がり切った先に漸く庵の気配を感じまる石段を見上げた時間の感覚の違い。

 声明の里、といわれる大原は、いま、そう令和の時代に在っても声明を唱えれば山河にうっすらと透き通るような独特の空気感と共に、なにより今を以て洛中の喧騒は最寄り駅が10㎞以上先という風情立地の通り静けさを保ち、それは山内にあってもおなじ。

 本堂は、残念ながら放火によりご本尊ともども残念なことに2000年全焼してしまった。慶長年間に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が奉行となり造営した堂宇であり、しかし放火犯は今を以て逮捕されておらず、2005年に堂宇のみを再建しいまにいたります。

 旧本尊の木造地蔵菩薩立像は六万体地蔵菩薩とも称されていまして、本堂放火に際して焼損してしまいましたが全焼だけは免れ、美術院国宝修理所により三年間の期間を経て修繕、というよりも新しく彫像される事となりまして、いまにいたります。

 大原御幸、この寂光院を平家物語所縁の寺院としましたが、これは後白河法皇の文治2年こと西暦1186年、大原行幸の史実をもとにしました六道語りという一種の悟りを徳子が語る平家物語の段とともに、諸行無常というものを語る描写の舞台とのものです。

 寂光院はその大団円とは程遠いものの、一つの時代が終わる中で生き延びたことの命を問う、史実の人々のあったかもしれない一情景を描いているのですが。これがいまはアニメーションにより描かれ、印象的な作品があったのですね。

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ウクライナ情勢-ロシア軍対砲兵戦の遅さという弱点と使い始めたスターリンク衛星のトレツク大規模市街戦への影響

2024-10-23 07:00:33 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 特科部隊の迅速な陣地変換や市街地を想定した近接戦闘訓練など自衛隊の訓練体系が無駄ではなかったという事が皮肉にもウクライナの戦況で判明している。

 ロシア軍は対砲兵戦の遅さが問題である、これはISWアメリカ戦争研究所が10月12日付ウクライナ戦況報告において、ロシアのミルブロガー発言を引用したものです。ウクライナ軍の砲兵陣地を確認した場合でも、対砲兵戦闘としてこの砲兵陣地へ砲撃を加えるのに二週間から四週間かかり、そのうちにウクライナ軍は陣地変換しているという。

 対砲兵戦は、陸上自衛隊の場合で陣地侵入から射撃まで数分、効力射を加えるのに数十秒、その後陣地変換を行い、要するに火砲は砲撃を加えれば音響やレーダーにより位置が暴露することから動かない状況でいることが最も危険であるとして、頻繁な陣地変換を継続することが生存するための唯一の方法であると考えられています。

 ロシア軍は対砲兵戦にランセット、自爆用無人機を多用していますが、これは同時に砲兵による対砲兵戦が時間的に成り立たないことの裏返しでもある。自爆用無人機は対砲兵戦いがいにあらゆる任務に必要であるため、ここで大きく損耗することの問題点を軍事ブロガーが指摘しています。なおここでいうブロガーとは従軍記者をしめしている。■

 トレツクでは大規模な市街戦が進行中である、ISWアメリカ戦争研究所10月12日付ウクライナ戦況報告によれば、ロシア軍はクピャンスク南東のステポヴァノヴォセリヴカ南東とザポリージャ州西部のロボティね北西近郊において漸進していますが、目下の最大の焦点はトレツクとなっていると分析しています。

 トレツクでの戦闘についてウクライナ軍のルハンスク作戦集団報道官ポポフ大佐の発表によればロシア軍は現在トレツク東部を占領しているとしています。この情報についてISWは入手可能な画像情報などからロシア軍は市街地の少なくとも38%を占領していると分析していますが、市内の戦線はかなり流動的となっているとも指摘している。

 スターリンク衛星による通信をロシア軍も利用している、ISWはワシントンポスト紙で報じられたウクライナ軍指揮官の発言を紹介しており、これによりロシア軍は砲兵射撃の精度を向上させ、また指揮系統を通信hにより維持することに成功していると発言しています。トレツクでの前進にもこの通信環境が影響していると分析しています。

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