■防衛安保支える正義の定義
防衛力というものは如何に構築し様とも行使の時機と定義が必要となり、これを支えるのが正義という価値観です。
結局平和主義以外無いのではないか、防衛を論じた新年防衛論集ですが、ここには正義が要る。平和主義、日本が世界へ提示することが出来る国際公序のあり方です。日本が世界と向き合うには何かしらの正義を提唱できねば成りません、正義とは簡単な言葉ではありますが公序といい代えますと単純ではない哲学的概念であることが理解できるでしょう。
正義とは何か、安全保障において安易な一国主義として、戦争に参画しないという定義での平和が今日的には成立しにくい情勢がある、これは戦域の拡大という現実から示しました、好むと好まざるとに関わらず防衛協力や多国間協力という概念を深化させてゆかねばなりません。そのさいに正義は命題となる。勿論正義とは様々な概念に依拠していますが。
キリスト教哲学的な正義と倫理を共有する欧州地域、自由主義的原初状態の平等を配分的正義として考えるアメリカ。共産党の安定繁栄を全てとする中国。では日本にとっての正義とは何か、自民党の安定と繁栄だけは野党が法的に存在し連立を組む以上違うのですが、キリスト教的倫理観か原初状態平等か、正義を問われると共有する倫理観は薄くなります。
正義論的な視点から配分的正義、原初状態の平等を正義としているアメリカは明快です、単純とさえいえる、原初状態の平等を期するからこそ人権問題において圧制国家へ強い姿勢を維持し続けるのであり、正義とは機会均等であるべきだからこそ差別問題に取り組む、結果の平等ではなく機会の平等、と解しますと国際関係の展開における行動様式はわかる。
キリスト教的倫理観は弱者の保護と手段としての自然に対する開発、という原点があり帝国主義時代の植民地政策は教化発展への支援であり侵略ではなく弱者の保護が源流に、現在の環境保全への取り組みは総論として弱者の保護という延長線上にあります。それでは我が国ではどうか、と。途上国経済支援は行っていますが、キリスト教的ではありません。
日本の場合は陽明学や儒教的価値観が正義となりうるのではないか、という視点もあり得るかもしれませんが、日本における儒教は経世済民という統治機構的概念と上下関係という封建主義的な概念の背景であり、憲法に男女同権が明記されている現状とは合致しません。そもそも儒教そのものが定義で曖昧で哲学科でも儒教専攻はありません。曖昧なのだ。
儒教の五常五倫は共有こそされていますが、これが国家の行動を定める正義の定義だ、としますと地域安定化へ対外戦争を是認する一種地政学的な危険な要素も内包しているのですよね。これは一種戦前への回帰ともなりかねませんし、儒教的概念という言葉は知っていたとして五常五倫までの価値観を含めて共有しているとは言い難いように考えてしまう。
四季折々で美しい自然に包まれた国土、これは正義の定義にさえ成りません、四季折々を世界に広めることは出来ませんし、単なる自然科学の観測結果や美しいという定義の論争にしか成りませんから。国土の特性を示しているのみですね。ただ、繰り返すのですが正義の定義無しに防衛協力や安全保障を論じることは危険とさえいえる。使う時機が不明だ。
平和主義を基調とし、軍事力の行使に対する忌避的自制と軍事力による領域変更への拒絶、日本の場合は提示しうる正義というものは日本国憲法の、この概念以上のものは出せないのではないか、と。日本国憲法、ただし、現行憲法では厳密に理解するならば、脱領域性を持たない概念であるとともに、憲法の平和主義も、平和の定義を明確に示せていません。
平和主義、手段としての平和と目的としての平和が混同を意図的に放置している状況があります。手段としての平和の結果戦争が起きた場合、憲法の精神に合致した戦争状態を平和と云いかえる事は、できないものですからね。平和的生存権や苦役からの自由が仮に平和を手段とした結果、国民が次の敗戦により失う状況、合憲状態とは言い難いですしょう。
ただ、平和を安易に軍事力に直結させますと、二つの弊害が生まれます、古来多くの戦争は平和を旗頭としており平和維持が軍事力行使の要素となり、故に軍事力行使への忌避という哲学は必要です。グローバル時代、平和というものは同時に脱領域性をもって共有できる価値観と出来ねばならないのですね。だからこそ平和の定義も必要だといえるのです。
これは上記軍事力との関係とともに矛盾する概念を醸成しかねません。寛容と自由、ここで平和の概念を補強する点として寛容と自由というものを追記するべきでしょうか、思想信条の自由や経済活動の自由に信教の自由に男女同権まで、要するに様々な価値観への多様性と自由を平和主義の基盤として考える、というもの。この根元は摩擦の回避という。
正義とは何か、これを平和主義こそ正義であり、その平和主義の精神を単なる手段としての平和主義にとどめず目的としての平和を標榜すると共に手段としての平和も重視し、故に戦いを忌避しつつその原因に取り組むとともに軍事力による現状変更には明白に拒否の姿勢を含む、故に軍事力も肯定し得る。こうした正義の論理が一種相応しいよう思えます。
改憲論、実はこの正義という概念にこだわる背景には改憲論の現実化が挙げられます、新しい憲法では精義という哲学的な、しかし国家の方針を明確としなければならない故に不可避の論争について、本当に正面から取り組んでいるといえるのか。主権者は憲法制定権力として参加できているのか、インターネット意見募集の形式に甘んじていないか、と。
憲法制定権力という概念からは、立法府に全てを委託している状況であり、結局、憲法がほぼ改正しにくい改憲条項しか有さない、戸締り厳重といえる憲法明文とは逆に、憲法制定権力への参政権を立法府議員選挙への参画という部分に甘んじているようで、一種百年単位の国家方針を明確に示す改憲への姿勢としては、若干、その違和感を禁じ得ません。
憲法改正が連立与党を構成する公明党が示すような加憲、原文をそのまま維持するのであれば憲法の精神としての骨子は動かないのですが、連立与党を構成する主柱である自民党のような大幅な改正となりますと、同じ憲法としていいえるのかどうか、なにしろ硬制憲法故に明治憲法からの改正以来全くふれられなかった条文を代えることでの衝撃は大きい。
日本国憲法とともに日本の国家としての政策基準を定める哲学的な主柱をどのように考えるのは、これは憲法の番人たる最高裁の価値観へも直結しますし、法令ひとつひとつの整合性へも影響します。自衛隊法の繰り返す改正に対して最高裁は違憲判決を出していない以上、ここまで許容される状況を見ますと統治行為論として更に進めるのではないか、と。
統治行為論、要するに政治問題、として司法府の関与するところではない、という概念ですが、このまま自衛権の限界を延々と考えつつ自衛隊法の改正を重ねてゆけばよいとも考えるのですが、自衛権には限界がある可能性も認めないわけにはゆきません。法改正ではなく特措法で行う選択肢もありますが間に合わない可能性もあり、恒久法は必要でしょう。
防衛論、するとこの難しい問題は単純な軍事技術の進展や戦術研究とともに、非常に面倒ではあるのですが、軍事と安全保障を司る概念として、国家が軍事力を行使しなければならない状況を定義づける命題、正義とは何か、この部分にも踏み込む必要は、出ているのでしょう。我が国が世界に国際公序として提示し得る正義は上記の通り、と考えます、が。
日常系、といいますか軍事力の行使を忌避しつつ選択肢としては十分残すうえで摩擦を避ける寛容と自由を基調とした社会形成を行う、原初状態の平等とも儒教的ともキリスト教的ともいえる、折衷案的な正義への一視点ならば、日常系平和主義、といいましょうか、共有し得ると考えます。異論はあると思う、その議論が、防衛には必要と考えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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防衛力というものは如何に構築し様とも行使の時機と定義が必要となり、これを支えるのが正義という価値観です。
結局平和主義以外無いのではないか、防衛を論じた新年防衛論集ですが、ここには正義が要る。平和主義、日本が世界へ提示することが出来る国際公序のあり方です。日本が世界と向き合うには何かしらの正義を提唱できねば成りません、正義とは簡単な言葉ではありますが公序といい代えますと単純ではない哲学的概念であることが理解できるでしょう。
正義とは何か、安全保障において安易な一国主義として、戦争に参画しないという定義での平和が今日的には成立しにくい情勢がある、これは戦域の拡大という現実から示しました、好むと好まざるとに関わらず防衛協力や多国間協力という概念を深化させてゆかねばなりません。そのさいに正義は命題となる。勿論正義とは様々な概念に依拠していますが。
キリスト教哲学的な正義と倫理を共有する欧州地域、自由主義的原初状態の平等を配分的正義として考えるアメリカ。共産党の安定繁栄を全てとする中国。では日本にとっての正義とは何か、自民党の安定と繁栄だけは野党が法的に存在し連立を組む以上違うのですが、キリスト教的倫理観か原初状態平等か、正義を問われると共有する倫理観は薄くなります。
正義論的な視点から配分的正義、原初状態の平等を正義としているアメリカは明快です、単純とさえいえる、原初状態の平等を期するからこそ人権問題において圧制国家へ強い姿勢を維持し続けるのであり、正義とは機会均等であるべきだからこそ差別問題に取り組む、結果の平等ではなく機会の平等、と解しますと国際関係の展開における行動様式はわかる。
キリスト教的倫理観は弱者の保護と手段としての自然に対する開発、という原点があり帝国主義時代の植民地政策は教化発展への支援であり侵略ではなく弱者の保護が源流に、現在の環境保全への取り組みは総論として弱者の保護という延長線上にあります。それでは我が国ではどうか、と。途上国経済支援は行っていますが、キリスト教的ではありません。
日本の場合は陽明学や儒教的価値観が正義となりうるのではないか、という視点もあり得るかもしれませんが、日本における儒教は経世済民という統治機構的概念と上下関係という封建主義的な概念の背景であり、憲法に男女同権が明記されている現状とは合致しません。そもそも儒教そのものが定義で曖昧で哲学科でも儒教専攻はありません。曖昧なのだ。
儒教の五常五倫は共有こそされていますが、これが国家の行動を定める正義の定義だ、としますと地域安定化へ対外戦争を是認する一種地政学的な危険な要素も内包しているのですよね。これは一種戦前への回帰ともなりかねませんし、儒教的概念という言葉は知っていたとして五常五倫までの価値観を含めて共有しているとは言い難いように考えてしまう。
四季折々で美しい自然に包まれた国土、これは正義の定義にさえ成りません、四季折々を世界に広めることは出来ませんし、単なる自然科学の観測結果や美しいという定義の論争にしか成りませんから。国土の特性を示しているのみですね。ただ、繰り返すのですが正義の定義無しに防衛協力や安全保障を論じることは危険とさえいえる。使う時機が不明だ。
平和主義を基調とし、軍事力の行使に対する忌避的自制と軍事力による領域変更への拒絶、日本の場合は提示しうる正義というものは日本国憲法の、この概念以上のものは出せないのではないか、と。日本国憲法、ただし、現行憲法では厳密に理解するならば、脱領域性を持たない概念であるとともに、憲法の平和主義も、平和の定義を明確に示せていません。
平和主義、手段としての平和と目的としての平和が混同を意図的に放置している状況があります。手段としての平和の結果戦争が起きた場合、憲法の精神に合致した戦争状態を平和と云いかえる事は、できないものですからね。平和的生存権や苦役からの自由が仮に平和を手段とした結果、国民が次の敗戦により失う状況、合憲状態とは言い難いですしょう。
ただ、平和を安易に軍事力に直結させますと、二つの弊害が生まれます、古来多くの戦争は平和を旗頭としており平和維持が軍事力行使の要素となり、故に軍事力行使への忌避という哲学は必要です。グローバル時代、平和というものは同時に脱領域性をもって共有できる価値観と出来ねばならないのですね。だからこそ平和の定義も必要だといえるのです。
これは上記軍事力との関係とともに矛盾する概念を醸成しかねません。寛容と自由、ここで平和の概念を補強する点として寛容と自由というものを追記するべきでしょうか、思想信条の自由や経済活動の自由に信教の自由に男女同権まで、要するに様々な価値観への多様性と自由を平和主義の基盤として考える、というもの。この根元は摩擦の回避という。
正義とは何か、これを平和主義こそ正義であり、その平和主義の精神を単なる手段としての平和主義にとどめず目的としての平和を標榜すると共に手段としての平和も重視し、故に戦いを忌避しつつその原因に取り組むとともに軍事力による現状変更には明白に拒否の姿勢を含む、故に軍事力も肯定し得る。こうした正義の論理が一種相応しいよう思えます。
改憲論、実はこの正義という概念にこだわる背景には改憲論の現実化が挙げられます、新しい憲法では精義という哲学的な、しかし国家の方針を明確としなければならない故に不可避の論争について、本当に正面から取り組んでいるといえるのか。主権者は憲法制定権力として参加できているのか、インターネット意見募集の形式に甘んじていないか、と。
憲法制定権力という概念からは、立法府に全てを委託している状況であり、結局、憲法がほぼ改正しにくい改憲条項しか有さない、戸締り厳重といえる憲法明文とは逆に、憲法制定権力への参政権を立法府議員選挙への参画という部分に甘んじているようで、一種百年単位の国家方針を明確に示す改憲への姿勢としては、若干、その違和感を禁じ得ません。
憲法改正が連立与党を構成する公明党が示すような加憲、原文をそのまま維持するのであれば憲法の精神としての骨子は動かないのですが、連立与党を構成する主柱である自民党のような大幅な改正となりますと、同じ憲法としていいえるのかどうか、なにしろ硬制憲法故に明治憲法からの改正以来全くふれられなかった条文を代えることでの衝撃は大きい。
日本国憲法とともに日本の国家としての政策基準を定める哲学的な主柱をどのように考えるのは、これは憲法の番人たる最高裁の価値観へも直結しますし、法令ひとつひとつの整合性へも影響します。自衛隊法の繰り返す改正に対して最高裁は違憲判決を出していない以上、ここまで許容される状況を見ますと統治行為論として更に進めるのではないか、と。
統治行為論、要するに政治問題、として司法府の関与するところではない、という概念ですが、このまま自衛権の限界を延々と考えつつ自衛隊法の改正を重ねてゆけばよいとも考えるのですが、自衛権には限界がある可能性も認めないわけにはゆきません。法改正ではなく特措法で行う選択肢もありますが間に合わない可能性もあり、恒久法は必要でしょう。
防衛論、するとこの難しい問題は単純な軍事技術の進展や戦術研究とともに、非常に面倒ではあるのですが、軍事と安全保障を司る概念として、国家が軍事力を行使しなければならない状況を定義づける命題、正義とは何か、この部分にも踏み込む必要は、出ているのでしょう。我が国が世界に国際公序として提示し得る正義は上記の通り、と考えます、が。
日常系、といいますか軍事力の行使を忌避しつつ選択肢としては十分残すうえで摩擦を避ける寛容と自由を基調とした社会形成を行う、原初状態の平等とも儒教的ともキリスト教的ともいえる、折衷案的な正義への一視点ならば、日常系平和主義、といいましょうか、共有し得ると考えます。異論はあると思う、その議論が、防衛には必要と考えるのです。
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