北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】高雄山神護寺,映画"空海"の舞台は橘逸勢と空海の所縁に二次創作の分水嶺を考える

2024-12-12 20:15:29 | 写真
■橘逸勢と空海
 文章を書くという事は実に何かを吐きだしているようで愉快であると発言したのは明治の文豪夏目漱石でしたか。

 私事ながらPIXIVに小説を投稿し始めていまして、これはとある友人、この方にもらったものは飾り棚に大切に並べていますが、とある同人小説の二次創作で、自分の推しているキャラクターが大変な被害に見舞われたので助けてやってほしい、と頼まれて。

 PIXIVはイラストをみるためにアカウントだけは持っていたのですが、なるほど、右上をタップすると小説が投稿できるという。第二北大路機関の執筆時間を転用して、書いているのですが、二次創作、これにはある程度超えてはならないものがあるとおもう。

 神護寺の歴史は出会いの歴史であることは既述の通りです。それは絵巻物にも描かれ、いや空海と神護寺は映画“空海”にも描かれている。空海は北大路欣也さんが演じられていましたが、あの映画でひと際印象深かったのは頼りない役人の橘逸勢という。

 空海、いい映画だ、人に薦めたい邦画をニ十本選ぶならば、まあ、日本のいちばん長い日、激動の昭和史-沖縄決戦、潜水艦イ57降伏せず、連合艦隊、太平洋の嵐、新平家物語、風雲児-織田信長、宮本武蔵-般若坂の決斗、と並べて映画空海はお勧めしたい。

 橘逸勢は映画空海の登場人物で、石橋蓮司さんが演じられていた、劇中では、このまま日本に居ても出世できない事から遣唐使に加わることを願い出て、しかし下級役人という事で後ろの方の船団、空海と乗り合わせるも難破し、それでもなんとか空海と入唐を。

 外国語というのは奥が深い、中には苦手という人も多い、どちらかというとわたしもそちら側なのですが、石橋蓮司さん演じた橘逸勢もこちらがわの人でして、中国語ができないのに白をつけるべく遣唐使に加わったが、唐の学校で語学の壁を思い知らされる。

 唐は、歴史を見ますと政治学も宗教学も土木工学も天文学も、日本が当時必要としていた学問全ては全部中国語が必要であるため、どうにか彼を素晴らしい学問とめぐり合わせる方法を苦労して配慮、これこそ苦慮か、したのちに、琴と書道を学ばせる。

 音楽と書道ならば、たしかに語学は政治学と土木工学よりは障壁が低い。けれども、当時の遣唐使は修学20年のところを、空海が2年で恵果和尚から灌頂を授かったことを受け帰国するさいに、一緒に日本へ戻ってきてしまうのだ、なんだか親近感がわくはなし。

 空海も20年の修学を2年で大学生が国一に通った為に中退する感じで帰国してしまい、これは摩擦を生むのですが、その過程で同じく橘逸勢も同じ立場であることから知己を深め、映画の中では結局、空海の入寂、その瞬間まで付き添う、僧侶以外の友人となる。

 橘逸勢、しかししかし、映画を見た後で調べてみますと、日本音楽の元祖というべき第一人者となっていますし、書道においても嵯峨天皇と空海とならぶ三偉人となっていたのに驚き、なるほどあれが映画の脚色というものか、と監督の配慮を感じ入りました。

 佐藤純彌監督作品である空海、なるほど、ゴルゴ13や新幹線大爆破、野生の証明に敦煌、超大作を幾つも後世にのこし2019年に旅立たれた監督さんだ。この方、映画ですので史実に脚色をするのですが、超えてはいけない一線は明確にしているとおもった。

 PIXIVの二次創作、いや二次創作で被害に遭った艦娘たちを軌道修正して大団円に持ち込むだけの三次創作は、超えてはいけない一線を軌道修正する初の試みなのですが、歴史というものを知ることが二次創作の逸脱への良心となるのかな、とこの神護寺で思ったのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】高雄山神護寺,金堂に薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像

2024-12-12 07:01:20 | 写真
■中世の三権分立
 歴史学者ではないのだけれども自分の巡った場所を手に入る範囲内の資料と共に仮説を立てて巡るのはよい心の体操となる。

 神護寺を巨大な伽藍と荘厳美麗な仏教美術を期待して山門をたずねると肩透かしを食うかもしれません、けれども、実のところ例えば伽藍を誇り伽藍面といわれた東福寺や、京都駅前に燦然と威容を誇る東本願寺と西本願寺には政治的なものがありました。

 金堂にいたる石階段を慎重に、実はそのとなりに傾斜の緩やかな経路も整備されているのですけれども、やはりここは石階段を踏みしめながら万感の思いと共に金堂が少し少しと見えてゆく様子を、拝観の道程として感じ入るのがいいかもしれない、ゆっくりと。

 毘沙門堂と五大堂が、金堂の石階段を上り終えますと見えてきまして。そう、ここは壮大伽藍こそないものの、それ以上に大きな哲学があるのだ、という感慨と共に眺めますとちがったものが思えて、いや湧きあがってくるのかもしれません、歴史的な、なにか。

 三権分立、というと今のものとは少し異なりますが、近世の江戸時代などには朝廷権力と幕府権力、いちおう制度的には朝廷が優越しているものの実力のついては、これは中世の建武の新政をみれば分かる通り、実務政治では朝廷に統治機構はむずかしかった。

 伽藍が威容を誇る京都の寺院は、幕府の統治機構において朝廷との関係を対立に至らせずしかし抑制的なものを求めるために寺院の権威、権力ではない、権威に依存したためであり且つ寺院には統治機構への参画を極めて制限することで一種の同調と緊張を。

 三権分立のような機能を持たせるには権威が必要であり、寄進と寺領をみとめることにより、それはかつての一向一揆のような実力という安易な権威を意識したものではなく、ああいうならば現代政治学でいうところの、正当性と正統性、をもたせたかたち。

 神護寺は、見方を変えるならばそうした俗世間から距離を置いた、空海の寺院として成り立っていたわけですね。いや、だからこそ静けさ、静謐さ、単純なきゅ横紋に自らの判断を投げ出すことの無い、聖典なき伝法という仏教の神髄を身近に感じられるようで。

 本尊薬師如来立像が安置されていますのは金堂の奥、この金堂は実は昭和10年、1935年に再建されたものです。今考えると世界恐慌とともに混乱の日本社会、いや1935年といえば既に大陸で始まっている時代に、こうしたものを造営できたのは、と思ったり。

 薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像、国宝と重文が拝観者を迎えてくれます。深紅の紅葉とともに見上げる金堂は大きくとばりが開かれていて、もちろん間接的にではないけれども信仰の寄る辺が確かに感じられて。

 五大堂は元和9年こと西暦1623年に建立、毘沙門堂も元和9年こと西暦1623年に造営されている。実は弘法大師空海は、この神護寺において最澄との遣唐使以来の再会、というよりも最澄は勅命を受けての遣唐使ですので、随分と格上なのですけれども。

 最澄との再会を神護寺において果たすとともに天台宗と真言宗は別々の宗派であることを灌頂というひとつの点を巡り理解するところとなり延暦寺へと戻ります。しかしそのあと、空海もまた高野山へと新しい聖地を定め神護寺を去ったことで歴史が動きました。

 文覚、このひとは武家出身の僧なのですが、空海が去ったことで歴史舞台の正面を降りることとなった神護寺を、平安朝末期から鎌倉時代まで、後白河法皇への直訴を繰り返し、神護寺の再興を果たします。こうした歴史の流れや浪を経て、寺院は今に至る。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする