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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,金堂に薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像

2024-12-12 07:01:20 | 写真
■中世の三権分立
 歴史学者ではないのだけれども自分の巡った場所を手に入る範囲内の資料と共に仮説を立てて巡るのはよい心の体操となる。

 神護寺を巨大な伽藍と荘厳美麗な仏教美術を期待して山門をたずねると肩透かしを食うかもしれません、けれども、実のところ例えば伽藍を誇り伽藍面といわれた東福寺や、京都駅前に燦然と威容を誇る東本願寺と西本願寺には政治的なものがありました。

 金堂にいたる石階段を慎重に、実はそのとなりに傾斜の緩やかな経路も整備されているのですけれども、やはりここは石階段を踏みしめながら万感の思いと共に金堂が少し少しと見えてゆく様子を、拝観の道程として感じ入るのがいいかもしれない、ゆっくりと。

 毘沙門堂と五大堂が、金堂の石階段を上り終えますと見えてきまして。そう、ここは壮大伽藍こそないものの、それ以上に大きな哲学があるのだ、という感慨と共に眺めますとちがったものが思えて、いや湧きあがってくるのかもしれません、歴史的な、なにか。

 三権分立、というと今のものとは少し異なりますが、近世の江戸時代などには朝廷権力と幕府権力、いちおう制度的には朝廷が優越しているものの実力のついては、これは中世の建武の新政をみれば分かる通り、実務政治では朝廷に統治機構はむずかしかった。

 伽藍が威容を誇る京都の寺院は、幕府の統治機構において朝廷との関係を対立に至らせずしかし抑制的なものを求めるために寺院の権威、権力ではない、権威に依存したためであり且つ寺院には統治機構への参画を極めて制限することで一種の同調と緊張を。

 三権分立のような機能を持たせるには権威が必要であり、寄進と寺領をみとめることにより、それはかつての一向一揆のような実力という安易な権威を意識したものではなく、ああいうならば現代政治学でいうところの、正当性と正統性、をもたせたかたち。

 神護寺は、見方を変えるならばそうした俗世間から距離を置いた、空海の寺院として成り立っていたわけですね。いや、だからこそ静けさ、静謐さ、単純なきゅ横紋に自らの判断を投げ出すことの無い、聖典なき伝法という仏教の神髄を身近に感じられるようで。

 本尊薬師如来立像が安置されていますのは金堂の奥、この金堂は実は昭和10年、1935年に再建されたものです。今考えると世界恐慌とともに混乱の日本社会、いや1935年といえば既に大陸で始まっている時代に、こうしたものを造営できたのは、と思ったり。

 薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像、国宝と重文が拝観者を迎えてくれます。深紅の紅葉とともに見上げる金堂は大きくとばりが開かれていて、もちろん間接的にではないけれども信仰の寄る辺が確かに感じられて。

 五大堂は元和9年こと西暦1623年に建立、毘沙門堂も元和9年こと西暦1623年に造営されている。実は弘法大師空海は、この神護寺において最澄との遣唐使以来の再会、というよりも最澄は勅命を受けての遣唐使ですので、随分と格上なのですけれども。

 最澄との再会を神護寺において果たすとともに天台宗と真言宗は別々の宗派であることを灌頂というひとつの点を巡り理解するところとなり延暦寺へと戻ります。しかしそのあと、空海もまた高野山へと新しい聖地を定め神護寺を去ったことで歴史が動きました。

 文覚、このひとは武家出身の僧なのですが、空海が去ったことで歴史舞台の正面を降りることとなった神護寺を、平安朝末期から鎌倉時代まで、後白河法皇への直訴を繰り返し、神護寺の再興を果たします。こうした歴史の流れや浪を経て、寺院は今に至る。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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