■妙心寺のにぎやかなお盆
曇天の湿気にも負けず提灯が点々と並びいつもは静けさに包まれる寺院が賑やかである様子はお盆故という。
妙心寺。五山十刹という禅寺の格付けには入らない独自の信仰を湛えている寺院です。そして何度拝観しても、ここは一つの町のようで、寺院の石畳という一種神聖な風情の最中を物流トラックが行き交う様子は、ちょっと京都らしいなぞの風景といえるもの。
お盆の風景ということで、檀家さんが集う様子は、祭事のような、活気というのでしょうか、普段の静かな風景とは打って変わって集う熱気とともに、このお盆が大事にされている、そんな気概を感じるところですが、この広さには歴史というものがついています。
花園上皇が院政を行う花園御所として当地に造営された離宮萩原殿、花園上皇が落飾し法皇宣下を行うにあたって、この離宮萩原殿を寺院としましたのが妙心寺の始まりで、このために西の御所、ともいわれているのですが文字通り当地には御所があったという。
大燈国師宗峰妙超、花園上皇は禅の師として宗峰妙超に師事していました。宗峰妙超は幾度も紹介しました通り大徳寺の開祖なのですが、そしてお気づきの通り大徳寺を開いた年と妙心寺を開いた年は随分と離れていまして、宗峰妙超も余命は長くありません。
建武4年こと西暦1337年、まさに時代は南北朝の日本分裂という時代を迎えつつある時代なのですが、宗峰妙超は旅立たれることとなりまして、今際の際に花園法皇へ自分の後継として関山慧玄という高弟を示したといいます、ただ、この日とは京都にはいません。
美濃国伊深、今の岐阜県美濃加茂市伊深町という、岐阜基地のある平野部からはかなり奥まったところ、正眼寺という寺院に修業を重ねていたといいまして、もっとも、関山慧玄は京都よりも美濃の山奥での修行を優先していたという。もっともそこに届いたのは。
宗峰妙超の遺命、禅師の遺命が届くとともに花園法皇の院宣も届くところとなりまして、実に七年の時を経た暦応5年、この年に康永元年の改元がありました西暦1342年のことですが、妙心寺は創建を迎えることとなりました。それは質素な、質実剛健な寺という。
五山十刹。これは京都五山という、禅寺の格付けを示す位階ではあるのですが、位階といいますともうそれだけで素晴らしいもの、と格付けの主体を考えずにありがたがってしまうものです、これは金賞受賞、と書いてある食品や酒類に靡くのと同じともいえる。
叢林ともいうこの五山十刹は、禅寺を新しい武士の仏教と理解して幕府が保護をした、つまり室町幕府が格付けを行った寺院という。そして京都五山ともいう禅寺の格付けにあって、実はここ妙心寺は寺院の成り立ちと歴史を背景としましてふくまれていません。
林下寺院、室町幕府の庇護を受けない禅寺を林下といいまして、幕府の庇護を受ける叢林とは明確に分けられています。妙心寺は大徳寺と並ぶその代表的な寺院で。もちろん幕府の庇護があった場合の方が財政的には安定する、ただ、寺院の目的は財政なのか、と。
大徳寺と妙心寺とは、こうした林下寺院という共通点をもつとともに、そしてもう一つ、多くの修行僧が厳しい修行を重ねている、伝統的に修業を通じての禅風を醸成するという気風を湛えてきました。すると、確かに、京都五山と比べれば観光客は確かに少ない。
禅寺として、観光客は少ないのだけれども、じつは宿坊がいくつかありまして、要するに物見遊山は避けるのだけれども、信徒や信仰への関心は気前よく引き受けるというおおらかさもあり、長いものに巻かれる権威付けを、超えたような爽快感が、あるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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曇天の湿気にも負けず提灯が点々と並びいつもは静けさに包まれる寺院が賑やかである様子はお盆故という。
妙心寺。五山十刹という禅寺の格付けには入らない独自の信仰を湛えている寺院です。そして何度拝観しても、ここは一つの町のようで、寺院の石畳という一種神聖な風情の最中を物流トラックが行き交う様子は、ちょっと京都らしいなぞの風景といえるもの。
お盆の風景ということで、檀家さんが集う様子は、祭事のような、活気というのでしょうか、普段の静かな風景とは打って変わって集う熱気とともに、このお盆が大事にされている、そんな気概を感じるところですが、この広さには歴史というものがついています。
花園上皇が院政を行う花園御所として当地に造営された離宮萩原殿、花園上皇が落飾し法皇宣下を行うにあたって、この離宮萩原殿を寺院としましたのが妙心寺の始まりで、このために西の御所、ともいわれているのですが文字通り当地には御所があったという。
大燈国師宗峰妙超、花園上皇は禅の師として宗峰妙超に師事していました。宗峰妙超は幾度も紹介しました通り大徳寺の開祖なのですが、そしてお気づきの通り大徳寺を開いた年と妙心寺を開いた年は随分と離れていまして、宗峰妙超も余命は長くありません。
建武4年こと西暦1337年、まさに時代は南北朝の日本分裂という時代を迎えつつある時代なのですが、宗峰妙超は旅立たれることとなりまして、今際の際に花園法皇へ自分の後継として関山慧玄という高弟を示したといいます、ただ、この日とは京都にはいません。
美濃国伊深、今の岐阜県美濃加茂市伊深町という、岐阜基地のある平野部からはかなり奥まったところ、正眼寺という寺院に修業を重ねていたといいまして、もっとも、関山慧玄は京都よりも美濃の山奥での修行を優先していたという。もっともそこに届いたのは。
宗峰妙超の遺命、禅師の遺命が届くとともに花園法皇の院宣も届くところとなりまして、実に七年の時を経た暦応5年、この年に康永元年の改元がありました西暦1342年のことですが、妙心寺は創建を迎えることとなりました。それは質素な、質実剛健な寺という。
五山十刹。これは京都五山という、禅寺の格付けを示す位階ではあるのですが、位階といいますともうそれだけで素晴らしいもの、と格付けの主体を考えずにありがたがってしまうものです、これは金賞受賞、と書いてある食品や酒類に靡くのと同じともいえる。
叢林ともいうこの五山十刹は、禅寺を新しい武士の仏教と理解して幕府が保護をした、つまり室町幕府が格付けを行った寺院という。そして京都五山ともいう禅寺の格付けにあって、実はここ妙心寺は寺院の成り立ちと歴史を背景としましてふくまれていません。
林下寺院、室町幕府の庇護を受けない禅寺を林下といいまして、幕府の庇護を受ける叢林とは明確に分けられています。妙心寺は大徳寺と並ぶその代表的な寺院で。もちろん幕府の庇護があった場合の方が財政的には安定する、ただ、寺院の目的は財政なのか、と。
大徳寺と妙心寺とは、こうした林下寺院という共通点をもつとともに、そしてもう一つ、多くの修行僧が厳しい修行を重ねている、伝統的に修業を通じての禅風を醸成するという気風を湛えてきました。すると、確かに、京都五山と比べれば観光客は確かに少ない。
禅寺として、観光客は少ないのだけれども、じつは宿坊がいくつかありまして、要するに物見遊山は避けるのだけれども、信徒や信仰への関心は気前よく引き受けるというおおらかさもあり、長いものに巻かれる権威付けを、超えたような爽快感が、あるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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