■妙心寺さんの算盤面
クルト式計算機がたまに欲しくなる当方なのですがここ妙心寺は算盤面といわれているのです。
法堂、明暦3年こと西暦1657年に再建されたものですが、狩野探幽筆の雲龍図が描かれていまして、堂宇の外から、このお盆の時期だけは拝むことができる。雲龍図はその完成まで8年を要したというもので、お香のけむりとともに霞見える雲龍を先ず拝む。
妙心寺、この寺院は算盤面と呼ばれているという。東福寺の伽藍面や大徳寺の茶顔面、東福寺は堂宇がどれも大きく、いや今は焼失したものが多く現存するものはそう大きくもないのですが、当時は偉そうといわれた。大徳寺はお茶の作法がうるさすぎたゆえ。
算盤面、これはどういうことかといいますと、わたしが言ったのではなく室町時代の人の話、いちおうご先祖様も一人くらいは言っていたのかもしれないのだけれども、室町時代の町衆の方々に言われていた、今の伝わるほどですので相当言われていたのでしょう。
塔頭は山内塔頭だけで40に及ぶ寺院、お盆の季節には法堂に提灯が並ぶ様子が季節感を感じさせるのですが、これだけの巨大寺院を明治の廃仏毀釈という時代さえ超えて連綿を受け継いでいるには、財政基盤を確たるものとし、無駄を省き修行にあたったゆえ、か。
五山十刹から距離を置く林下寺院、実はこの算盤面という表現の背景には、妙心寺が始まりの頃から堅実な財政を目指して算盤を弾いていたためという。会計重視というわりには寺域は庭園以外自由に拝観できるところですが、そういう表面のはなしではない。
林下寺院として室町幕府の庇護を受けないからこそ、しっかりとした会計が必要であると、これは室町中期の仏日真照禅師雪江宗深により唱えられたものでして、この日とはもともと尾張国は蒼龍山瑞泉寺で出家した僧侶でした、あの犬山城を一望する高台の。
龍安寺開祖の義天玄詔に師事しました雪江宗深、石庭で有名な龍安寺もここ妙心寺の塔頭寺院の一つで当時の寺域の広さを垣間見るようですが、幾つかの地方の住持を経まして大徳寺の住持となったころに、そうです時代が時代です、応仁の乱がおきました。
応仁の乱では、やはりといいますか妙心寺は全焼します。いや、実はその前の足利義満の時代に妙心寺は林下寺院であり、反幕府勢力が頼るという経緯もありましたので、一時断絶しているのですが、その混乱も収まらぬ最中に応仁の乱で焼かれたこととなります。
正法山妙心禅寺米銭納下帳、雪江宗深は後土御門天皇の勅命により妙心寺を再興することとなります。そうとうな実力者であったようで、大徳寺と龍安寺の再建も命じられますが、その際に始めたのが出納記録である正法山妙心禅寺米銭納下帳、正確な財政記録だ。
雪江宗深が始めた正法山妙心禅寺米銭納下帳は、実に江戸時代末期まで記録が続き、出納記録方法が定型化した明治時代に引き継がれました。これは寺院の経済記録としてはわが国でも最も正確で且つ長い記録というものでして、ここに考えさせられることが、と。
算盤面とは揶揄されるものの、信仰という、一見俗世を離れたもののようであっても体系化し継続的に、且つ一定規模を維持するには相応の安定基盤が必要である、これは冷淡な目で見られることがあっても無視しては成り立たない、という耳の痛いようなかんがえ。
妙心寺には幾つか庭園を拝観できるところもあります、しかし庭園以上にこの伽藍が並ぶ様子を、紅葉や観桜のような観光に頼らず受け継いでいる背景には、算盤面とは揶揄されるものの確たる安定基盤の維持へ努力があり、成程なあ、と深く考えさせられるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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クルト式計算機がたまに欲しくなる当方なのですがここ妙心寺は算盤面といわれているのです。
法堂、明暦3年こと西暦1657年に再建されたものですが、狩野探幽筆の雲龍図が描かれていまして、堂宇の外から、このお盆の時期だけは拝むことができる。雲龍図はその完成まで8年を要したというもので、お香のけむりとともに霞見える雲龍を先ず拝む。
妙心寺、この寺院は算盤面と呼ばれているという。東福寺の伽藍面や大徳寺の茶顔面、東福寺は堂宇がどれも大きく、いや今は焼失したものが多く現存するものはそう大きくもないのですが、当時は偉そうといわれた。大徳寺はお茶の作法がうるさすぎたゆえ。
算盤面、これはどういうことかといいますと、わたしが言ったのではなく室町時代の人の話、いちおうご先祖様も一人くらいは言っていたのかもしれないのだけれども、室町時代の町衆の方々に言われていた、今の伝わるほどですので相当言われていたのでしょう。
塔頭は山内塔頭だけで40に及ぶ寺院、お盆の季節には法堂に提灯が並ぶ様子が季節感を感じさせるのですが、これだけの巨大寺院を明治の廃仏毀釈という時代さえ超えて連綿を受け継いでいるには、財政基盤を確たるものとし、無駄を省き修行にあたったゆえ、か。
五山十刹から距離を置く林下寺院、実はこの算盤面という表現の背景には、妙心寺が始まりの頃から堅実な財政を目指して算盤を弾いていたためという。会計重視というわりには寺域は庭園以外自由に拝観できるところですが、そういう表面のはなしではない。
林下寺院として室町幕府の庇護を受けないからこそ、しっかりとした会計が必要であると、これは室町中期の仏日真照禅師雪江宗深により唱えられたものでして、この日とはもともと尾張国は蒼龍山瑞泉寺で出家した僧侶でした、あの犬山城を一望する高台の。
龍安寺開祖の義天玄詔に師事しました雪江宗深、石庭で有名な龍安寺もここ妙心寺の塔頭寺院の一つで当時の寺域の広さを垣間見るようですが、幾つかの地方の住持を経まして大徳寺の住持となったころに、そうです時代が時代です、応仁の乱がおきました。
応仁の乱では、やはりといいますか妙心寺は全焼します。いや、実はその前の足利義満の時代に妙心寺は林下寺院であり、反幕府勢力が頼るという経緯もありましたので、一時断絶しているのですが、その混乱も収まらぬ最中に応仁の乱で焼かれたこととなります。
正法山妙心禅寺米銭納下帳、雪江宗深は後土御門天皇の勅命により妙心寺を再興することとなります。そうとうな実力者であったようで、大徳寺と龍安寺の再建も命じられますが、その際に始めたのが出納記録である正法山妙心禅寺米銭納下帳、正確な財政記録だ。
雪江宗深が始めた正法山妙心禅寺米銭納下帳は、実に江戸時代末期まで記録が続き、出納記録方法が定型化した明治時代に引き継がれました。これは寺院の経済記録としてはわが国でも最も正確で且つ長い記録というものでして、ここに考えさせられることが、と。
算盤面とは揶揄されるものの、信仰という、一見俗世を離れたもののようであっても体系化し継続的に、且つ一定規模を維持するには相応の安定基盤が必要である、これは冷淡な目で見られることがあっても無視しては成り立たない、という耳の痛いようなかんがえ。
妙心寺には幾つか庭園を拝観できるところもあります、しかし庭園以上にこの伽藍が並ぶ様子を、紅葉や観桜のような観光に頼らず受け継いでいる背景には、算盤面とは揶揄されるものの確たる安定基盤の維持へ努力があり、成程なあ、と深く考えさせられるのです。
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