■最澄と空海
寺院を拝観すると共に歴史をその都度すこしだけでも振り返り且つ調べる事は人生を豊かにしてくれます。
空海と神護寺、和気清麻呂まで歴史を遡りますと、宇佐八幡宮神託事件を解決した後、じつはいろいろありまして和気清麻呂は配流されてしまうのですが、道鏡を重用していた称徳天皇が崩御しますと、和気清麻呂は流罪を解かれまして都へと戻ります。
長岡京、この宇佐八幡宮神託事件は、和気清麻呂を祀る護王神社がいまの御所の隣にありますので、平安京遷都以後とおもわれるかもしれませんけれども、長岡京時代の出来事です。帰京叶った和気清麻呂は自分の氏寺造営を願い出、天皇の許しを得ました。
長岡京か、こう歴史をいまの神護寺と結びつけますと、清滝川の谷間に和気清麻呂が寺院を造営したのは、水害に悩まされていた長岡京、実際平安遷都は毎年のように大堰川の水害に悩まされ、官庁が流失していたほどの深刻な水害がつづいていたのですが。
清滝川に寺院を造営した和気清麻呂は、ここは僻地でも何でもない、要するに自らの氏寺をもって長岡京を水害から何とか守ることはできないか、とかんがえての造営だったのだなあ、といまの位置関係を当時の古地図に照らし合わせて、こう思うのですね。
高雄山寺、和気清麻呂の時代は神話の時代、とまでは行かずとも歴史学と考古学の分水嶺に位置するような時代のことですので、残念ながら創建1200年という神護寺の今の姿から往時をしのぶことはもはや空想の世界であり、実際当時は高雄山寺といわれていた。
高雄山寺、愛宕権現を愛宕山に遷座するなど、いわばこの一つの山系が大きな聖地であることを示しているとともに、しかし愛宕神社と高雄山寺も、かつては一つだったという説もあれば、これは一説に過ぎないという研究があるなど、まだ空白がおおい。
空海は、高雄山寺と神護寺に至る歴史に大きな、確たる歴史の大河を記した転換点の人物です。そしてこの日本に、変革という伝統、こうしたものを穿った人物と言えるのかもしれません。いや、空海の時代は科学と信仰の曖昧模糊な時代所以の意味があった。
空海が遣唐使を経て帰国したのは歴史上記されている出来事ですが、密教を大陸から持ち帰ったということで歴史上大きな意義があります、それは単に宗教上の出来事ではなく、陳腐化したものは中枢の象徴的なもの以外置き換えるという伝統を生んだこと。
最澄と空海、天台宗と真言宗、日本の大きな歴史の分岐点は宗教に寛容性を示したことで、所謂一神教が陥りがちな二元論、二元論は考え方が明白に示せる羨ましさと共に、衝突を生みやすい敵味方の明白な区分という本質を有していますが、これを省いた。
弘法大師空海、遠く土佐の室戸は御厨人窟に籠って空と海だけを見つめ修行した事で空海を名乗り、まあこれ、大安寺の戒明が求聞持法という自問自答の瞑想修行を伝えた故といわれているのですが和泉国槇尾山寺で出家し、東大寺戒壇院で得度受戒する。
入唐求法、空海は20年の長期留学生として遣唐使に加わり、途中で難破して入国手続きの書類を白紙に一から記すなどの椿事を経て中国は長安の西明寺に寄宿しますと、蒼龍寺の恵果和尚と出会いを果たします。
仏教、日本の価値観や哲学観を固める、非常に重要な時代に影響を及ぼした仏教は当時南都六宗と新しい天台宗の時代を迎えていましたが、仏教とは一つの哲学であり、哲学とは完成の概念が無い進化するもの、恵果和尚との出会いは、その転機となりました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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寺院を拝観すると共に歴史をその都度すこしだけでも振り返り且つ調べる事は人生を豊かにしてくれます。
空海と神護寺、和気清麻呂まで歴史を遡りますと、宇佐八幡宮神託事件を解決した後、じつはいろいろありまして和気清麻呂は配流されてしまうのですが、道鏡を重用していた称徳天皇が崩御しますと、和気清麻呂は流罪を解かれまして都へと戻ります。
長岡京、この宇佐八幡宮神託事件は、和気清麻呂を祀る護王神社がいまの御所の隣にありますので、平安京遷都以後とおもわれるかもしれませんけれども、長岡京時代の出来事です。帰京叶った和気清麻呂は自分の氏寺造営を願い出、天皇の許しを得ました。
長岡京か、こう歴史をいまの神護寺と結びつけますと、清滝川の谷間に和気清麻呂が寺院を造営したのは、水害に悩まされていた長岡京、実際平安遷都は毎年のように大堰川の水害に悩まされ、官庁が流失していたほどの深刻な水害がつづいていたのですが。
清滝川に寺院を造営した和気清麻呂は、ここは僻地でも何でもない、要するに自らの氏寺をもって長岡京を水害から何とか守ることはできないか、とかんがえての造営だったのだなあ、といまの位置関係を当時の古地図に照らし合わせて、こう思うのですね。
高雄山寺、和気清麻呂の時代は神話の時代、とまでは行かずとも歴史学と考古学の分水嶺に位置するような時代のことですので、残念ながら創建1200年という神護寺の今の姿から往時をしのぶことはもはや空想の世界であり、実際当時は高雄山寺といわれていた。
高雄山寺、愛宕権現を愛宕山に遷座するなど、いわばこの一つの山系が大きな聖地であることを示しているとともに、しかし愛宕神社と高雄山寺も、かつては一つだったという説もあれば、これは一説に過ぎないという研究があるなど、まだ空白がおおい。
空海は、高雄山寺と神護寺に至る歴史に大きな、確たる歴史の大河を記した転換点の人物です。そしてこの日本に、変革という伝統、こうしたものを穿った人物と言えるのかもしれません。いや、空海の時代は科学と信仰の曖昧模糊な時代所以の意味があった。
空海が遣唐使を経て帰国したのは歴史上記されている出来事ですが、密教を大陸から持ち帰ったということで歴史上大きな意義があります、それは単に宗教上の出来事ではなく、陳腐化したものは中枢の象徴的なもの以外置き換えるという伝統を生んだこと。
最澄と空海、天台宗と真言宗、日本の大きな歴史の分岐点は宗教に寛容性を示したことで、所謂一神教が陥りがちな二元論、二元論は考え方が明白に示せる羨ましさと共に、衝突を生みやすい敵味方の明白な区分という本質を有していますが、これを省いた。
弘法大師空海、遠く土佐の室戸は御厨人窟に籠って空と海だけを見つめ修行した事で空海を名乗り、まあこれ、大安寺の戒明が求聞持法という自問自答の瞑想修行を伝えた故といわれているのですが和泉国槇尾山寺で出家し、東大寺戒壇院で得度受戒する。
入唐求法、空海は20年の長期留学生として遣唐使に加わり、途中で難破して入国手続きの書類を白紙に一から記すなどの椿事を経て中国は長安の西明寺に寄宿しますと、蒼龍寺の恵果和尚と出会いを果たします。
仏教、日本の価値観や哲学観を固める、非常に重要な時代に影響を及ぼした仏教は当時南都六宗と新しい天台宗の時代を迎えていましたが、仏教とは一つの哲学であり、哲学とは完成の概念が無い進化するもの、恵果和尚との出会いは、その転機となりました。
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