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【京都幕間旅情】西来院,躑躅が美しい季節に拝観へ歩み進めた再興なった寺院庭園

2024-05-29 20:01:21 | 写真
■蘭渓道隆の世界
 百年以上にわたり拝観できなかった荒廃から再興成った寺院があるということで半分好奇心を押えつつ拝観へ歩み進めました。

 建仁寺の塔頭、ということで、しかも山内塔頭というのだから本坊とは文字通り指呼の距離にあるのですが、ちょうど躑躅が美しい季節でしたので、そういえば下志津駐屯地のツツジ祭も長いこと行っていないなあ、と少ししんみりしてしまいました次第でして。

 西来院、開基は蘭渓道隆という13世紀の建仁寺のかたによるもので、当初は清本院という小さな庵であったということですけれども、のちに短期間で荒廃することとなりまして、しかし応永年間の、西暦では1394年から1428年のころ、再興することとなります。

 道隆四世の法孫大宗が清本院を再興するさいに山号を西来院と改めたことで今の位置に。今の位置と書きましたのはやはりといいますか応仁の乱で全焼してしまい、そして再建成るも天文法華の乱でまたしても全焼、江戸時代の慶長年間以降に再建され今に至る。

 再興ではなく再建としましたのは、いまの令和時代がまさに再興の時代と言えるからでして、具体的に言えば庭園が整備されて一般公開となりましたのがまさに今年の2024年という。落慶法要が3月といいますので、第10偵察戦闘大隊と同じくらいあたらしい。

 寺院の作庭というのは、難しい。重森三鈴さんの策定などは新しいのだけれどもなにか仏教哲学との不思議な融和があって説得力があるもので、それは画家を志したあとでの挫折を出家という一段落置くとともに環俗の際に改名した出自とかかわりがあるのか。

 重森三鈴の作庭は仏教庭園に関する造詣というものが付け焼刃ではなく、それこそ枯山水庭園はもともとの意匠をいしきしつつ、自分の作品を寺院に策定するという自己満足ではなく、あくまで寺院の歴史を説得させる納得の出来というのがかんしんします。

 中根金作、20世紀に活躍した作庭の大家といえば、維持するのは大変だろうなあ特に百年二百年後、と危惧するものの世界からは日の本いちの庭園、と名高い島根県の足立美術館庭園を作庭した作庭家のかたの、お孫さんが西来院の作庭を手掛けたという。

 中根行宏と中根直紀、中根兄弟として中根庭園研究所という中根庭園の維持とともに新しい時代の造園を手掛けているとともに研究しているという。新しい時代に策定する、となりますと、寺院の意匠がそのまま策定に反映される岡垣になります。

 寺院といえば、なにしろ作家の自己満足のようなプロジェクションマッピングを夜間拝観の際にやられてしまいますのを目の当たりにしていることも多く、この点、これが寺の解釈なのか、どうしてもこういうはやり物は京都駅とか東京都庁とかでやってほしい。

 建仁寺の末寺のひとつ、あえて名前は伏せるのですが、夜間特別拝観に合わせて枯山水の白洲にスプレーで染色した事例がありまして、それもおおざっぱといいますか、素早くやらなければ構想が飛ぶということなのか、速さだけの粗い仕事の展示をみたことが。

 二度とやらないところをみますとやはり拝観者、というよりも檀家さんかなあ、評判が悪かったのでしょうか、寺院の庭園ではなく自己表現の場に選んだのがたまたま寺院であったので仏教的な言い訳を適当に考えたような展示にちょっと怒り覚えたことも。

 しかし、ここ、西来院の作庭は開山の蘭渓道隆がかつて大陸に渡り修行したという中国の峨眉山を再現するべく、なんと峨眉山から庭石を取り寄せての作庭といいますので、いまは現場の岩を持って来れるのか、と現代物流の規模の大きさに妙に感心しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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