北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

日英統合水陸両用作戦訓練沼津で23日-24日に実施,輸送艦しもきた&英揚陸艦アルビオン参加

2018-08-21 20:12:44 | 防衛・安全保障
■イギリス海兵隊と自衛隊訓練
 日英統合水陸両用作戦訓練、8月10日の防衛省発表によれば23日と24日、沼津市今沢訓練場において実施されるとのことで、防衛大臣定例記者会見でも発表されました。

 防衛大臣が発表しました通り、静岡県沼津市において日英水陸両用訓練が開始されます。23日と24日、海上保安庁は航路注意情報を発表しています。海上自衛隊とイギリス海軍が輸送艦しもきた、揚陸艦アルビオンを派遣し実施する今回の訓練は陸上自衛隊が進める島嶼部防衛において、従来にその能力構築へ連携して来ましたアメリカ海兵隊とはことなる運用手法の研究という点から特に重要な意味を持つでしょう。

 イギリス海兵隊は6500名規模、また人員800名規模のオランダ海兵隊との友好関係も長く、14万規模を維持するアメリカ海兵隊、陸上自衛隊と同規模という巨大なアメリカ海兵隊とは運用基盤が根本から異なり、特にイギリス海兵隊の任務は在外自国民救出と沿岸部における水陸両用作戦、内陸進攻は陸軍という分担に注目すべきです。これは自衛隊と共通点といえる。

 アメリカ海兵隊は海兵師団が2003年イラク戦争に際して陸軍の第三機械化歩兵師団と連携しイラクの首都バクダッド市内へM-1A1戦車を突入させたように、内陸部での作戦能力を相応に重視しています。もちろんアメリカ海兵隊は沿岸部での水陸両用作戦においてもっとも高い能力を有することも確かではありますが、その点に加えての内陸への戦果拡張能力が大きい。

 イギリス海兵隊はフォークランド紛争での完全に占領された自国島嶼への逆上陸という実戦経験、こうした自国島嶼の奪還作戦は意外にもアメリカは第二次大戦中のグアム逆上陸作戦以降経験がないのですが、そしてシエラレオネなどでの水陸両用作戦の経験を有するイギリスから学べる点は多いと考えます、そして装備面で学ぶ点も多々ある。具体的には自衛隊の予算体系でも調達できるという意味で。

 BvS10水陸両用車、ジャッカル耐爆車両、L-118/105mm榴弾砲、イギリス海兵隊の陸戦装備です。そして航空機はリンクス多用途ヘリコプターやガゼル観測ヘリコプターなど。自衛隊に当てはめればAAV-7水陸両用車に軽装甲機動車と120mm重迫撃砲RT,そしてUH-1J多用途ヘリコプターとOH-6D観測ヘリコプターがこれにあたり、言うなれば装備の面で自衛隊の予算でも手が届く装備と代替装備がすでにあるものが多いのですね。

 水陸機動団を創設し島嶼部防衛へ本腰を入れた自衛隊、自衛隊が目指す水陸機動作戦能力は、沿岸部から概ね5km圏内、それ以上内陸へ進攻する能力は、水陸機動団が戦車部隊を有していない点からも求めていないことは自明でしょう。具体的には、陸上自衛隊が想定する島嶼部防衛が想定するのは縦深がそれほど大きくない地形、大きな離島を想定する必要がない為の編成と考えられます。

 奄美大島や宮古島に石垣島や佐渡島などが占領された場合には、沿岸部の水陸両用作戦だけでは不十分となり、第2師団や第7師団といった北海道の強力な戦車部隊を投入する必要も出てきましょうが、佐渡島は別としまして南西諸島島嶼部へは順次陸上自衛隊の配備が開始され、完全に占領される状況は考えにくいといえます。すると、自衛隊が必要とする水陸両用作戦能力はイギリス海兵隊の能力が近い、といえるでしょう。

 AAV-7両用強襲車やLAV-25軽装甲車にM-1A1戦車とM-777榴弾砲を基本とし、AH-1W攻撃ヘリコプターとUH-1Y軽輸送ヘリコプターにMV-22可動翼機が連携しCH-53G重輸送ヘリコプターと完全な立体作戦を展開し、F/A-18C戦闘攻撃機とF-35B戦闘機が航空支援と航空優勢確保を担う、これがアメリカ海兵隊の世界を圧倒する両用作戦能力ですが、予算面からこれを陸上自衛隊が真似ることは簡単ではありません。

 水陸機動団は、しかし、アメリカ海兵隊との訓練強力を行う必要がないのか、AAV-7は無駄であったのか、と問われますと、問題は簡単な一元論ではない、という反論も成り立つでしょう。アメリカ海兵隊との訓練協力は沖縄の在沖米海兵隊を筆頭に米本土の訓練施設を含め同盟国の水陸両用作戦能力を高める支援体制と能力がありますが、イギリス海兵隊との密接な訓練を日本が基盤構築する場合、少なくとも地中海に部隊を頻繁に派遣する必要が生じ、これは難しい。

 AAV-7についても、まず水陸両用作戦能力を最初から構築するには必要な装備といえます。もちろん、イギリス海兵隊のBvS10のような車両は優れていますし、広範に配備するべきとも考えるのですが、その運用基盤と戦術を構築するには独力で開拓せねばなりません。その点、AAV-7は韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、タイ、とアジア諸国で広く採用されている。

 日英の水陸両用作戦共同訓練はその上で、装備面で自衛隊でも手が届く。そして揚陸艦アルビオン、輸送艦おおすみ型、イギリス海軍はアルビオン級2隻とコマンドー空母オーシャン、日本は輸送艦おおすみ型3隻、アルビオンの方が若干大型ですので輸送力はイギリスが優位にありますが、アメリカ海軍と海上自衛隊ほど離れていない、少なくとも40000t級の強襲揚陸艦をイギリスはもっていない、その上で能力を整備している、ここが学ぶべき点です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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戦車300両時代再論:第73即応機動連隊改編の可能性,防衛大綱戦車300両時代北海道機甲師団

2018-08-20 20:02:29 | 防衛・安全保障
■第73戦車連隊即応機動連隊化
 本年末に画定されるという新防衛大綱、その視座として現在進められている戦車300両体制の実現性を検証してみましょう。

 戦車定数300両体制への転換、防衛計画の大綱に盛り込まれた陸上自衛隊の戦車定数ですが、300両という最盛期の第7師団定数と同数まで削減しつつ、しかし、同じく防衛大綱には機甲師団を維持するとあり、果たしてどのようにして300両枠内に機甲師団を維持しつつ、北部方面隊や西部方面隊に戦車部隊を維持するのか、その去就が注目されていました。

 第7師団が即応機動師団へ改編される。当方が気づかされたのは機甲師団である第7師団も機動戦闘車を装備する即応機動師団へ改編される、という部分です。具体的には防衛大綱の別表に機甲師団、という明示はありますので、もちろん第7師団以外の師団が機甲師団へ改編される可能性は、運用基盤移動という手間を考えれば部隊配置上考えられません。

 戦車定数を300両に抑える一方で機甲師団を維持する枠組みがあるはずです。第7師団は戦車連隊の中隊数を縮小する、という選択肢もあるのでしょうが、とにかく戦車定数が300両となれば、最盛期の第7師団戦車定数が286両なのですから、自衛隊の戦車は第7師団一個の最盛期の規模まで全自衛隊で縮小します、小手先の縮小では達成できる数ではない。

 第71戦車連隊か第73戦車連隊が即応機動連隊へ改編されるのではないか、戦車連隊は5個戦車中隊を基幹としていまして、戦車定数は戦車中隊所要が65両、ここに連隊本部所要を加えます。第7師団の戦車定数は200両、とされていますが、例えば第73即応機動連隊、として90式戦車を全廃し16式機動戦闘車と96式装輪装甲車に置き換えるならばどうか。

 師団の戦車連隊が2個と即応機動連隊とするならば、第73戦車連隊の定数はそのまま機動戦闘車に置換えられ即応機動連隊に90式戦車の任務を16式機動戦闘車に置換える事で、師団全体での戦車定数は140両程度に抑えられることとなります。かなり縮小した印象ですが全国の師団に戦車が消え西部方面隊は方面隊から戦車を充当でも14両ですから違う。

 第7偵察隊、更に戦車を縮小するならばこの改編も。機甲師団である第7師団は偵察隊についても威力偵察を行うべく90式戦車を装備しています。しかし、この第7偵察隊を第7戦闘偵察大隊へ改編するならば、概ね10両程度が配備されています90式戦車を16式機動戦闘車へ置き換えることができるでしょう、こうしますと戦車定数は130両となります。

 87式偵察警戒車だけの師団偵察隊や旅団偵察隊では威力偵察は出来ません、敵の前衛が戦車を配置し待ち構えていれば87式偵察警戒車は斥候として反撃を受けるまでの任務しか対応できません、前衛を突破し敵主陣地の状況を解明するには戦車が必要です。しかし、16式機動戦闘車であれば防御力は薄弱ですが打撃力では威力偵察が一応できる水準でしょう。

 戦車300両時代においても170両、第7師団の第73戦車連隊を第73即応機動連隊へ改編し第7偵察隊を第7戦闘偵察大隊に改編する事で戦車は70両の余裕が生じますので、陸上自衛隊全体で教育所要を除いても170両の戦車の枠、5個戦車大隊程度の戦車定数が残ることとなる訳ですね。170両の枠があれば北方から他の戦車を排し西方に機甲師団を創れそう。

 西部方面隊の第4機甲師団というのは冗談としまして、陸上自衛隊全体で機甲師団に過度な集中を行う事は戦車の運用と普通科や特科との協同という意味からも良い選択ではありません、戦車と部隊の連携を演練できるのは機甲師団だけとなってしまいます。ここで第7師団の戦車を縮小したならば、陸上自衛隊全体の戦車部隊配置に均衡が採れる訳ですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【5】F-2機動飛行と岐阜航空祭祝賀会(2014-11-23)

2018-08-19 20:15:41 | 航空自衛隊 装備名鑑
■快晴祝う岐阜基地航空祭祝賀会
 岐阜基地航空祭はF-2飛行展示と共に祝賀会へと進みます。そして祝賀会職と同時に救難飛行展示も実施され、並行して異機種大編隊飛行展示も準備が進む。

 岐阜基地実験航空隊は1960年の時点でF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、各種航空機による評価試験を実施していました。

 日本は第二次世界大戦中にジェット機開発には成功していました、日本は精神論重視といわれますが、それも技術の裏付けがあって。ドイツからの技術導入が大きな原動力とはなりましたが、中島飛行機の橘花は、一応の完成したジェット攻撃機として完成しています。

 橘花は高速飛行に適した後退翼構造を採用し、中島飛行機、のちの富士重工で現在のスバルにより開発されていましたが、特殊攻撃機の名の通り、この日本初の実用ジェット機は特攻専用機となっていました。ジェットエンジン、キ20エンジンは今も現存しています。

 搭乗員の内情を考えますと、特殊攻撃機が最初の実用機であったのは残念ですが、当時の戦況を考えますと、国内の戦闘機量産網は航空攻撃とシーレーン途絶により激減、少数のジェット機を活かし最大戦果を目指すには特攻の非情戦術しか、消去法で残っていません。

 そこまでして戦争継続を行った当時の政府に非難を集める歴史教育の手法もありますが、決死の航空攻撃を継続したことで地上戦は沖縄と満州や北方領土、それに南洋諸島に止められました。技術開発の努力が辛うじてこの状況で抑えた、といえるかもしれませんね。

 県民の三割が死亡した沖縄戦の悲劇を思い出せば、外地居留民含め一億の人口、その三割が死亡していてもおかしくありません、太平洋戦争での日本の戦死者犠牲者350万、悲壮な特攻作戦を筆頭に文字通りすり切れるまで航空攻撃と海上攻撃を継続した結果は。

 東京や大阪を戦場とする戦闘はありませんでした、パリが戦場となったフランスやベルリン陥落後も占領地域での最後までの戦闘は勿論、国土全域での戦闘を継続したドイツを考えますと、航空戦力の意味と大量の戦死者はせめて、無駄ではなかった、といいたい。

 日本の航空技術開発が目指したのは、技術立国として国産戦闘機はじめ高度な航空機開発能力を整備することで、二度と国土を戦場とせず、特攻のような悲壮な航空作戦のほかに選択肢がないとの状況に追い込まれないように、という願いも込められているのでしょう。

 草創期の飛行開発実験団、実験航空隊はF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、という陣容、バンパイアは地上試験用でした。

 ここからF-104戦闘機やF-4EJ戦闘機と飛行開発実験団の航空機は順次増強され、同時に各種実験機材からF-1支援戦闘機やF-2戦闘機と技術が実り、X-2実験機による評価試験やF-35戦闘機導入、長射程AAM-4空対空ミサイルやASM-2空対艦ミサイルが生まれた。

 岐阜基地飛行開発実験団は日本独自の航空機開発技術を維持し、抑止力として戦争を回避すると共に万一の際には戦闘を極力短期間で終息させ、平和的生存権を護る為の技術の要塞、特に戦闘機の能力を最先端とする事で他国に付け入る隙を与えない事に在ります。

 しかし、戦闘機という装備はシステム化されており、単純に高出力のエンジンを機動性に配慮した燃料タンクを内蔵する機材に搭載、もしくは積載し、それに機関砲を搭載して完了、という簡単なものではなく、エンジン一つとっても機械工学と電子光学の結晶です。

 強い戦闘機は期待とエンジンの組み合わせ、そんな単純な戦闘機設計で対応できた時代は、それこそ航空転換期に日本が航空機開発を封じられていた十年間で過ぎ去ってしまいました。もちろん、現在でもその手法は可能ですが、設計に無駄が生じる事も否めません。

 草創期のジェット機は珍奇な構造のものが多く、試行錯誤の苦闘がその設計や写真からかいま見得ます、ジェットエンジンの推力が足りないのでターボプロップエンジンと併用した設計というものもありましたし、ロケットエンジンを搭載したものさえありました。

 これ、海上自衛隊のP2J哨戒機を思い出しますが、P2Jが緊急用に補助エンジンを搭載したのにたいし草創期は巡航飛行の際にプロペラとジェットエンジンを併用しているものもおおく、しかもジェットエンジンとプロペラエンジンを搭載した戦闘機があったほど。

 ジェットエンジン単体では巡航飛行が限度であるので翼にロケット弾と並べてロケットエンジンを轟々と噴出し推力不足を補った事例はある意味凄い発想で、一回使えばその加速手段が無くなりますが、当時の運用思想ではそうしてでも航空戦に対応しようとしたもの。

 日本の航空機開発は、飛行機の草創期のような、この試行錯誤が続いた時代に航空機開発から隔絶されていたことで、不思議な航空機は開発されませんでしたが、技術から起き去られたことで失敗から拾得できる貴重な技術情報に連接することができなかったわけです。

 その技術を追いつくことが目下のところの、そして草創期から続く飛行開発実験団の責務でもあります。ただ、防衛予算が限られる中、航空機開発に投じることのできる予算は極めて限られており、そのなかで我が国では創意工夫により部分部分を開発してゆきました。

 自衛隊は専守防衛を国是としており、このために可能であればすべての装備品を自給自足し、国際関係の影響による装備品調達の影響を回避するという壮大な希望がありました。こうした発想は現代のスウェーデン、昔のスイスの兵器開発に通じるものといえましょう。

 実のところ、日本の防衛はアメリカとの同盟関係により国土総力戦を専守防衛政策が不可避であるところを、目理科の抑止力に依存することで国土戦を回避しつつ、しかし日本本土への限定侵攻は我が国がその独力で排除するという、難しい防衛政策を採用しています。

 この施策は、一方で必ずしも一国平和主義を放棄したわけではなく、極力国際情勢に距離を置きつつ、しかし国際社会の一員としてその発展に参画したいという矛盾する政策への我が国が導きだした一つの方法論でもあり、そのために技術開発を行っている訳ですね。

 国産装備開発ですが、大きな影響を与えたのは武器輸出三原則です。もともとは共産圏や紛争当事国と国連制裁対象国への武器輸出を禁じた限定的な武器輸出制限政策でしたが、拡大解釈に拡大運用が悪循環を招き、法的な線引きがその都度不明確となってゆきます。

 防衛産業も折角輸出を考えた場合でも生産設備を強化したとしても最後に通産省や外務省が輸出禁止を突き付ける可能性もあり、長期的に輸出計画を構築できない、また最先端装備を欲する国もいつ供給が止まるか分らない装備は頼まれても欲しくは無いでしょう。

 実際問題、例えばスウェーデン等は武装中立政策を採る一方で国産兵器の輸出を積極的に行ってきました、スウェーデン居奥では防衛産業を維持するだけの装備調達を行えない為ですが、紛争当事国へ輸出しない政策を採っていました。実際輸出を停止した実例もある。

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【G7X撮影速報】清水港祭2018,ヘリコプター搭載護衛艦いずも一般公開探訪(2018-08-04)

2018-08-18 20:07:56 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■いずも vs ロナルドレーガン
 涼風が吹く秋気配の八月中旬です。しかし、当方は日本のいちばん熱い日に清水港祭行ってきました、その様子をG7X撮影速報にて紹介しましょう。

 清水港祭り2018、静岡県清水市、今は静岡市に合併されましたが歴史と伝統の行事です。海上自衛隊はヘリコプター搭載護衛艦いずも、陸上自衛隊は板妻駐屯地第34普通科連隊の車両を、航空自衛隊は浜松基地高射教導隊のペトリオットPAC-3を展示に派遣しました。

 静岡市に合併された清水市、清水の次郎長で有名な清水市ですが、この清水港祭りは当方にとり、清水市の時代から撮影に展開している伝統の行事です。そして清水港祭りに併せて焼津港なども護衛艦集まり横須賀地方隊遠州灘展示訓練が行われた年度もあるのですね。

 かが大阪港一般公開の様に大混雑を覚悟し進出しましたが、行ってみれば待ち時間なし、かが一般公開は加賀さん人気の反映と大都市大阪での一般公開ということでしたが、静岡市も今は政令指定都市、30分、いや35分待ちは覚悟していただけに僥倖といえますね。

 ひゅうが一般公開が行われた年度、護衛艦むらさめ、はるさめ、体験航海が行われた年度、ヘリコプター搭載護衛艦くらま体験航海が行われた年度もありました。実はヘリコプター搭載護衛艦くらま体験航海は乗艦できそうだったのですが、なんと悪天候、ということも。

 くらま体験航海中止は残念でしたが、土曜日に横須賀サマーフェスタを撮影しまして、そのまま護衛艦くらま夜景を撮影した後一泊、そして朝を迎えると物凄い豪雨と体験航海中止の知らせが、ちょっとがっかりしたまま、停泊している護衛艦と巡視船を撮影しました。

 ヘリコプター搭載護衛艦いずも、たしか8200t型ミサイル護衛艦進水式即ちイージス艦まや進水式を撮影した際には護衛艦いずも横須賀の逸見桟橋に接岸していましたが、横須賀サマーフェスタ開催のこの日には清水港日の出埠頭にて一般公開へ出港していたという。

 いずも撮影、実は悩みました、思い出すのは今年五月のヘリコプター搭載護衛艦かが一般公開、あの大阪港駅まで行列が繋がった三時間待ち、物凄い並んだ思い出があります。それも今となっては良い思い出、美談の様に見せたいところですが、もう一回三時間は困る。

 清水駅は東海道本線、静岡鉄道で新清水駅という選択肢もありまして、清水といえばマグロの街、造船の街、港町の活況と雰囲気が満ち溢れる旅情です。そして静岡駅で乗り換え、まあまあ人の乗るJR東海313系普通電車を清水駅で降りてみますと、驚きました、涼しい。

 京都市38度、名古屋市40度、清水市33度、と。京都より五度低く名古屋より七度低い、街全体が冷房に冷やされているような印象です。いや、京都市内ですと冷房設定25度で頑張っても窓際は33度まで熱せられますので、これと比べれば清水市は冷房の中といえる。

 ロナルドレーガン一般公開、横須賀では原子力空母の一般公開が行われていると現地から情報がありましたが、思い出すのは開門一時間前に並んだものの見られなかった2015年のロナルドレーガン一般公開、三笠ゲートまで三笠公園経由で京急汐入駅まで並んでいた。

 観艦式予行の日と重なりましたが、その日乗る予定無く、くらま出港のみを撮影し、友人が乗る護衛艦を遠景に眺めた後に高台をロナルドレーガンに転進したものの、間に合わなかった、という。ですから、横須賀でロナルドレーガン一般公開と聞いても、ちょっとね。

 そこで清水港祭りを久々に探訪、という事にした次第です。ロナルドレーガンの他ブルーリッジも一般公開していたとのことですが、ひゅうが、いせ、かが、と撮影した一方、いずも艦内撮影の機会はこれまで無、ということで清水港を最初の目的地とした次第です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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平成三〇年度八月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2018.08.19-08.20)

2018-08-17 20:16:34 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 五山送り火とお盆の送り火を終えた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか、今週末の自衛隊行事です。

 護衛艦ひゅうが体験航海が19日日曜日に舞鶴基地で、官公庁合同説明会 in 舞鶴護衛艦みょうこう特別艦艇見学が20日月曜日に舞鶴基地で、行われます。ただ事前応募制でして体験航海は高校生から自衛官志願適齢者のみ。乗る事は出来ないのですが護衛艦ひゅうが出港の様子を撮影する事は出来るかもしれませんね。今週末の自衛隊行事は以上の通り。

 今週末の自衛隊行事無し、という週末にはゆっくりと銭湯にでも行って時間を最大限暖かい浴槽で過ごしたいところですが、海上自衛隊艦艇基地の周辺を散策してみるのはどうでしょうか。勿論防衛施設ですので、その任務に当たる以上、基地は観光施設ではありませんが、艦艇基地の周りには艦艇を借景として観光地とした公園施設が多々あります。

 横須賀のヴェルニー公園はJR横須賀駅や京急汐入駅からほど近く、アメリカ横須賀海軍施設と海上自衛隊吉倉桟橋や逸見桟橋を一望でき、喫茶店や資料館などが並びます。佐世保の佐世保港は対馬行始め九州近海フェリー乗り場と複合商業施設が一体化した再開発を完了しまして、遠景に立神桟橋始め日米艦艇を眺めつつ買い物や食事を楽しむことができる。

 呉は海上自衛隊広報施設として鉄のくじら館があり、潜水艦や護衛艦を間近に見る事が出来るアレイからすこじま、舞鶴は五老岳スカイタワーが護衛艦の出入港も一望できる好立地にあります。戦前の要塞法に代表される厳しい規制はありません、勿論防衛施設としての意味を理解した上で、我が国防衛としての備えをこうした時に散策してはどうでしょう。

 さて撮影の話題、真夏、自衛隊行事は熱くなりますと海上自衛隊艦艇広報の季節です。暑くなるの誤変換ではないかと思われるかもしれませんが、実際昨今の夏は暑いというよりも熱い、気候変動もあるのでしょうが、舗装道路の増え過ぎや冷房の増大による広範な室外機の排熱との相乗で熱くなっているようで、昨今冷房のない小中学校は冷却材を手に授業するのだとか。

 水分補給と塩分補給、実際のところ熱中症で救急車、という状況は艦艇広報の道中に散見します、が、ここで水分補給を怠れば次は自分の番という危険を忘れてはなりません。しかしながら、水分、水は大量に携行しますと嵩張りますし重さも相応に在る、そんな中で当方はコンパクト水筒と冷えたペットボトルのミネラルウォーターを併用し備えています。

 ミネラルウォーターは柔らかいペットボトル、飲んだ後は潰してコンパクトにできるものを、そして水筒は細長い180mlや220mlのものを併用しています。ごく僅かな容量ですが、これは基本飲むものではなく緊急用、つまり撮影を断念し水分補給へ向かう際中に熱中症で倒れないよう用いるもの、という認識で。認識なので実際は多少違いますが、備えます。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

・夏の海上自衛隊艦艇広報…http://www.mod.go.jp/msdf/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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【映画講評】激動の昭和史-沖縄決戦(1971),【第四回】最終回:戦争を知らない大人たち

2018-08-16 20:10:31 | 映画
■現実としての第二次世界大戦
 終戦記念日までにと思ったが長くなった。岡本喜八はじめ過去の作品には説得力があるものが多い、戦争を知らない我々戦後世代が描く現在の日本映画との違いです。

 激動の昭和史-沖縄決戦、1971年の公開ですので1972年の沖縄返還前年にあたり、沖縄戦を考えさせる映画となりました。考えてみますと、1953年に東映が“ひめゆりの塔”を発表していまして、映画として描かれる機会は少なくありません。特に監督の世界観を反映させることができる映画は芸術として表現方法としてはその極致にあるのかもしれません。

 日本のいちばん長い日、2015年にリメイクされまして終戦記念日が近いという事で先日民放でも放映されましたが、1967年に、激動の昭和史-沖縄決戦、を監督しました岡本喜八監督が映画化しているものです。実はこの終戦を扱った映画は、日本敗れず、という新東宝が巨匠阿部豊監督作品として1954年に制作していまして、終戦への混乱と努力が描かれた。

 日本敗れず、という作品を知ったのは実はかなり後なのですが、1950年代に宮城事件を始め終戦に至る危険な騒擾を描いた事にある種驚かされたのですが、日本のいちばん長い日、と共に違和感なく、当時の歴史を監督の視線から考えさせられ、素晴らしい映画であると感嘆しました次第です。しかし、2015年の映画、日本のいちばん長い日、は違和感が多い。

 終戦記念日、毎年8月15日は訪れる訳でして、終戦記念日企画という数多の話題がTVに専門誌にインターネットメディアまで様々な媒体を通じて行われまして、Weblogもその一つなのですが、再現ドラマやドキュメンタリーというものが放映され、期待して視聴します度に、何と言いますか喉に突き刺さるような、目に屑が入るような違和感があるのです。

 激動の昭和史-沖縄決戦、感情移入へ違和感が無いこの作品の背景は、想えば監督から俳優の、勿論子役は1971年の映画ですので別としまして、戦争を経験しているのですね。終戦の日に主演の小林桂樹は愛知県白須賀で本土決戦へ陣地構築中だったといますし、仲代達矢は学童疎開中で敗北しても自分も周りの自然も変わらない事を不思議と感じたという。

 戦争が終わった事はある意味当然と思っていないか、昨今の、筆頭は2015年の映画日本のいちばん長い日、ですが、俳優にも制作側にもなんといいますか、こうした認識が一つ常識となっており、敗北を念頭とした制作や演技となっていないか、1967年に怒鳴る青年参謀は説得力があるが、悪いが2015年の青年参謀役は単なる街のちんぴら役に見えてしまう。

 山本五十六、も同じくリメイクされていますが、CGと特撮、確かに発達したのかもしれませんが、感情がこもっていない。例えば戦闘機の動き一つとっても現物を何度も観た身としては戦術機動などに説得力が無い、空虚なのですね。CG披露のお遊戯会となってしまっている作品が増えたように思う。すると無理に戦争映画をリメイクするのはどうか、と。

 戦争はSFではなく紛れもない現実、こうして終戦という実体験を元に突き詰めたのが岡本喜八の激動の昭和史-沖縄決戦であり、日本のいちばん長い日でした。いや、SFといいますとSFさえも終戦と戦後は一つ分岐点となっています。それならば平和や核兵器を考えるならば空虚な現代視点の第二次大戦よりも庵野秀明のシン-ゴジラを視た方が遥かに理解深い。

 小松左京、日本を代表するSF作家が1973年に発表した“日本沈没”は終戦後の一億玉砕学徒動員の目の前にいた著者が終戦で全ての価値観が転換し、周りが何もなかったかのようにふるまおうとする中で感じた、虚脱感と無力感と妙な焦燥感に行き処のない怒りが、民族が本当に国を失う事をSFとして書いてみよう、つまり終戦が最初のはじまりとなった。

 激動の昭和史-沖縄決戦、それだけに説得力があるのです。現在のところリメイクの動きはありませんが、山本五十六、日本のいちばん長い日、とリメイクが重なりますと、どうしても不安となってしまう。それよりも思い切って日本でもシリア内戦やイラク戦争を描くか、岐阜の名画座ロイヤル劇場で鑑賞しますとDVD版よりも音声と画質劣化が著しく、過去の名画をどう補修し画質音響を維持するかを考えた方が、いいのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【映画講評】激動の昭和史-沖縄決戦(1971),【第三回】映画は問いかける二一.六歳の寿命

2018-08-15 20:13:45 | 映画
■8.15-日本のいちばん長い日
 本日は“日本のいちばん長い日”、太平洋戦争が終わった日です。現代日本最大の転換点であり、僥倖にも日本が経験した最後の戦争が終わった日となった。

 岡本喜八監督は1967年“日本のいちばん長い日”を発表した際“終戦の日、私は二一.六歳、豊橋予備士の候補生であった。私にとって終戦とは何であったか?友人が声も無くドンドン死んでいった日々である。やがて同窓生名簿からは、その半数が消えてしまい、私自身の寿命を掴みで二十三才と踏んだものだ”とプレスシートに終戦の日を述懐しています。

 八月十五日、“私にとっての終戦は何であったか?その二十三才と踏んでいた寿命が、劇的に、少なくとも日本男子の平均寿命六七.二才位まで延びた日である”とプレスシートは続いているという。しかし監督にとり同作は友人たちが断たれたその視点が描ききれず大変な葛藤を感じたという。その反発が映画“肉弾”であり“沖縄決戦”なのかもしれません。

 戦艦大和は第二水雷戦隊と共に沖縄突入を企図し、特攻機400機を集中し天一号作戦を展開します。天一号作戦は同時にレイテ決戦にて試験的に開始された海軍特攻の本格化でもありました。海軍は小録、現在の那覇基地近くに沖縄根拠地隊司令部を置き、25mm機銃240門と重巡用15.5cm艦砲転用要塞砲9門始め徹底した要塞化を図り沖縄に布陣しました。

 海軍特攻、鹿屋に司令部を置く500機から成る第五航空艦隊、レイテ決戦敗北後フィリピンより台湾に撤退した第一航空艦隊は残存130機を投入すると共に沖縄方面航空作戦へ海軍航空隊は航空戦力を結集してゆきます。関東防空を担う第三航空艦隊は640機を以て九州に進出し、特に剣部隊と呼ばれた熟練乗員主体の第343航空隊を隷下に有し期待された。

 沖縄は見捨てられたのではない、と敢えて強調できるのは沖縄方面作戦に海軍航空隊は此れだけの航空戦力と戦艦大和を投入した点です。更に特攻機主体の3500機から成る第十航空艦隊の作戦準備も進められ、沖縄方面での日本軍航空機損失は特攻機が三分の二を占める3007機、対して連合軍も航空機866機という大きな損害を出し、映画でも特攻機が。

 天一号作戦を鏑矢とする海軍特攻は熾烈を極め、駆逐艦など36隻沈没、損傷艦艇は363隻に上りました。映画では画かれていませんが、沖縄戦の地上戦開始は一晩で10万の非戦闘員が殺害された東京大空襲の後です。しかし、大量の特攻機投入はB-29戦略爆撃機を運用する陸軍航空隊と特攻機の標的となる艦船、連合国海軍との間の深刻な対立を招きました。

 菊水作戦と展開される航空特攻、イギリス海軍は欧州戦線の一段落により進出させた虎の子航空母艦の5隻に特攻機が命中するという厳しい状況で、この為に海軍のスプルーアンス提督は陸軍航空隊のカーチスルメイ少将へB-29爆撃機の大都市攻撃を一時中止し、九州南部の陸海軍航空基地攻撃へ転用するよう要求、都市攻撃が一時ながら収まった瞬間です。

 航空特攻がそれ程戦果を挙げておらず声明を無駄にしただけ、という批判は確かにあり、その根拠に3007機の喪失に対し36隻撃沈のみ、という数字が示される一方、損傷363隻という戦果を挙げ、スプルーアンス提督も現状のまま損耗が続けば駆逐艦は不足する事は無いが日本本土作戦には太平洋大西洋の全連合軍駆逐艦の集中が必要になる、と回顧した。

 義烈空挺隊は劇中でも多大な被害を出しつつも投入され、と描かれていますが、航空機による沖縄方面作戦はこの他にも夜間精密航法技量の高い水上機部隊出身の芙蓉部隊による単機攪乱攻撃等、大規模特攻作戦と並行して通常航空作戦が行われると共に剣部隊を筆頭に戦闘機部隊による局地的航空優勢確保を持続的に展開し、沖縄を見捨ててはいません。

 集団自決、投降拒否、しかしどう陸海軍の奮戦を振り返っても県民の三人に一人が死亡したという悲劇は隠す事は出来ません。このなかで一つ、英雄たちの選択、NHK歴史検証番組がありますが、識者により深く検討してほしい点は、首里放棄は第32軍にとり、棚原高地と上原高地の失落によりほかに選択肢がなくなった事は理解できます、しかし、です。

 摩文仁撤退という選択肢以外には無かったものでしょうか、小録合流、という、海軍司令部へ第32軍が合流し、那覇市南部を中心に更なる遅滞行動を続け、県民の戦闘への付随被害を局限化するという選択肢は無かったのでしょうか。映画では太田中将を池部良が演じていますが、陸海軍の協同という部分が、当時機構上やむを得ないにしても、描写が薄い。

 太田提督は第四海上護衛隊司令官から沖縄方面根拠地司令官となった沖縄における海軍側の指揮官で、沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ、との電文で知られています。沖縄方面根拠地隊と第32軍、指揮官が中将と少将ではありますが、小録海軍地下司令部壕はその周辺が要塞化されており、実際、司令部機能も十分ありました。

 沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ、との電文を海軍次官宛に送信できたように通信機能も余裕を有していました。小録海軍司令部壕は現在豊見城市、史跡として、立ち入る事が出来ます。そして、首里城から撤退した第32軍は撤退5万の内雨天下砲爆撃で大きく損耗し、撤退できた兵力は僅かに3万、当初戦力の三割に過ぎない。

 沖縄戦に限らず、当時日本陸軍が撤退作戦をどのように体系化して実施していたか、散見できる資料でも芳しいものはありません。結局摩文仁、本島南端までの撤退が陣地放棄から洞窟戦への転換という無理を強いた為で、予備陣地の無い地域での露出した兵員が砲爆撃に曝されたに他ならず、それならば摩文仁よりも小録の方が首里から近く撤退も容易だ。

 小録の海軍司令部壕が陥落したのは6月13日、摩文仁の第32軍司令部壕が陥落したのは6月23日、十日間の違いです。この中でも映画劇中にも描かれていましたが、5月27日の首里城撤退と共に海軍も一時陣地を破壊し小録を放棄撤退していますが、その後に小録へ復帰し、翌月13日まで戦線を維持しています。もう少し、陸海の連携が出来れば、と思う。

 小録放棄も5月23日に第32軍が実施した撤退方針の会議、隷下師団と旅団の旅団長や参謀長を招集し実施した会議が映画劇中に画かれていますが、映画の中でも史実でも、この会議に海軍は招かれていません。もし、海軍との連絡を密に、首里城大地下司令部壕の予備司令部施設に小録海軍司令部壕を充てていたらば、沖縄戦の様子は違ったのではないか。

 県民の人命を犠牲に本土決戦と終戦への貴重な90日間を流血で絞り出した沖縄戦、という発想、小録転進としていれば県民を護り80日間の戦闘を、と多少は変わっていたのかもしれません。軍隊の任務は国家を護る事ですが、国家を構成するのは国民です。国民を軍が見捨てる事は即ち国民が軍を見放す事と同義で、この映画を見るたびに考えさせられる。

 NHK英雄たちの選択、政治的に難しい命題は敢えて避ける事なかれ主義のNHKですが、インパール作戦や戦時徴用船等で知識不足や見識不足の内容でも敢えて放映するNHKスペシャルを制作しているのですから、摩文仁撤退と小録撤退、即ち県民を巻き込む必至の状況で南端まで下がるか、那覇市南部を死守し県民を護るが妥当か識者の意見を聞きたい。

 沖縄戦は悲劇なのですが、悲劇から考えさせられる事は大きく、確かに主観も入らざるを得ない映画という媒体ではあるのですが、激動の昭和史-沖縄決戦、悲惨だねえ怖いねえ可哀そうだねえ、と敢えて深く考える事を避けて明日だけを見てゆこうとする最中で、まぎれもない戦中派であり戦前生まれの岡本喜八監督が突き付けた、一つの問題作といえます。

 専守防衛とは本土決戦主義であり、憲法上問題があるとしても敵を洋上と策源地で破砕すべき、在沖米海兵隊撤退を要求するならば同等以上のポテンシャルを持つ戦力を展開させ戦力の空隙を造らない、この映画は監督の意志とは裏腹に21世紀にそんな事も突き付けられるように思います。映画は金曜日までロイヤル劇場にて上映、岐阜市日ノ出町1-20柳ヶ瀬ロイヤルビル4FはJR岐阜駅からタクシー五分、旧徹明町駅や旧岐阜メルサ現ドンキホーテ岐阜から徒歩三分です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【映画講評】激動の昭和史-沖縄決戦(1971),【第二回】鬼才岡本喜八が問いかけるあの戦争

2018-08-14 20:02:43 | 映画
■鎮魂8.15終戦記念日特集2
 岐阜市名画座ロイヤル劇場にて今週金曜日まで一週間限定で公開中の映画“激動の昭和史-沖縄決戦”は今改めて沖縄戦を考える多くの問いをみせてくれます。

 関ヶ原の戦い、沖縄で成果を挙げたのは1600年の大会戦にて敗北した西軍の一陣を担った島津義弘が採った遅滞戦術が捨て兵戦術といい、火縄銃一丁に弓と槍を持つ3名一組の小部隊を分散配置し、文字通り死守させる事で時間を稼いだもの。牛島中将は、歩兵砲や速射砲に重機関銃と擲弾筒の何れか重装備一つと分隊を組み合わせ粘り強い遅滞戦闘を展開、命で時間を稼ぎました。

 島津義弘の戦術を現代に転用させ、米軍に多大な出血を強いた第32軍、特に火力拠点を分散し狙撃と対戦車火力を駆使し、複合化された陣地を地形に織り込み、全体を反射面陣地という脅威正面から地形防御に遮蔽する陣地帯は非常に大きな戦果を、米軍に出血を強要しました。しかし、第32軍は持久戦だけで一枚岩では無かった、大本営も決戦を求めた。

 長勇参謀長は丹波哲郎が演じ、特にこちらも天才的な軍人であったと。実は決戦論者であった為に持久戦を放棄し第32軍瓦解早めたとの評価が定着している参謀長ですが、朝鮮軍歩兵第74連隊長時代に若手将校へ作戦要務令図解勉強会を主催する等教育を重視、一方で演習場に本格的な永久築城を行い実地訓練から作戦要務令の限界を教育する等、話が残る。

 サイパン島逆上陸作戦へ関東軍機動第1旅団長を打診され気球空挺作戦の検討を行う等、奇想天外な戦術も実用性あれば忌憚なく受け入れる度量があるとともに、連隊長時代には父親の長蒼生が刀剣収集家であった為、野戦訓練や営内業務に頑張りを見せた将兵には日本刀を与えて褒める等、名物指揮官であったという。映画でも豪放磊落と紹介されました。

 長勇参謀長の豪放磊落を伝える一つの事例が1938年の張鼓峰事件の現地停戦を命じられソ連側と停戦を画定した後、細部は参謀に任せて休もうとソ連陣地内でソ連軍第一線指揮官を促し、実際自身も雨衣を広げソ連陣地のど真ん中で大の字になって高鼾、という話もあれば、少し前には桜会の発起人の一人で226事件が成功した際には警視総監に着任の予定という危ない話もあります。

 八原博通高級参謀を演じるのは仲代達矢、徹底した持久戦を南方戦線や欧州戦線での米軍運用や火力と指揮系統を念頭に提唱し、実際、第32軍の長期間の戦闘継続を実現させた立役者です。1981年まで存命されていましたので、1971年に公開された本作を実際に見ていたのでしょうか、仲代達矢と丹波哲郎、二百三高地の怒鳴り合いを先取りする迫力でした。

 八原大佐は米国留学経験が、と劇中でも紹介されますが、米国工業力の大きさから平時の米軍軍事力と戦時動員の増強や、大学教育における予備将校養成課程が日本における大学での歩兵教練とは根本から異なる、当時日本陸軍を悩ませていた指揮官不足の問題と相まって彼我戦力の差異と我が方の劣勢を冷静に受け入れた現実的な戦術に持久戦を挙げます。

 激動の昭和史-沖縄決戦、劇中でも総力戦として陣地を出て総攻撃に移行を主張する長参謀長と、彼我戦力の格差から持久戦貫徹を譲らない八原高級参謀の怒鳴り合いに近い議論が展開します。総攻撃は短期決戦でも短期間で一定の戦果が示せるとして第10方面軍も大本営も求めていた一方、物量差から不可能であり自滅であるとの冷静な分析での反対である。

 英雄たちの選択、NHK歴史検証番組がありますが、一度真剣に現在の識者に選択を検証してもらいたいと思うのは、長参謀長案が通っていれば、沖縄本島での戦闘は一ヶ月程度で日本軍の敗北により終結していたのでしょうが、沖縄県民、特に3個師団が配備され首里城に司令部が置かれた事で疎開思い留まった県民が巻き込まれる事はなかったのでは、と。

 英雄たちの選択、政治的に難しい話題は扱わない昨今のNHKらしい番組ですが、牛島司令官の視点から長参謀長の短期決戦総攻撃続行案と、八原大佐の持久戦により敵の出血強要に並行して非戦闘員の被害拡大、という状況をどう考えるべきか。実のところ非常に興味がある命題です。昨今の沖縄を見ますと、長参謀長案も一考の余地は。しかし沖縄が台風シーズンまで時間を引き延ばしたお蔭で本土決戦は回避されたがこれをどう考えるか、と。

 長参謀長ですが首里城の一大地下司令部を構築したのは参謀長案です。八原高級参謀は野戦築城を優先し司令部地下壕は簡易なもので充分、としていましたが、実際に地上戦が始まりますと首里城へも艦砲射撃が降り注ぐこととなり、堅固な地下壕により司令部機能を最後まで維持でき、長参謀長の慧眼に助けられた、と八原高級参謀は戦後語っています。戦後生残った八原高級参謀は、冷徹を通すも情に脆く戦艦大和出撃を知って感極まった、と述懐しているのですね、感極まる瞬間は劇中でもところどころ、しかし高級参謀の職責と板挟みになる様子は観ていて悲しい。

 嘉手納海岸に上陸した米軍、奇しくも嘉手納海岸は薩摩の琉球侵攻に際し琉球要塞陣地突破を断念した薩摩が火縄銃と日本刀による近接戦闘へ転換するべく上陸地点とした場所であり、1973年にはゴジラ対メカゴジラでブラックホール第三惑星人がゴジラとメカゴジラの決戦場とし、沖縄にとり象徴的な場所ですが、日本軍は首里まで防衛線を維持しました。首里から嘉手納までは実はそれほど距離が大きくは無く50万近い正規軍を投入した米軍を此処まで持久した、行ってみると驚きを禁じ得ません。

 嘉手納基地へ那覇空港から現在行く際には、モノレールで那覇市を通過し首里から路線バスに乗り換え、嘉数の高台を眺めつつ普天間飛行場の隣を読谷村へそして嘉手納方面へと向かいます。第32軍司令部は首里城の地下にありましたので、要するにモノレールをバスに乗り換えてから全て激戦地です。しかし、大本営も第10方面軍も沖縄県地図を見れば主力温存の第32軍が何故首里から嘉手納まで突撃し奪還しないのか、と思った事が意見具申という名の督励に反映されています。しかし、防御でこそ威力を発揮出来たのが彼我戦力の格差で、嘉数高地の激戦は米軍戦史にも歩兵戦闘の極致とある。

 見敵必殺-玉砕御免を掲げた第62師団がこの正面を防衛していましたが、師団砲兵を欠く軽装備の二個旅団を基幹とする師団でしたが、師団そのものは精強、中国大陸での大陸打通作戦、1000kmの長距離機動を果たし中国内陸部から九州を空襲するB-29基地を直接破壊する作戦、この経験を持つ第62師団は陣地と高地戦闘にて多大な出血を米軍へ強いてゆく。

 九九式軽機関銃、映画では日本軍の自動火器が多数様々なところで射撃している様子が強調されます。これは元々第10方面軍経由でレイテ決戦へ送られる大量の自動火器がレイテ玉砕により沖縄で足止めされていたものを第32軍が用いたもの。レイテ決戦では破壊された航空機の機銃が取り外され火力を大幅に高めた事で陸戦で米軍を苦しめており、やはり第一線火力は重要ですね。

 M-1ガーランド小銃と九九式小銃、半自動小銃とボルトアクション式小銃という日米差異がよく太平洋戦争の日米の国力差に挙げられますが、九九式軽機関銃と八九式重擲弾筒にM-1918BAR分隊支援火器と60mmロケットランチャー、沖縄戦での第一線火力はこうした違いも。一方、米軍M-1トンプソン短機関銃の近接戦闘での威力も劇中強調されていた。

 第32軍は軍砲兵だけで300門の火砲を有していまして、陸上自衛隊の火砲定数を考えますと異例なほどの大火力といえるのですが、映画ではこの総攻撃における威力も、勿論東宝映画ですので本物の火砲を多数並べる訳にはいかず、予算の関係で描写に限界はあったのですけれども、強調されています。しかし、大本営と第10方面軍の督励や海軍の九州からの特攻による総攻撃に呼号するかたちで、持久戦を総攻撃に転換し、第32軍に限界が。

 首里城地下司令部を最終防衛線として持久戦と決戦を繰り返した第32軍は、しかし更なる持久作戦の展開へ首里城放棄を決定し沖縄本島南部へ撤退してゆきます。ところが、この本島南部への撤退は多くの県民が避難している本島南部が戦場となる事を意味しました。劇中では島田知事が牛島司令官へ県民をまもる方法は無いか哀願しますが、劇中でも史実の通り、惨劇が始まり居住する県民の三人に一人が死亡したという沖縄戦の地獄絵図が展開してゆきます。

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【映画講評】激動の昭和史-沖縄決戦(1971),【第一回】岐阜名画座ロイヤル劇場にて上映中

2018-08-13 20:09:19 | 映画
■鎮魂8.15終戦記念日特集
 戦争、特に第二次大戦の記憶は年々薄れてゆくとされる中、郷土が戦災に巻き込まれぬ大切さだけは忘れぬようしたいものですが、平成もいよいよ移ろう今日、いう程簡単ではありません。

 終戦記念日、今年も八月十五日がやってまいります。さて、岐阜県岐阜市、航空自衛隊岐阜基地から10kmほど離れた岐阜市中心部に柳ヶ瀬という広大な商店街があります。元々岐阜市は繊維産業で活況を謳った街で、現在は航空産業と30km隔てた名古屋の近郊都市という位置づけとなっていますが、この中心部には劇場通りという映画館街がありました。

 ロイヤル劇場、という老舗の映画館がここにありまして昭和の頃には東宝系映画館として新作を上映していたのですが、10年ほど前から旧作を上映する名画座へ転身を果たしまして、特に終戦の日が近づきますと、東宝や日活の戦争映画を上映し、歴史の中の戦争について映画という表現手段を通じ文化人が後世に伝えようとした名作を再上映しています。

 激動の昭和史-沖縄決戦、岡本喜八監督が1971年7月17日に公開した東宝映画を今年の終戦記念日には上映しています。牛島中将を小林桂樹、長参謀長を丹波哲郎、八原高級参謀を仲代達矢、太田中将を池部良、島田知事を神山繁、梅津参謀総長を東野英治郎、と日本映画界を代表する名優があの悲劇の沖縄戦を沖縄返還前年に映画化するという難題に挑む。

 沖縄戦、太平洋戦争における日本最大の悲劇は大規模な地上戦が非戦闘員を巻き込み長期間展開され、県民の三人に一人が死亡するという結果を生みました。そして激動の昭和史-沖縄決戦は日本のいちばん長い日はじめ多くの作品を生んだ岡本喜八監督が慎重に歴史を読み解き、独自の解釈は主観として仕方なくも史実に沿った説得力と共に作品としたもの。

 県民の多くが巻き込まれた沖縄戦、散髪屋比嘉三平として田中邦衛、ひめゆり部隊仲宗根教諭に滝田裕介、南風原陸軍病院上原婦長は大空真弓、辻町のシーちゃんに丘ゆり子、県民視線と軍上層部の視点に第一線の兵士という視点まで織り込んでいまして、洞窟に避難した非戦闘員が火炎放射器で焼き殺され断末魔の悲鳴があがる描写などは何度鑑ても、と。

 太平洋の楽園となり得た沖縄が何故戦場になったのか、作品を見ていますと史実で、沖縄本島に当初配備されていた3個師団のうち1個師団を抽出し無防備になった事が結果的に響いた、と突き付けられます。これは軍隊=戦争、主観には逆行しますが、在沖米海兵隊の第3海兵師団を海外に出す場合、旭川第2師団並の強力な師団が代わりに必要となる。

 沖縄第32軍は沖縄戦時の隷下部隊に、第24師団、第28師団、第62師団、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第59旅団、独立混成第60旅団、独立混成第64旅団を擁していました。圧倒的な兵力にみえますが、第28師団は先島諸島宮古島や石垣島を管区とし、独立混成第64旅団は奄美大島より現在の鹿児島県島嶼部を管区としていました。

 第10方面軍は第32軍の上級部隊として置かれ、司令部が台北、方面軍隷下部隊は第32軍に加えて第9師団、第12師団、第50師団、第66師団、第71師団、第8飛行師団、及び7個独立混成旅団が置かれていました。沖縄方面の陸軍航空作戦等は第8飛行師団が担っており、沖縄本島に多数の航空基地を建設したのは第8飛行師団の航空作戦を見込んだため。

 激動の昭和史-沖縄決戦、劇中では元々日本陸海軍優勢の時代には必要性が薄かった沖縄県の防衛について、1944年のレイテ決戦が迫ると共に南西諸島防衛の必要性が高まり、第10方面軍の前身である台湾軍が隷下に飛行場設営を主として第32軍を1944年3月に創設、満州北部、現在の中国東北部北部より陸軍師団を転進させ徐々に野戦部隊を強化しました。

 第9師団、第24師団、第28師団、第62師団、と第32軍は4個師団を有する強力な陣容となります。しかし、前述のレイテ決戦、マリアナ沖海戦と台湾沖航空戦の戦果を拡大解釈した上でフィリピン方面での米軍への決定的な痛打、日米和平と停戦実現、を期待し第10方面軍台湾駐屯師団を転用した為、台湾へ沖縄から一個師団を抽出する事としたのです。

 沖縄本島に第9師団、第24師団、第62師団、以上三個師団を配置し本島全域に火力を志向できる体制を構築、特に第32軍の編制は野砲を重視しており、弾薬備蓄量では兵站線が途絶した場合、米軍に対し劣勢は否めませんが、火砲数では従来の南方戦線ほど顕著な開きは無かった。しかし、台湾へ師団を抽出した場合、三個師団が二個師団になってしまう。

 アイスバーグ作戦としてアメリカ軍は日本本土進攻準備にあたる拠点確保を開始します。注目すべき点は沖縄か台湾を確保するという主眼で、この時点では沖縄戦が回避され台湾戦となった可能性もあったのですね。策源地としては日本本土上陸に加え中国本土の蒋介石支援という意味からも台湾の戦略的価値は大きかった、しかし、ここに上記の転機が。

 台湾へ第32軍は第9師団を転出します。当初は非常に難儀しましたが決定を覆す権限までは無く、第10方面軍は最精鋭師団の抽出を求めます。第9師団は日露戦争の二〇三高地攻略で知られた金沢の伝統ある師団、しかし師団砲兵は山砲を装備していました。第24師団は野砲を装備していた為、火力重視の第32軍は歴史は無いが火力ある師団の温存を図る。

 アイスバーグ作戦は、沖縄が戦場として選ばれた訳なのですが、一歩違っていれば、つまり第9師団台湾抽出が無ければ防備大きな沖縄本島を避け、米軍が台湾に上陸し、台湾の国民を巻き込んだ大規模な地上戦に発展していた可能性もあるのですね。そして逆に言えば、沖縄が戦場となった為、台湾は航空攻撃のみで軍民共に生き残る事ができたのです。

 沖縄県には感謝しなければならない、痛感するのは第32軍に寄り添って実に90日間も組織的戦闘を継続した事で、実は京都も映画が上映された岐阜も、助かっているのです。何故か、米軍は本土決戦、オリンピック作戦とコロネット作戦を行うための策源地として沖縄へ侵攻したのですが、四月に上陸してのち七月まで第32軍が持ちこたえ、季節が巡る。

 90日間沖縄県で第32軍と県民が米軍を食い止めた事で、台風シーズンが到来し、日本は終戦模索への最後の時間的余裕を与る事になった訳です。それならば沖縄戦の前に降伏、と思われるかもしれませんが、ドイツが健在な時点で枢軸国から連合国へ参加したイタリアのような降伏回避は難しく、日本の降伏を求めるポツダム宣言もまだ示されず難しかった。

 牛島満中将は第32軍司令官、鹿児島県鹿児島市出身です。その評価は多くの識者が温厚な文武両道の薩摩隼人、と評していまして両親ともに旧薩摩藩士、相撲や剣道に秀でると共に学力優秀の候補生はそのまま温厚な教育者として陸軍部内で頭角を現す指揮官、俳優の志村喬と似た風防は、しかし温厚で周りを安心させる様子を名優小林桂樹が演じました。

 薩摩隼人と評される牛島中将は上記の通り第32軍が沖縄本島に3個師団を集中していた当時は積極攻勢、水際に砲迫火力を集中し上陸米軍を一挙に叩き潰す構想を軍方針に定めていましたが、3個師団が2個師団となり兵力でも火力でも厳しくなったことから、短期決戦ではなく持久戦を選択、ここで薩摩の捨て兵戦術という方式を採用し米軍を苦しめます。しかし、これが沖縄のもう一つの悲劇を生むわけです。

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【G7X撮影速報】アルビオンHMS-Albion.東京晴海親善訪問日英艦一般公開(2018-08-05)

2018-08-12 20:08:37 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■BvS10両用装甲車登場!
 アルビオン艦内、速報記事でも紹介するには前篇後篇に各24枚級記事に分ける程、注目の行事でした。

 アルビオン艦内では、それこそ水陸両用作戦について学ぶところばかりであり、とにかく驚きの連続でした。イギリス海兵隊は6500名、水陸機動団の倍程度ですが、アメリカ海兵隊の15万名と比較すればその規模は驚くほど小型で装備は平凡、しかし能力は非常に高いです。

 イギリス海兵隊にこそ学ぶべきではないか、アメリカ海兵隊は日本陸軍との太平洋島嶼部での戦闘を経て水陸両用作戦能力を高めましたが、イラク戦争などの戦史を振り返れば強襲上陸と同程度その後の内陸への侵攻能力を重視しており、水陸機動団の任務とは少々違う。

 水陸機動団を新編した陸上自衛隊ですが、主たる任務は島嶼部防衛と離島奪還任務にあり、正直内陸への反撃という逆上陸作戦は、それ程必要ないようにも思えます。北海道九州逆上陸、の必要はありませんし自衛隊は仁川上陸作戦や上海敵前上陸を行う予定は全くない。

 BvS10水陸両用装甲車、原型は傑作全地形車両BV-206ですが、装甲の装着とエンジン出力の強化により野戦車両としての完成度を高めています。速度だけでもBV-206は最高速度52km/hでしたがBvS10は最高速度65km/h、この速度ならば日本でも公道を普通に走れる。

 BAEランドシステムズ社とヘルグランド社の共同開発で、275hpのディーゼルエンジンを搭載し重量8.5t、これは前部5tと後部3.5tの合計重量で操縦手と車長に加え12名を輸送可能、物資輸送の場合は5tまで搭載できるとの事。勿論この搭載能力は増加装甲へ反映させることも可能だ。

 イギリス海兵隊は同時にこのBvS10が防弾性能を有する一方で水上速度5km/hという両用性能に着目し2006年より調達を開始しました。最初の調達は14両を1400万ポンド、2006年のポンドレートは1ポンド220円ですのでBvS10は1両当たり2億2000万円となる。

 2013年にスウェーデンが取得した際には1両が108万ドルに抑えられていましたので大量調達を行い、その上で整備維持部品などをふくめた場合は取得費用は96式装輪装甲車を若干上回る程度に抑えられるのか。なお車幅は2.34m、日本の道路運送車両法にも適合します。

 BvS10はイギリス海兵隊の第3コマンドー旅団へ108両配備され、アフガニスタンでの山岳任務にその登攀力が大きな能力を発揮し、海兵隊は2016年に9700万ポンドを投じて96両のBvS10延命改修を実施しています。今回派遣された車両も第3コマンドー旅団のもの。

 装甲車として視た場合のBvS10はアフガニスタンでの実戦運用において簡易爆発物IEDによる待伏せ攻撃に対し脆弱性を露呈しました、装甲戦闘車が次々30t代へ巨大化が進む中で8.5tの車体、アメリカのM-113装甲車の12.3tよりも軽量故仕方ないといえば仕方ない。

 増加装甲としてイギリス海兵隊は籠状のスラッド装甲を増加装甲として装着しました、この他の装甲車では山間部を登攀できず、BvS10の防御強化以外には選択肢が無かったのですね。晴海での一般公開ではスラッド装甲は通常の増加装甲に取り換えられていました。

 装甲全地形車両としては非常に優れた車両であるようで、オランダ海兵隊は74両を配備、フランス軍は山岳戦や両用作戦用に53両を、スウェーデン軍もBV-206の補完に充てる全地形装甲車両として150両導入し、オーストリア軍も2018年にも取得を開始するという。

 ジャッカル耐爆車両、イギリスのスパキャット社が開発した偵察警戒用の耐爆車両です。6.65tの車体は簡易爆発物IEDによる待伏せ攻撃に備え最低地上高38cmを確保し、全乗員が即座の応戦を行えるよう開放型戦闘室を採用、全員が機銃等で応戦する武装の配置です。

 コヨーテ耐爆車輛とジャッカル耐爆車両で六輪駆動と四輪駆動のファミリーを構成しており、開放型戦闘室と上面の防御力は皆無ですが、側面は機銃弾に耐えると共に耐衝撃座席を採用し、IEDの爆風と破片に振動と全ての脅威に対応できる実は重装甲、という設計だ。

 イギリス陸軍は2003年のイラク戦争後、イラク治安作戦において市街地や近郊道路網と近郊村落、またアフガニスタンでの街道警戒等に当てる装甲車を必要としました。従来の北アイルランド警備用の小型装輪装甲車はIEDが路肩に並ぶこの種の用途に適合しません。

 2008年からイギリス軍はジャッカルとコヨーテの配備を開始、ジャッカルは2008年調達分で100両、2008年後半に72両、2010年に改良型のジャッカル2を140両を追加し、ジャッカルだけで212両、その後の追加とコヨーテを併せれば500両近くが納入されました。

 自衛隊の普通科連隊情報小隊に必要な車両、ジャッカルは斥候と後方連絡線維持に最適です。特に開放型戦闘室は五感を活かした情報収集に寄与し、偵察部隊の敵前衛を突破する打撃力は有しませんが、航続距離は800kmありますので長距離の迂回機動も可能でしょう。

 レオパルド/ヒッポBRV,アルビオンに搭載の特殊車両の中でも群を抜いて異彩を放っていたのは戦車の車体上に大型トラックの運転台と鋼鉄のダンパーを並べた車両の存在です。BRVとはビーチリカバリーヴィーグルの略称で沿岸部の上陸支援を行う大型装軌車輌だ。

 BRVの任務は上陸用舟艇が接岸しすぎて離岸できなくなった場合に海上に押し戻す装備です。戦車のような車体はその通りレオパルド1A5車体を利用していまして240tまでの上陸用舟艇を海上に押し戻す、また50tまでの重車輌を陸上に引き上げる能力を有しています。

 上陸用舟艇の擱座は、海上自衛隊輸送艦みうら型が現役当時、LCMの擱座が少なからず発生していました、陸上自衛隊の施設大隊が徐々に周りに土を積みつつ作業場を拡大しブルドーザーで押しつつ、同時に輸送艦で引き戻したという。この作業はかなり時間を要した。

 レオパルド1A5車体を利用するヒッポBRV,は駆動系はそのままですが元々の戦闘重量42.5tの戦車も補助動力装置やシュノーケルの追加、そして操縦席の沿岸作業へのかさ上げにより重量は50tに増大しています。その分擱座車両牽引や上陸用舟艇押し戻しに強い。

 C-721-CXT、前回紹介したもの。JCB427ホイールローダーの軍用仕様でスチールカーペットボビンを装着しています。要するに鋼鉄のカーペットを海浜に敷設する装備でして、これ一台だけで110m程度の海浜に車両揚陸通行路を開設できます。JCB社はイギリスが誇る建機メーカーだ。

 JCB427だけならば日本でも建設会社などが普通に購入する事が出来ますが、JCB社といえばHMEE装甲工兵車を量産しているメーカーです。装輪式で最高速度88km/hを発揮しバケットローダーとバックホーを搭載する戦闘工兵車両でイギリス陸軍も採用しています。

 グロック17、スパイク対戦車ミサイル、FN-MAG軽機関銃、MINIMI分隊機銃、L85A2小銃、L-22カービン、L-123小銃擲弾発射器、L-129A1自動狙撃銃、M-134ミニガン、装備一式から戦闘糧食に野戦救急装備に背嚢から携帯天幕まで一通り展示され、見どころ。

 掃海母艦うらが一般公開も隣で行われていますので、時間は有限なのですが何しろ初めてみたBvS10等、キャンプ富士アメリカ海兵隊一般公開以上の密度と充実ぶり、もう少し長く撮影したかったのですが、徐々に混雑が凄くなってきましたので移動しました次第です。

 晴海に行けばよかった、と今回の写真をご覧になり思われた方が居ましたら朗報です。防衛省によれば今月23日と24日に静岡県沼津市の片浜海岸において日英共同訓練が実施され、海上自衛隊輸送艦とアルビオンが参加します。海岸から訓練の様子を見学できますので、興味のある方は是非、と思います。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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コメント (2)
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