今日は、休日で久しぶりにカレーづくりのボランティアに行った。その後で、友人と楽しく語らい帰宅した。その帰りみちに、どういうわけか漠とした憂鬱な感情、悲しみに似た感情にずっと捕らわれていた。
大学生のころ、感動した本は人それぞれだと思うが、私の場合は、リルケ詩集であった。深い悲しみの詩は、逆に深い感動を呼ぶ。 家に帰ってから、むしょうにリルケを読みたくなり、ぼんやりと読んだ。
リルケの時禱詩集の中の好きな一節。
/何も欲しません。もし彼らがもし何かを欲するとすれば、それはただ一つー/ほんとうにありのままに貧しくあること/なぜなら、貧しさは内部から射す偉大な輝きだから。/
自分の鬱の原型はどこにあるのだろう。やはり、どこか人の死と関係しているようにも思う。今まで、殆ど意識に登らなかった一つの出来事があった。幼友達が、大学生のころだったか自殺した。幼い頃は良く遊んだが、小学校以降は殆ど話した記憶はない。近所ということ以外接点は余りなかったと思う。ただ、時折彼女の姿を遠くで見かけた。今日は、そのころの記憶の何かに触れ、憂鬱になったのかもしれない。
鬱の感情は、幸福感の対極にあり、幸福感を得る重要な鍵になることがあると学んだ。
忘れていた記憶の断片は、今ここにいる自分に何かを優しく語りかけているようにも感じる。
<一日3/4>
人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!