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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

死んでからも、なかよくしようね!(心の仕組みを活かす 3/10)

2012-11-24 | 第七章「光と復活体」

 植物でも、動物でも、もちろん人間でも「なかよく」は大事である。厳しい環境を生き抜くためには、共感しつつ「なかよく」共存することが大事である。しかし、自己実現を考えたりする場合に、適度に離れなければならないことも。

 同一化という防衛機制は、「自分ひとりでは不安なので、自分以外のものと自分が融合した自他一体感をもとうとする事」(生き甲斐の心理学 96ページ)である。

 自分の人生を考えても、この心の仕組みにどれだけ助けられたか判らない。そして、今でも助けられている。友人や同志、家族など、この防衛機制がなければきっと成り立たないのではないか。

 そして、それと共に、自分の個性とか傾向、自己実現を考えた場合、状況の変化の中で、この防衛機制がネガティブに作用することがあったのも確かである。思い出すのは、もう10年前になるが、長年勤めた会社を辞める時に感じたものであった。自分のアイデンティティや意志も今考えれば、軟弱であった。

 さて、昨日の続きであるが、持統天皇の祖母、皇極天皇(後に重祚し斉明天皇)を今日は考えてみたい。皇極天皇は、今でも時々ニュースになるほど話題性(波乱万丈の人生は持統天皇にも似ている)がある。二年前にも牽牛子塚古墳の隣接地に古墳が発見され、それが太田皇女(持統天皇の姉)ではないかと話題になった。牽牛子塚古墳は八角墳で、この発見でいよいよ皇極天皇のお墓である可能性が高まった。

 日本書紀等によると、皇極天皇は、悲運な身内や孫たちを引き取り、大切にされた優しい方だったようだ。持統天皇の幼少時代も母が悲惨な状況で亡くなったりする。姉の太田皇女や障害をもった弟の建王子、皇極天皇の娘で天智天皇との関係を噂された間人皇女等と難波宮近隣でなかよくしていたのだろう。吉田知子氏の飛鳥の風のように、倭姫王ともいらしたかも。

 そのなかよしは、皇極天皇が亡くなった後も、その墳墓やお墓の記録に残されているようだ。

 持統天皇も、きっと祖母の皇極天皇のそうした愛に育まれ、両親や祖父の悲惨にもかかわらず、健全に育ったのだと思う。

 ただ、厳しい時代の流れの中で、姉の太田皇女は若くして病死。姉の息子の大津皇子や娘の大伯皇女へも一時は身内として大事にしただろうが、敵対する関係になり、最後には甥を謀殺し姪を斎宮として排除する。同一化の防衛機制にも、倫理道徳に縛られない現実的行動をとった。それ故、持統天皇の理想とする国家体制に近づいたとも思える。

 この持統天皇のお墓は、同志の天武天皇と合葬されている。しかも、持統天皇は日本の皇室では最初に火葬され銀の骨壺に遺灰が入っていた。天武天皇は土葬なので、後から亡った持統天皇の意志が感じられる。

 死んでからも後に残るほど、深い同一化のこころの仕組み。深く考えてたい。

 心の仕組みを活かす 3/10

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