イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

多様性を容認できるか否か (過去の解釈が将来に影響する 3/10)

2016-07-29 | 第八章「魂と聖霊」

 米国の大統領選の報道を見ていると、米国の多様性に対する受容性、懐の深さに感心してしまう。心配もあるが、それでこそ民主主義成立の基礎だと安定感を感じてしまう。それに対し今の日本はこんな柔軟性があるのだろうか。・・・そんなことで今日は、多様性(異なるもの、時に対立するもの)を受容する思想についていろいろ考えている。先史時代に一万年以上続いた縄文文化に私は米国以上の懐の深い思想があったのではないかと想像している。縄文中期の関東や中部にあった、広場を中心に環状に並ぶ竪穴式住居の集落の思想。あるいは北海道で見つかったポリオで病んでいたが20歳代まで生き抜いたとされる女性の遺体。現代人と一ケタくらい違う食生活の多様性・・・。

 アイヌ文化でも死刑はないようだが、縄文も同じように死刑は無かったのではないか。人間に霊性・魂を想定しての尊厳の思想が脈々とあったのではないかと思う。それは、歴史的には最近の仏教や基督教にも流れていて、人の仏性とか霊魂の思想になっているようだ。

 日本には、和の思想というのがある。日本書紀に聖徳太子が作ったといわれる十七条憲法がある。その筆頭にあるのが和の話だ。井沢元彦氏の本でよんだことがあるが、和の思想はすべての当時のイデオロギー(仏教、神道)を超えている原理のようなのだ。それは聖徳太子とか7世紀の人が考案したものだろうか。私は、ひょっとすると遡って縄文時代からある常識ではないかと想像している。しかも、その和の思想は意外にホモサピエンスの古くからの思想ではなかったかと。 

過去の解釈が将来に影響する 3/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!