イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自己主張が無力の時!

2008-04-25 | 第五章「和解と平和」

 自分のした行動をAと思っていても、Bと解釈されてしまう。誠意をこめてお話しても、主張しても事態は一向に改善しない。そんな時、それが親しい人であればあるほど、ショックは大きい。

 先日読んだ古事記の中に有名な、海幸彦、山幸彦の神話がある。山幸彦が無理にお願いしてやっと兄の海幸彦と道具と交換し、釣りをしたのは良いが、大事な兄の釣り針をなくしてしまう。

 自分の十塚の剣から、500、1000の釣り針を作って弁償しようとしても、許されない。山幸彦は海岸で途方にくれ嘆き悲しむ。山幸彦が陥った苦悩は深かったのだろう。

 ある日突然、晴天の霹靂のように襲う不幸な出来事。必死の話し合い、自己主張も無力である。自分のAという解釈も暗礁に乗り上げる。人生にはそうした時がくることがある。ただ、そういう時は見方を変えると、より人生を深く生きるためのチャンスではないだろうか。

 神話では、そこに山幸彦を助ける塩椎神がきて助け、また豊津見神が親切にも失った釣り針を探し出してくれる。そして、話は展開し最後には海幸彦を懲らしめ、服従させてしまう結末になっていく。

 神話を読んでいると、日常の倫理道徳を越えて、世界が広がっていることが判ってくる。この山幸彦の話も、美しい桂の木や井戸を通しての豊玉びめとの出会いなどもあり、ゆったりした流れの中で、苦悩を越えていく何かを学ぶ。

 神話は真善美の世界とどこかで繋がり、私たちが辛い思いをしているときに、それを受容していく術を語ってくれているようだ。

<自己主張3/4>

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自己主張のイメージを再点検する!

2008-04-24 | 第五章「和解と平和」

 自己主張というと、マスコミの影響とか学校時代に学んだような良い子の発言。そんなイメージがどこかにあって、力んで主張してしまいがちになる。青年のころは、自己主張すると殆ど喧嘩みたいになってしまった。

 そして、大学を卒業して企業に勤め、大阪でセールスの現場に出た時は、今から思えば冷や汗がでるような自己紹介・表現であったに違いない。昔は自分の武勇伝を変に自慢したが、実際は回りの年配のお客様に助けられ、先輩に助けられ何とか生きて行けたのだと思う。感謝しつつ当時を振り返る。

 さらに、のんびりと自分の自己主張のパターンの源泉を思索していくと、幼少期や小学生のころの両親の影響が大きいことに気づく。特に非常に緊張して、こわごわ主張する時が今もたまにある。幼少のころの自己主張に関する原型が、現在の生活の中に顔をだしているようだ。

 小学生のころの、楽しいはずの旅行で、遊びのゲームルールをめぐって父と意見がぶつかったことがある。そして悔し涙を流した。そんなことが自己主張で変な影を落としているようだ。その時のことを再解釈し、父をゆるし、自分をゆるしていくと、自己主張に幅ででてきたように感じる。周りから何と言われるかは別であるが・・・

 自己主張は、自分と他人の間で行われるわけであり、自分の状態と相手の状態を確認しつつ、最上のやり方でやれば良い。表現方法は沢山ある。

 春の美しい花々、そんな優しい主張の仕方もあると思う。お説教型、言いぱなし型に固定するのではなく、さまざまな表現方法を考える価値はあるようだ。

<自己主張2/4>

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主張する美しさ!

2008-04-23 | 第五章「和解と平和」

 最近出かけることが続いているが、近代的なビルの谷間に神社があったりすると、はっとすることが多い。

 今は、どの街にいっても、同じようなコンビニ、ファーストフード店・・・といったことで、特徴がどんどんなくなっていると感じるので尚更である。

 話は変わるが、心の世界でも、マスコミや地域の文化、組織の文化、父母の影響等で、個性を発揮するより、何となく惰性で大半のことが動いていくように見える。

 その中で、何も主張せず、何も表現せず黙っているのは、いつの間にか身につけてしまった処世術かもしれない。だが、やはり言うべきこと、表現すべき時、コトがあるようだ。

 自分とは何か?つまりアイデンティティに病的なものがなく、防衛機制に病的なこともなく、さらに現実を判断したりする力に狂いがなければ、どうどうと主張し表現すべきと思う。

 自然体が一番だろうが、主張し表現すると、恵まれれば相手と深い会話が成立し、問題が解決し和解が成立する。何もしなければ事態はそのままか悪化する一方なので、主張したり表現することは大切だ。

 自己主張をして良かったこと。反対に失敗したこと。痛い目にあったこと。ここでは、自己主張について考えたい。

<自己主張1/4>

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花水木が咲き幸せ。平安感の継続する暮らし!

2008-04-22 | 第五章「和解と平和」

 桜が散るころから、力強く咲きだした花水木(ハナミズキ)。晴天、風の日、雨の日、いつもその存在感は変わらない。桜の返礼で、米国が日本に送ったという花だけに、光るものがある。

 感情表現という、昔の私にとってはちょっと意外なものが、生活の中で重要だということを学んできた。

 感情は忙しかったり、人間関係などで大きく変わってくる。ただ、一日の生活を観察してみると、ずっと暗い感情が支配するようだとまずいようだ。心身ともに悪い方に向かうように思う。

 ちょっと間を置いたりする余裕がなくなり、感情表現が下手になる。

 日常の中で、ちょっとしたことに幸せになること。生き甲斐の心理学では、幸福曲線というが、そうした明るい感情を大切にすることがとても重要だと思う。

 サラリーマン生活のまっただ中で、朝、通勤時に一駅回り道して通ったことがあった。運動不足解消が目的であったが、街路樹に花水木や百日紅(さるすべり)があり、こころを和ませた。

 あのときの、ちょっとした幸せの積み重ねが、意外に窮地を救ったようにも思う。

 五感からくる、ちょっとした平安感・・・大切にしたい。

  <感情表現4/4>

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無口になりたい時、タンポポの綿毛!

2008-04-21 | 第五章「和解と平和」

 この数週間の感情の流れを反省すると、殻に閉じこもるようなこころの動き、チベット死者の書の80自性の分別の心でいうと、「ものをいいたがらない心の動き」が多かったように感じる。

 天井裏に隠れたころのことを思い出したり、なにか深層を流れる原因があるようにも思う。新しい仕事に移行するなど、最近忙しく動き回っていたためかもしれない。

 昨日の夕方に、ご近所を犬を連れて散歩した。美しい花々が咲き乱れ、公園でも見られない美しい光景が続いており、良かったなと思った。

 その中で、風も殆どない野原に、タンポポの沢山の綿毛がこころに引っかかった。ふわふわと風に吹かれて飛んで行く綿毛。丹精込めて育てられた草花と違って、いつの間にか咲いたタンポポの生きる力でもある。

 自分の感情を生活の中ですべて、感情をすべて言って表現していたら、当然まわりと喧嘩になる。特に暗い感情はなおさらである。

 こころの中が人にストレートに言えない感情だらけになっていると、無口になってくるようだ。そして、無口をさらに助長するような、傲慢のような固い意識がどこかに湧いてくる。

 この、、「ものをいいたがらない心の動き」になのだろうか。

 ものをいいたがらない意識。そのために、必要なことを言わない。そして、和解への扉が閉ざされたり、良かった関係が悪化したり、生き甲斐への道から遠ざかったりする。

 綿毛のように、旅立ちを待つこと。微かな春風にも空に舞いあがれるように準備することが重要なのかもしれない。

  <感情表現3/4>

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