自分のした行動をAと思っていても、Bと解釈されてしまう。誠意をこめてお話しても、主張しても事態は一向に改善しない。そんな時、それが親しい人であればあるほど、ショックは大きい。
先日読んだ古事記の中に有名な、海幸彦、山幸彦の神話がある。山幸彦が無理にお願いしてやっと兄の海幸彦と道具と交換し、釣りをしたのは良いが、大事な兄の釣り針をなくしてしまう。
自分の十塚の剣から、500、1000の釣り針を作って弁償しようとしても、許されない。山幸彦は海岸で途方にくれ嘆き悲しむ。山幸彦が陥った苦悩は深かったのだろう。
ある日突然、晴天の霹靂のように襲う不幸な出来事。必死の話し合い、自己主張も無力である。自分のAという解釈も暗礁に乗り上げる。人生にはそうした時がくることがある。ただ、そういう時は見方を変えると、より人生を深く生きるためのチャンスではないだろうか。
神話では、そこに山幸彦を助ける塩椎神がきて助け、また豊津見神が親切にも失った釣り針を探し出してくれる。そして、話は展開し最後には海幸彦を懲らしめ、服従させてしまう結末になっていく。
神話を読んでいると、日常の倫理道徳を越えて、世界が広がっていることが判ってくる。この山幸彦の話も、美しい桂の木や井戸を通しての豊玉びめとの出会いなどもあり、ゆったりした流れの中で、苦悩を越えていく何かを学ぶ。
神話は真善美の世界とどこかで繋がり、私たちが辛い思いをしているときに、それを受容していく術を語ってくれているようだ。
<自己主張3/4>
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尚、このブログは「生き甲斐の心理学」を参考にしています。