イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ホンネにも深さがあるようだ!

2008-04-12 | 第五章「和解と平和」

 良く考えてみると、ゆるしや和解は日々何回も経験しているように思う。妻や親子、職場、気楽な集まり・・・いろいろあるが、頻繁にゆるしと和解が繰り返されている。

 身構えてゆるしや和解を考えるケースは、複雑な要因が重なり、簡単にゆるしたり和解できなくなっているケースなのかもしれない。そして、悔いのない人生を歩むために、重要な気づきへの兆しかもしれない。

 ここでは、自分と他者との和解を中心に考えていくが、その時に重要なのは、まず自分の本音である。本音と建前とよく言われ、誰でも本音と建前を持っているように考えられている。

 7歳のアラスカに家族でいた時。父から叱られたことがあった。何故叱られたかは忘れてしまったが、父が話したことは、断片的に思い出すことができる。どうも建前、本音の両方を説明しつつ叱ってたように思う。

 自分も20年前頃には、その時の自分と同じ年の娘に叱った。建前は、社会通念や家庭での立場、その他から来ている。本音は、自分のその時の感情・思考から来ているのだろう。

 本音は、人の体感、感情と密接に結びついているようだ。そして、感情の意味を掘り下げる中で、思考も変わり感情も変わったりする。本音と思う自分の思考も、親のしつけや環境の影響など、本来の自分からの思考でないことが多い。利害得失など雑音もじゃまをする。

本音にも深さがあるように思う。本音を掘り下げていくと、お花畑のような新たな地平が見えてくることもある。新たな自分の発見である。

 ムスカリのお花畑に映る自分の影。本音を探すことは希望でもある。

<本音論1/4>

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