イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

近所の古墳!

2009-11-19 | 第二章「五感と体感」

 先日、友人より一緒に行こうというお誘いがあり、「武蔵府中熊野神社古墳」にのんびりと出かけた。神社の裏で、最近たまたま発見された7世紀の古墳である。大化の改新の時代で、恐らく武蔵の国の最高権力者の古墳だという。

 最近写真のようにすでに復元され、その上円下方墳の姿を肌で実感できる。住宅地に、こんな古墳が密やかにあったのかと思うと、感動する。

 昔は、歴史も記録が豊富な近代とか中世などに意義は感じたものの、古代や良く判らない縄文時代なんて・・・と無視ではないが、関心がほとんど湧かなかった。しかし、最近は想いを巡らせた結果か。この古墳のできた時代も、確実に自分の祖先は生きていて、その遺物などは自分と繋がった祖先と関係が深かいだろうと想うことにしている。

 これは、2の階乗で過去の祖先の数が増大し、20世代(600年くらいか)遡れば理論上100万人となることがあり(つまり、殆どそのころの祖先と血の繋がりがある)、古い時代ほど、自分にとって逆に関係は深い(赤の他人ではない)だろうと思うためである。

 近所に古墳や墳墓があることの意義。私は、7歳の時に両親と暮らしたアラスカの家がロシア人墓地やネイティブのお墓のそばだったこともあり、近所に古墳や墳墓があることは良いという感覚がある。いつも温かいまなざしに守られていたような感覚である。

 そういえば、この古墳の隣には幼稚園があり、園児の皆さんが遊んでいた。子供にとって、近くに古墳があることは、良いことだと個人的には思う。

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ソーセージ大好き!

2009-11-18 | 第二章「五感と体感」

 食べ物というのは、生育史との関わりもあるのだろうか、特別な思いというのがあるようだ。特に初めて食べたものは、その時の驚き感激とともに生涯こころの何処かに残っているものかもしれない。

 1951年生まれの私は、その時代背景もあるのだろうか、思い出深い食べ物というと次がすぐさま出てくる。

 コロッケ、バナナ、ソーセージ、お雑煮、トンカツ、チョコレート、アイスクリーム、お屠蘇、ファ○タ、養○酒、リポ○タンD、・・・・ナツメロもあるがナツショクもあるようだ。

 その中で、ソーセージがある。当時はソーセージといと魚肉ソーセージが定番で、豚肉から作った家庭向けソーセージの存在など知らなかった。そして、7歳の時両親とアラスカで暮らしたのだが、その時に食したソーセージが忘れられない。今では、普通のソーセージであるが、魚肉ではない。それが驚きであり、自分で、冷蔵庫から出してオーブンの上で焼いて食べた。その時の感激が忘れられないのだ。

 おいしい懐かしい食事は、こころの何処かにある幸福感スイッチを入れてくれるみたいだ。今日のお昼。久しぶりにソーセージでも食べようか!

(「五感から」 2/16)

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≠ (not equal) から= (equal) へ

2009-11-17 | 第二章「五感と体感」

 先日Aさんから、直球のご質問を頂いた。何故転職されたのかという問いである。その時は、幾つかの理由を挙げて、ご説明した。しかし今になって、ふと思いついたのは。あるポイントである。
 
 2003年まで、外資系企業に勤め競争社会のまっただ中にあった私は、社会のムードもあったかもしれないが、差別化、差異化が生き方の特徴だったように思う。仕事でもマーケティングの仕事が多かったが、同業他社との差別化、差異化について多大な関心と労力をかけたように思う。生き方そのものも、知識偏重で何か殺伐として競争、戦い、分離、選別・・・に力点が。他者否定や自己否定に陥りやすい 記号でいうと ≠ (差異化?)志向だったようだ。

 そして、外資系企業をやめて6年たったわけであるが、その後は「生き甲斐の心理学」学んだり、福祉の仕事や教育の仕事をしてきた。それは、一言でいうと、本質的な協調や支援、平和、統合、共生・・・。記号でいうと共感溢れる = (同一化?)志向なのである。では = 志向に重要なのは何だろうか?それは、五感と体感の重視かもしれない。

 日々、五感と体感を重視し、決して知だけを特別視しない。腑に落ちることを重視する暮らしは生活を楽しく、イキイキとさせる。

 さて、石川啄木は「一握の砂」を書き、そして、結核で命をおとす前に「悲しき玩具」を書いた。その詩集を書く時の心持を次のように表現している。以前引用した箇所であるが、もう一度引用する。

  「人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるやうな、(省略)、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験してゐる。多くの人はそれを軽蔑してゐる。軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。」

 五感と体感を大切にすることと同じことではないか?

(「五感から」 1/16)

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七五三はめでたいが・・・

2009-11-16 | 第二章「五感と体感」

 先日、大国魂神社に友人と久しぶりに訪れた。丁度、七五三で幼い子供を連れた家族連れが沢山参拝されていた。

 初参り、七五三、ちょっとニュアンスは違うがカトリックの幼児洗礼・・・子供の幸せを祈り、成長を祝う家族や共同体の愛は人類普遍のものなのであろう。大切にしたい。

 ただ、日常の中では、親は子を傷つけがちである。子供は当然ながら、まだ充分に成長していないため、親の言動はある意味で絶対である。そのため、ちょっとした一言、あるいは生活の中全体で育んできた文化的なもの、・・・親はそう意識しなくても、子供にとって生涯を通しての憂鬱の原因となったりする。自戒をこめて、子供を大切にしたいと思う。

 私は、成人しそして50歳台の後半の人生を送っている。生き甲斐の心理学を学んでいるため、幼いころのことを、時どき想いを巡らす。先週、啄木の生育史や書簡集等に触れていたとき、ふと重い感情に気付いた。

  その感情の意味はよく判らない。原因もよくわからない。 丁度、五感と体感という章に入る。のんびりと、五感と体感を聴きながら、考えていきたい。自分のストレス曲線(暗い感情)から入り、体験の解釈を変えることで、新たな世界が切り開かれるかもしれない。

(総論 1/1)

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よろこびもて水の音聴く!

2009-11-15 | 第一章「意識と知覚」

 「一握の砂」は、感情の曼陀羅のカンズメのようだ。沢山感動を与えてくれるが、まだ自分にとって消化できない感情の動きを描いた詩も沢山ある。自己否定・他者否定スイッチもある。豊饒だが危険なジャングルのようである。豊かな恵みもあるが、毒虫もいる。

 ただ、その中で 「一握の砂」の旅は、期せずして自分にいろいろな前向きな気づきをもたらしてくれた。それは、、優秀なガイド(生き甲斐の心理学)があったからだと思う。もしこのガイドなしで、例えばクールな分析でラッキョウの皮をむくように自分を剥いて還元して行ったら、病理の世界に向かう危険もあった。

 さて、ちょうど、この一連のブログを書いていた只中で、昨年の11月13日に亡くなられたAさんの文集を読み想いを巡らす機会があった。Aさんに最後にお会いした時、「5万年前」を題材に楽しく話したことを覚えている。ただ、もう長くは生きられないだろうとポツリと言われたことが寂しかった。

 福祉とは何か、生きるとは何か・・・いろいろ背中で教えてくれたAさん、天国で忘れないで待っていてほしい。

 再開のときは、啄木の詩のようによろこびたい。

長く長く忘れし友に

会ふごとき

よろこびをもて水の音聴く

 (一握の砂 16/16)

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