イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

視点が変わると世界が変わる!(心の健康度 ① 3/10)

2014-04-15 | 第三章「無意識の世界」

 「村上海賊の娘」をのんびり読み進めているが、主人公の景が広島県吉名付近の一向宗の門徒といっしょに、堺に船で向かう場面はいろいろ楽しかった。というのも、私の父の実家付近や若いころ大阪で働いたころの堺や岬町付近の話もでてくるからだ。何か、自分の人生が、この本を味わうために歩んできたのかなと思わせるところがある。

 陸路で、大阪から広島方面に行き来するのは、実に幼いころから今まで、何べんもあった。しかし海路となると、考えてみれば一度もないのである。昔、東京の隅田川でクルーズをしたことを思い出す。東京も陸路から見る景色と海路から見る印象はまるで違うのだ。同じ勝鬨橋でも、実に印象が違うのである。

 さて、「生き甲斐の心理学」では、暗い感情を明るい感情に変える仕組みを大事にして、生活の中で役立てるのであるが、その中で「体験の解釈が変われば、世界が変わる」というセオリーがある。

 私は、若いころから創造工学に興味をもち等価変換創造理論を研究したが、この理論の中でも視点が大事である。こちらの視点を簡単に説明すると、例えばガスコンロの火がある。これは酸素をたくさん含むと明るくなり灯のようになるが、逆であると暗くなり明かりとしては使えなくなる。しかし、熱量としては暗い青白い炎の方が高いのである。暗い暗いと言っていても、視点を変えれば火力が強いというメリットがあるのだ。

 これと、同じように、心の悩みも考え方次第で随分違う。結婚を素晴らしい門出だと思う人がいる反面、墓場のように感じる人もいる。早期退職制度で先に不安を感じる人がいる反面、転職の好機と感じる人もいる。人それぞれ、長い生育史を背負ってきているので、その人の観かたは、その人なりで他人が意見しても、あるいは自分でポジティブ思考だと考え直そうとしても簡単に変わらない。それも事実なのだろう。

 ただ、理論も役に立つこともあるのも真実で、「生き甲斐の心理学」の学びを深めていくと、それこそ嫌いな人が好きになったり、何かが大きく変わる。ポイントは自分の感情を見つめ(ストレス曲線を大事にする)ながら、考え方や行動を変えて行くのである。その変化のなかで、こころの健康度が急に増したりもする。

 広島県は私の実家もそうであるが、安芸門徒(浄土真宗)で16世紀の一向宗の影響が強い。小説では吉名の安芸門徒が景といっしょに大阪城を目指す。大坂本願寺が観えて来たとき、安芸門徒は感動の中で涙を流すのだが、景は特に宗教を信じないので涙を流すことはない。このあたりの描写もとても面白い。

心の健康度 ① 3/10

人気ブログランキングへ <・・クリック応援いつも感謝しています o(^▽^)o 


自分は何のために生きているか?という自問自答!(心の健康度① 2/10)

2014-04-14 | 第三章「無意識の世界」

 「何の為に生きるのか?」という自問自答は、心の健康にとっても大変有意義だと言うと眉をひそめる人がいるようだ。「青年時代ならともかく・・・」。そんなニュアンス。そこで、自分のとって「何の為に生きるのか?」の自問自答を今日はいろいろ思索してみた。

 私の青春時代の自問自答の中には、ハムレットではないが、To be、or not to be・・・といった、生き抜こうという前提条件のない自問自答をしていたように思う。そして、想うのだが、こうした生き抜く決意がはっきりしない自問自答は、どうもいただけない。真善美の世界から離れる問いかけになってしまうので、変になる。その意味で、「何の為に生きるのか?」の自問自答に眉をひそめるのは正しいのだろう。

 私の自問自答は、青春時代の怒涛を過ぎてからは、いつのまにか生き抜くことが前提になっていったようだ。そして、「何の為に生きるのか?」という自問自答は、自分の正中線というか根というか、そういうものを自問自答しつつ、今の環境に動揺する自分の揺らぎを正す自浄作用に変わって行ったと思う。正すというのは、ちょっと不正確で、自分を俯瞰する視点を思い出すというか、何かそんな感じである。

 自分の中に湧きたつ環境からくる魑魅魍魎のような感情の流れ、これを雑念と呼ぶのだろう。この雑念の中で、この自問自答は心を落ち着かせる祈りのようだ。あるいは祈りそのものかもしれない。昨晩、道をあるきつつ、「何の為に生きるのか?」を何回もとなえてみた。それは、将来の状態を問うかの問いかけのようで、既になされた過去や今への、満ち足りた感謝をささげる祈りのようでもある。

 さて、湧き起こる感情をうまくとらえ、それを生きる糧にしていくことは、心の健康尺度の一番目、感情と個人的な意味づけに関係が深い。

 これは訓練で鍛えることができ、私は、U先生に教えていただいた、エゴダイナミクスノートを使うようになった。人に見られてはいけないが、自分の怒りとか様々な感情や想いを秘密のノートに書き連ねるのである。

 そして、後日何回も見直したりするだけでなく、それを、自他肯定的に感情の意味を思索していく。あるいは、生き甲斐の心理学を学んでくると防衛機制の知識なども深まってくるので、その面から自分の隠れた感情、意味を思索していくのである。

 このエゴダイナミックスノートと「何の為に生きるのか?」という祈りのような自問自答をし続けるうちに、何かが観えてくるはずだ。今週は復活祭(イースター)の前の聖週間。自分の正中線を糺すよいタイミングでもある。

心の健康度 ① 1/10

人気ブログランキングへ <・・クリック応援いつも感謝しています o(^▽^)o 


村上水軍の御姫様の健康度!(心の健康度 ① 1/10)

2014-04-13 | 第三章「無意識の世界」

 桜も散ってきて、ちょっと寂しい感じであったが、昨日、京王フローラルガーデン アンジェに行って驚いた。様々な種類のチューリップあり、忘れな草あり、八重桜、モクレン・・・・が咲き誇っていたのだ。同じ地球の生命を司るDNAの神秘からつくられた生命なのに、これほど多様なのかと驚いた。

 

 さて、花も多様だが人も実に多様である。同じ地球に今では72億人近い人が住んでいるが、多分想像を絶する多様性があるのだろう。

 そんな人間の多様性の中でも、例えば身体の健康を計るには、体温計一つで異常かどうかが結構判る。そして心の健康度、正常か異常かもは判る方法があるのである。

 今、読んでいる「村上海賊の娘」(和田竜著)は実に面白く、ブログを書いている時間がおしいのであるが、この本でも、当時の常識からは醜女とされている景(キョウ)の美醜が話題になっている。16世紀後半の日本では景は醜女であったが、外国人の多い堺での価値観(今の日本の価値観)からすると美女かもしれないというのである。

 私も、それなりの人生経験の中から、ある一つの集団の常識や価値観が、他の集団からすると、一つも常識的でなかったりすることを学んできた。介護・看護業界では、下(しも)の話題をしつつカレーライスを食べるのは別に当たり前だが、別の業界ではどうだろうか?そんな風に、当たり前や常識は業界、文化、時代で大きく変わる。

 生き甲斐の心理学の師匠であるU先生も若いころ、イギリスの名門大学で心理学を学んだそうだが、その時も様々な国の多様な価値観に驚いたそうだ・・・つまり価値観などからは、人の正常か異常を計る標準が観えにくいのだ。

 そんな価値観を背負った人の心を扱いながら、こころの健康度をどう測定するのか?

 その一つが感情に焦点を当てるものだったというのも頷ける。

 身体の健康を計るものには、体温計もあれば、血圧計もあり、体重計もあるだろう。時には筋力や血液検査、様々な測定方法があるようだ。

 心の健康では、客観的に簡単に測れる方法は聴いたことがないが、訓練すれば、身に着けられるプロセススケールという、カールロジャースが考案した測定方法がある。それにより、自分であっても意識しにくい心の健康状態が結構わかるものなのである。

 村上氏の姫君の美醜は相対的で不明であるが、その感情の動きは実に躍動的で健康そのもののようだ。ブログもここらで辞めて読書に戻ろう。

心の健康度 ① 1/10

人気ブログランキングへ <・・クリック応援いつも感謝しています o(^▽^)o 

 


人間の本能・見神欲と抑圧・抑制!(時間と空間の旅 ⑦ 10/10)

2014-04-12 | 第三章「無意識の世界」

 昨日は、久しぶりにオフでボランティアをしたあと、近くの友人と友人秘蔵のテレビの録画と、ちょっとビールを楽しんだ。

 古代史関係の録画も楽しんだが、ブッダの話も実に有益だった。どうしても、生き甲斐の心理学をいつも考えていることもあり、それからの考察も楽しませていただいた。

 その中で、いろいろ考えたのだが、人間の本能の中の一つ見神欲というものである。人間に与えられた本能には食欲、性欲があるが、欧米では、見神欲というもの、神仏を求める欲望を本能として考えている人も多い。厳しい修業の中で神仏を求めるという、長い歴史の中での人間の行動は、本能と言っても、見神欲としてもおかしくないと、私は思う。

 実際、神仏との出会いは現象としてあり、信じられないほどの心の開放が報告されるようだ。

 自分の生育史を考えたり、両親の神仏との関わり、祖父母の関わりなどを思索すると、その中に見神欲を想定しなければ理解できないこともあるように思う。宗教の違いという問題もある。どうしても自分の信じる宗教にこだわるところが人間にはあるからだ。また、同じ宗教といえども、勿論人によりどこかが違う(人は実に多種多様なのだ)。そして、自分が自分がと主張すれば、平和はなりたたない。

 本能は、やはり抑圧・抑制が健全に働くべき領域だと思う。そして、見神欲も同じである。

 ところで、今読み始めている「村上海賊の娘」。この本の舞台も織田信長から秀吉の時代である。ご存じのとおり、大河ドラマ「黒田官兵衛」の時代でもある。宗教史的には、この時代は浄土真宗、一向一揆の時代で、キリスト教も人口の10%くらい浸透した時代でもある。そんな中、私の祖先はどういう立場で、何を信じようとしたのか、とても興味がある。私の父方の祖先は海民系なので、ますます興味が湧く。

時間と空間の旅 ⑦ 10/10

人気ブログランキングへ <・・クリック応援いつも感謝しています o(^▽^)o 


真実にも二つのアプローチ!(時間と空間の旅 ⑦ 9/10)

2014-04-11 | 第三章「無意識の世界」

 この10年くらいを振り返ってみると、大きな変化に驚く。電車に乗っているひとも、一昔前は雑誌を読んだり本を読んだりする人が多かったのに、今はスマホが主流。情報社会の波は物凄い。情報も、私の幼いころは、情報の娯楽と言えば映画館だった。長い行列で鞍馬天狗を観たりしても、かつては消防法などあったのか?立ち見が当たり前だったし、結構高い入場料も払っていたと思う。それが、今は、そういう昔の映画は、レンタルで80円とかで気楽にみられる。情報が安価になり普及している証拠なのだろう。

 情報もそうだが、遺伝子研究や医療、そうした科学の進歩も凄く、それに影響された考古学等のリニューアルもある。心理学や哲学、宗教の世界も信じられないほどダイナミックに変わっていくだろう。

 さて、最近理化学研究所の某問題がマスコミを湧かせている。私も、理化学研究所は親しみを感じていて、関心は高く、テレビの同じような報道も飽きず観てしまう。

 その中で思うのだが、科学的な真実と、現象学的な真実の違いがこれほど浮彫にされた話はないということだ。

 私にとっての科学的真実。学生時代はまだ、電卓も普及していない時代だった、そんな中、長~時間、実験レポートを苦労して書いた記憶がある。レポートはかなり厳しくチェックされて突き返されたりした。あるとき、8ケタくらいの掛け算が並び、それを思わず計算尺でアナログ的に出して提出したことがあった。ところが、突き返された。その時、なぜ、突き返されたのか、のこのこ訊きにいったのだが、そこには高級なソニーの電卓が鎮座しており、ほら・・・違うだろと言われ納得した。手堅い科学的真実、私は好きだ。しかし手堅さゆえに、この世の多くの現象の、ごく一部しか説明しきれないということがあるのも知っている。

 私にとっての現象学的な真実。中学生の時、弁当のゴミを誰かが床に捨てたということで、それが私だという密告者?がいた。そして、授業中に私は担任の先生から呼び出され、厳しく詰問された。その時、私は無実だと心から思い、涙を流してうったえた。その涙に先生は真実を観たのかゆるしてもらった。今、考えると私の可能性は10%くらとかあったかもしれない(都合の悪いことを忘れがちなので(笑))。しかし、私の現象学的な真実は100%、やっていないであった。この立場は、今勉強している、生き甲斐の心理学では、とても大切にされている。そして、想うのだが、あの時担任のT先生が私の話を信じてくれたのは大きかったのではないかと。もし、あのまま信じてくれなかったら、私は別の人生を歩んでいたかもしれない。

 こうした、科学的真実と現象学的真実が交錯する世界。両方の真実に繋がる神様はどう思われているのだろうか?

時間と空間の旅 ⑦ 9/10

人気ブログランキングへ <・・クリック応援いつも感謝しています o(^▽^)o