前にもこの標題でブログを書いたが、今日は最近の私の知見である。
広重は武谷が三段階論によって実体の導入ということを方法論の中心にしたのに、中間子論や二中間子論においてその重要性に言及していないという。
すなわち、方論的先取に失敗したという。そしてそのことは三段階論が歴史的な法則としての資格を欠くこと、特に三つの段階間の移行の論理を欠くことと結びついているという。
特に興味ある試みとして二中間子論に注意を促していないから、方法論的先導性が否定されるという。
この広重の意見を一度否定する見解でエッセイの草稿を書いたのだが、文献的には広重の言うように二中間子の重要性に触れた武谷の書いた論文は見あたりそうにないので、事実としては広重の主張を認める見解に変えるのが正しいのではないかと思うようになった。
ところが昨夜、1943年9月に行われたという中間子討論会の記録である、素粒子論の研究 I を取り出してみたら、この討論会では坂田と谷川によって二中間子のことが述べられており、武谷自身は中性中間子について報告をしている。
それで、もちろんその中性中間子の議論の中で二中間子論についての言及はないが、普通に考えればこれは坂田と谷川の報告があるからであろうと推測がつく。
その後1945年までの間には戦争中であったということもあって、雑誌とか何かもきちんと発行されなかった。それに食べるものに困って、人々が生きるのに精一杯だった。
また、思想言論統制もあっただろうし、思想言論統制だけではなく武谷自身の特高警察による4ヶ月にわたる逮捕拘置もあった。そういう状態ではなかなか意見表明は難しかったろう。
敗戦後も二中間子の実験的な発見が1947年春になされるまでに、確かに二中間子論についての言及はないが、むしろこの点についての考察が必要なのではないかと思いはじめている。
それはそれなりの理由があるとの見解である。だが、もちろん広重の見解をなぞるようなものではないつもりだ。
この間にも武谷はきちんとした職にはついておらず、東海技術専門学校(東海大学の前身?)に教えにいくとか、文筆で食べていたという。
ちなみに武谷が名古屋大学から学位を受けるのは1949年1月である。さらにその後、立教大学理学部の教授となるのは1953年4月のことである。