私の妻は何でも自分のしたいように自由にしているように私からは思える。それで半ば冗談に半ば本気で「いつ死んでも本望だろう」と先日言ったら、それは違うという。
なぜかといえば子どもがまだ結婚していないからだという。結婚していない子が聞いたらプレッシャーだろうが、母親の心とはそんなものかと思う。
もちろん、かくいう私だって気にかけてはいるが、いまのところどうしようもない。そのうちに何とかなるのだろうと気長に構えている。こういうことは機が熟さないとどうしようもない。
神様にいま「いつでも死ねるか」と聞かれたら、自分の本当の寿命はわからないが、もう少し猶予をほしいと神様にいうだろう。
これは現在e-Learningのコンテンツの作成が少しづつ進んできているからである。もっとも演習問題をつくるのに苦労をしている。できるだけ単なる問題のための問題でないものをと思っているから、苦しんでいるのである。どこかの文献から演習問題をとってくるのなら、苦労はいらない。だが、何らかの現実に即したものであることを希望しているのだ。
また、今日は締め切りが近くなった、徳島科学史研究会の会誌への投稿原稿を推敲していた。だから、このブログを書くのが遅くなった。昨日の日曜日に文献を探していたら、自分の望んでいたのに当てはまる発言を見つけた。それでまた書く結論を修正することにした。土曜日にはまるで反対の結論にしようと文章を直していたのに。
結論は資料によるので、いくら自分がこういう結論にしたいと思っていてもその通りになるとは限らない。