昨年だったか、一昨年だったか妻の従兄が関が原に案内するから一度訪ねて来なさいというので、従兄のところを訪ねたことがあり、そのときに関が原を訪ねたことがあった。
そのときにその土地の博物館を訪ねたら、地元の人の多くは三成びいきであり、家康はタヌキ親父のいかさまやろうという感じであった。私なども小さい頃はそんなことを思っていたかもしれないが、いまではそんな印象はもうもってはいなかったので、その意外さに驚いた。
これは三成が武将としてはあまり戦いが上手ではなかったかもしれないが、三成の治めていた地元ではいい政治を行い、藩民からは慕われていたらしいことを知った。そこらへんが秀吉恩顧の武将たちの多くが三成には従わず、家康についたところと大きなギャップがある。
関が原を訪れたときにも観光客の私たちのまわりをうろちょろする、気の変な人がいたが、その後気が変だとまではいえないかもしれないが、関が原にはちょっと変った人が住んでいることを最近も従兄が文章にして知らせてくれた。
これは従兄が3,4人の人と関が原の古戦場を散策していたときに、付近のあぜ道で草取りをしていた、老人から抜き身の日本刀をもった写真を撮らないかと言われて従兄を除いた3人が抜き身の日本刀をもった写真を撮ったという。
この老人は地元の小学校の校長先生だったとか名乗り、また日本刀は登録をしていると話したという。それにしてもそんな行為は銃刀法違反ではないかと妻は言っていた。従兄はこの人を三成の亡霊だいう風に解釈をしている。
ひょっとしたら、この話は私たちと従兄の友人たちを楽しませるための、従兄の創作であるのかもしれない。岐阜県の県警さん、あまり真面目にお取にならないようにしてください。