ドイツ語のクラスで先生のR氏が使う語彙が最近難しくなってきた。
少なくとも私はそう感じている。というのは以前は大抵R氏の話すことは大体分かっていたつもりだったが、最近R氏のいうことが精確につかめなくなった。これは単に私の問題だけなのであろうか。
確かに私たちのクラスは中級のクラスであって、初級のクラスではないが、それでもそれほど上級のクラスではない。だが、R氏が意識的にクラスのメンバーの実力を高めるために少し程度を高めているのだと推察される。
昨晩も彼が大学で受け持つ本来の講義担当以外に5つも余分の講義をしているとの話があった。これは彼の個人的な負担でなされていることであり、そのことで彼の給料が上がったり、彼の業績が評価されるわけでもない。
いや、評価はされても昇進やその他のことにはつながらない。そういう意味である。
もっとも私はちょっと了見が狭すぎるのかもしれない。教育の本当の価値はその教育を受けた学生が数年あるいは数十年経って評価することであり、現在の大学当局の評価ではない。
それはわかっているのだが、ちょっとそれでもR氏の長年の友人でもあるので、彼が壊れてしまわないかと心配である。
R氏が数十年前に松山にやってきた時にはその当時片言でもドイツ語を話す人はいまと比べてとても限られており、Srechstundeという面会時間に彼の部屋まで行って彼と話したりする人はドイツ語を専攻する一部の先生と私ぐらいではなかったろうか。
その当時も今も私のドイツ語は片言の域を抜けていないが、やはり片言でも自分の母語ではない言語で話ができるということは本当はすごいことであろう。
もっとも最近は日本語を流暢に話す外国人がテレビなどにたくさん出てくるので、私などがいつまで経っても片言しかドイツ語を話さないことは努力にかけていると言われても一言もない。
ただ、それは日本という社会にどっぷりとつかって外国人が日本語を話せるようになるのと、そういう環境にはなくて、日本人がいずれかの外国語を話せるようになることは自ずから違うと思う。
もっとも外国語の達人と言われるような人は別に外国に出かけなくても多くの外国語を習得するらしいから、横着な者のものの言い方であり、心ある人から見れば、まゆをひそめるようなことであろう。