物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

うまい魚を食べるには

2013-05-07 13:06:50 | 食・レシピ

今日は火曜なのでまたまたTEDカンファランスの話である。

Dan Barberはレストランの腕利きのシェフである。あるとき旨い魚の料理を食べて感心してその魚を提供した養魚場にどうやってその魚を育てて、どんな飼料を使っているのかを尋ねたことがある。

そのときに会社の代表者もどのような飼料を魚に与えているかはわからなかったので、つぎつぎにたらいまわしにされて、最後に飼育に携わっているある生物学者のところへ電話が回ったという。

そして結局わかったことは飼料として魚に与えられているものは、チキンだということがわかって幻滅をした。これはもちろんアメリカ国内のことである。

もう一つはスペインの話で、ある会社が広い範囲の沼沢地の水をすべて川に流すようにしたら、そこは不毛の地になった。そしてその会社は結局そこから撤退を余儀なくされた。

そこを買ったのは環境に関心をもっているある企業でこの企業は前の企業ととは全く正反対のことを行った。すなわち、自然の生態系の循環を大切にした。

その結果としてそこからはとてもおいしい魚がとれるようになった。ダンがその養魚場で取れた魚を食べたときにその魚は焼きすぎだったというが、それにもかかわらずとてもおいしかった。

それでダンはその養魚場のことを調べて、その責任者のミゲルに質問した。どのような養魚場がいいのかと。そしてわかったことは自然にしてその自然環境に渡り鳥のフラミンゴが来てそこで十分鳥たちがお腹を満たすことのできるような環境だという。

もちろんフラミンゴは自然の環境の一部としてその典型として挙げたものであって、そのほかのあらゆる自然環境に生息する生物が重要である。

一見経済性とは相反する自然な環境がいいということであった。それで最上の養魚場とはいろいろな生物がその天敵も含めてバランスをもって生活できているようなそういう自然な環境である。

ミゲルは魚の飼育の専門家ではなかった。彼は環境が調和をとれて、均衡していることを気にかけている。そういう人が結局は最上の「養魚場」である、自然環境をつくることに尽力したから最高の魚がとれた。

ダンの発見は極めて自然なところへ落ち着いたが、そういう再発見を人間はしなければならない。


円安で企業は日本に帰るか

2013-05-07 12:02:16 | 社会・経済

「円安で企業は日本に帰るか」という課題は国の経済政策にかかわる。

昨日の朝日新聞を読んだら、どうもそれはあまり期待されないという結論だった。リフレ派の経済政策では「円安で企業は日本に帰る」と期待しているが、どうもそういうことは起こりそうにない。

私は根底からそういう経済政策に疑問をもっていて、そういう考えではもういけないのではないかと思っている。

だが、どうしたらいいかというのはなかなかわからない。教育を十分にして知的レベルが他のAsean諸国とか、韓国とか中国とかよりも高くならないといけないのではないかと思ったりしているが、これだって望み薄である。

韓国は受験競争が日本よりも過酷なところである。アメリカへの留学者も日本よりも韓国人の方が2倍以上多いとかいう。

中国のエリートのレベルはすごいものらしく、東大を卒業して朝日新聞の記者になった、日本での優秀な方がいつだったか書いていたが、中国のエリートの学生の能力とパワーにはアメリカの大学に留学したときに脱帽だったらしい。

そう考えてくるとなかなか日本の国の希望はあまりない。私などが数学の教育教材としていろいろなことを調べて数学エッセイとして書いていることなども実はそういうことを少しでも何とかしたいという気持ちの表れなのだが。

しかし、私の数学エッセイなどが重要なものとして受け入れられる雰囲気は国全体としてはあまりない。

むしろ、一部のエリートの人たちを除いて、日本ではあまり教育には関心がない。また、経済的に困窮した家庭などで小学校とか中学校等への両親からのクレイ―ムが強いとも小学校の先生たちから聞く。

モンスターペアレントとか言われている。ところが、これは実は社会で働くのに適当なところがなくて、収入が十分でないことの憂さ晴らしとして学校に注文をつけるようなところもあるとか。

そうなると、どこかでこういう悪い連鎖の鎖を切らなければならないのだが、なかなか難しい。

そして企業は生活のレベル差の賃金の安さに引かれて、海外に出て行ってはもう日本には帰って来ない。

中国がダメなら、ベトナムがあるさ。ベトナムがダメなら、インドがあるさ。インドがダメなら、アフリカがあるさ。・・・・。

もちろん、行けるところまで行くしかないのが、現実ではあろうが、それにしては知恵がなさすぎるのではないか。上に述べたような根本のところから考えて解決をすることがやはり望ましい。