物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

形而上学

2015-02-09 11:45:43 | 日記
形而上学といわれてすぐわかるようなら、あなたはよほどの哲学通であろう。

私は形而上学といわれてもそれが何をさすのかあまりはっきりしなかった。形式論理学的な思考方法であり、これは弁証法的な思考ならなんでも流動的に考えて固定的には考えないという考えと対立した概念であるというくらいのことしか知らなかった。

もう半世紀も前の昔のことになるが、大学院の英語の試験でmetaphysicsという語が出て来て、物理学専攻の私たちの多くがmetaphysicsをメタ物理学と訳したという話があった。私はたまたま形而上学という用語を知っており、その用語を使って訳をつけたのを覚えている。しかし、多くの私の同級生にとってmetaphysicsはメタ物理というのがせいぜいであった。

朝食後のその話になったら、妻が早速スマホで調べていたが、なんだか難しい説明でよくわからなかった。それで思いついて武谷三男の『物理学入門』(季節社)に収録された『自然科学辞典』の武谷の書いた項の説明に形而上学がないかを調べた。

(引用はじめ)アリストレスにおいて、現象についての学は形而下すなわち経験的な対象を扱うものとして、これを物理学と名づけられた。そしてその後ろに来るものとして、実在の学として、形而上すなわち超経験的な対象を扱うものとした。すなわち超経験的対象の学である。(中略)

対象を個々の部分へ分解し、それらの連関、発展変化を無視してとらえることであった。これは一面において有効であるが、それをその限界外にまでひろげ固定化してしまうとき間違いがあらわれる。すなわち形而上学的思惟方法とは、固定化し絶対化する考え方である。(引用おわり)

形而上学的な考えとは弁証的な考えに対するものであると思われる。弁証法についても『物理学入門』(季節社)から一部を引用しておく。

(引用はじめ) 古代ギリシャにおいて論争の方法として、相手の判断のうちの矛盾を明らかにしてこれを克服する術のことを呼んだ。後(で)弁証法は一般的連関と発展に関する学説となった。すなわち現象を運動、変化するものとして捉え、自然の発展を自然の矛盾によるものとする。(後略)(引用おわり)

きらめく知性・精神の自由

2015-02-09 10:43:52 | 日記
『きらめく知性・精神の自由』(桐書房)は約40年間もの長い間、都立戸山高校の数学教師だったが武藤 徹さんが2013年に出されたパンフレットである。

その出版記念シンポジウムが2月7日午後3時から6時まで新宿の早稲田奉仕園スコットホールであった。私はインターネットで武藤先生と数年前からおつきあいができていたので、上京してこのシンポジウムに出席した。

このシンポは2003年に東京都の教育委員会が日の丸・君が代を強制した10.23通達を出したということに対して元戸山高校の数学教師だった武藤先生がそれを憂慮したパンフレットを出版したことを記念して、遅ればせながら戸山高校の卒業生たちが出版記念という体裁をとりながら、その風潮に反対する集会であった。

ゲスト・スピーカーは市川須美子と浜矩子さんであった。この2人の講演の後に参加者から5分間のスピーチが15人ほどあった。いずれもなかなか示唆に富んだ問題提起や行動の報告でもあり、なかなかきびきびしたものでもあった。

ゲスト・スピーカーの一人の講演の内容が私の気に入らなかったが、そのことは一応おいておく。

シンポが始まる前に武藤さんにはじめてお会いして10分か15分の話ができた。やさしい中に厳しさをもった方とお見受けした。卒業生の方々の尊敬を一身に集めておられるのがわかるような気がする。

卒業生ではない方々で労働運動をしておられる方とか父母の会で33年間も学習会を一緒にされてこられた方の発言は生き生きとしたものであり、先生の活動の一端を知ることができた。

私は懇親会には参加せず会の後は先生にはあいさつもせずに黙って失礼をした。武藤先生によれば、このシンポのためにほぼ30人の実行委員が協力されたと聞いた。参加者数は200人を越えるものであり、収容定員200人といわれる会場には人ひとであふれていた。