形而上学といわれてすぐわかるようなら、あなたはよほどの哲学通であろう。
私は形而上学といわれてもそれが何をさすのかあまりはっきりしなかった。形式論理学的な思考方法であり、これは弁証法的な思考ならなんでも流動的に考えて固定的には考えないという考えと対立した概念であるというくらいのことしか知らなかった。
もう半世紀も前の昔のことになるが、大学院の英語の試験でmetaphysicsという語が出て来て、物理学専攻の私たちの多くがmetaphysicsをメタ物理学と訳したという話があった。私はたまたま形而上学という用語を知っており、その用語を使って訳をつけたのを覚えている。しかし、多くの私の同級生にとってmetaphysicsはメタ物理というのがせいぜいであった。
朝食後のその話になったら、妻が早速スマホで調べていたが、なんだか難しい説明でよくわからなかった。それで思いついて武谷三男の『物理学入門』(季節社)に収録された『自然科学辞典』の武谷の書いた項の説明に形而上学がないかを調べた。
(引用はじめ)アリストレスにおいて、現象についての学は形而下すなわち経験的な対象を扱うものとして、これを物理学と名づけられた。そしてその後ろに来るものとして、実在の学として、形而上すなわち超経験的な対象を扱うものとした。すなわち超経験的対象の学である。(中略)
対象を個々の部分へ分解し、それらの連関、発展変化を無視してとらえることであった。これは一面において有効であるが、それをその限界外にまでひろげ固定化してしまうとき間違いがあらわれる。すなわち形而上学的思惟方法とは、固定化し絶対化する考え方である。(引用おわり)
形而上学的な考えとは弁証的な考えに対するものであると思われる。弁証法についても『物理学入門』(季節社)から一部を引用しておく。
(引用はじめ) 古代ギリシャにおいて論争の方法として、相手の判断のうちの矛盾を明らかにしてこれを克服する術のことを呼んだ。後(で)弁証法は一般的連関と発展に関する学説となった。すなわち現象を運動、変化するものとして捉え、自然の発展を自然の矛盾によるものとする。(後略)(引用おわり)