このブログで「ギリシャの教育」という題でギリシャでの経験をファインマンが家族に手紙に書いたと述べたが、その原文はつぎのようである。
F. J. Dyson, "The Scientst as Rebel "(New York Review Books, 2006) (p.279-280)から引用した。ダイソンの3行の前置きから書いておこう。
(引用はじめ)
The Athens story describes how the Greek educational system, with its overwhelming emphasis on the glories of classical Greece, gives children a bad start in life, teaching them that nothing they do can equal the achievements of their ancestors:
They were very upset when I said that the thing of greatest importance to mathematics in Europe was the discovery by Tartaglia that you can solve a cubic equation---which, altho it is very little used, must have been psychologically wonderul becasuse it showed a modern man could do something no ancient Greek could do, and therefore helped in the renaissance which was freeing of man from the intimidation of the ancients --- what they are learning in school is to be intimidated into thinking they have fallen so far below their super ancestors.
(引用終わり)
残念なことにこの箇所は日本語の訳書では省かれている。この部分が省かれた理由はこの訳書のどこにも見当たらない。
(2015.3.2 付記) 昨日訳書をよく読んだところでは理由はあからさまに書いてはいないが、他の訳書の中にその内容がすでに紹介または訳出されているためらしい。本が大部になるために省いたという断り書きがあるが、もっとも省かれた部分の全部が全部日本語に訳出または紹介されているわけではなさそうである。
2010.11.22のこのブログの前身のphysicomathで「ギリシャの科学」と題したエッセイを書いた。
これを「虚数の存在とカルダノ方程式」という最近書いた数学エッセイで引用しようとして、その元の原典であった、フリーマン・ダイソンの『叛逆としての科学』(みすず書房)を参照しようとしたら、その英語の原著がどこにあるかわからなくなっていた。
それでしかたなくあわててインターネットの古書でこれを購入して該当箇所を探してみたが、どこにもない。それが昨日のことである。ところが今朝、目を覚ましてベットの横を見たら、なんと原著があるではないか。昨日、一昨日に探したときに見つけられなかったのに。
それで私がブログのネタにした箇所があるかどうかを調べたら、ちゃんとあった。ところがこの箇所が訳書の方にはない。
訳書のまえがきにファインマンについての章の2つを掲載していないとは書いてあるが、なぜその個所を訳出掲載しなかったのかは訳者のあとがきにも出ていないようだ。
まるで私がウソをついてでもいるかのように思われるではないか。もっとも私も訳者あとがきをよくは読んでいないので、ひょっとしたらどこかに書いてあるのかもしれないが。
多分すでにどこかに訳出されて、そこで読めるという理由で訳出がされなかったのだろう。それにそこを訳出して掲載すると本としての部厚さと値段が跳ね上がるということもあったのかもしれない。それにしてもどこかにそのことの言い訳をすべだと思うが、なぜしないのだろう。
まったく不忠実な訳書である。不忠実なのはまあいいとして少なくとも理由を書いて読者にことわるべきだろう。
なお、この訳書の書評として読むべきものがアマゾンコムの中に「場野量子」というペンネームで出ている。これは私たちのよく知っている物理学者の N 先生であろう。さすがに N 先生の見るところは鋭い。大物理学者のダイソンといえどもおかしいところはおかしいと言われている。
これを「虚数の存在とカルダノ方程式」という最近書いた数学エッセイで引用しようとして、その元の原典であった、フリーマン・ダイソンの『叛逆としての科学』(みすず書房)を参照しようとしたら、その英語の原著がどこにあるかわからなくなっていた。
それでしかたなくあわててインターネットの古書でこれを購入して該当箇所を探してみたが、どこにもない。それが昨日のことである。ところが今朝、目を覚ましてベットの横を見たら、なんと原著があるではないか。昨日、一昨日に探したときに見つけられなかったのに。
それで私がブログのネタにした箇所があるかどうかを調べたら、ちゃんとあった。ところがこの箇所が訳書の方にはない。
訳書のまえがきにファインマンについての章の2つを掲載していないとは書いてあるが、なぜその個所を訳出掲載しなかったのかは訳者のあとがきにも出ていないようだ。
まるで私がウソをついてでもいるかのように思われるではないか。もっとも私も訳者あとがきをよくは読んでいないので、ひょっとしたらどこかに書いてあるのかもしれないが。
多分すでにどこかに訳出されて、そこで読めるという理由で訳出がされなかったのだろう。それにそこを訳出して掲載すると本としての部厚さと値段が跳ね上がるということもあったのかもしれない。それにしてもどこかにそのことの言い訳をすべだと思うが、なぜしないのだろう。
まったく不忠実な訳書である。不忠実なのはまあいいとして少なくとも理由を書いて読者にことわるべきだろう。
なお、この訳書の書評として読むべきものがアマゾンコムの中に「場野量子」というペンネームで出ている。これは私たちのよく知っている物理学者の N 先生であろう。さすがに N 先生の見るところは鋭い。大物理学者のダイソンといえどもおかしいところはおかしいと言われている。