物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

峠を外国語でどういうか

2021-11-25 13:25:16 | 本と雑誌
あまり峠を外国語でどういうか知らない。ドイツ語でも知らないような気がする。der Passであったような気がした。いま辞書を調べたら、パスポートの意味の外に、峠という意味もあった。

ヒマラヤ山脈の登山の本を読んでいてだったかで、コルという言葉を聞いたことがあるような気がする。colだったろうか。いま英和辞典を引いて見るとこの語は「峰と峰の間の鞍部」という意味らしい。では英語で峠はどういうのだろうか。

英語でもpassは山道とか峠という意味があるらしい。この語については前にもこのブログに書いたことがあるかもしれない。

(2024.4.1付記)ハングルでは峠はいつかのブログでも書いたが、アリランである。これはアリランとかいう歌があるとこのブログで書いた。


行列の積の導入は歴史的にどうなされたか

2021-11-25 12:14:20 | 数学
行列の積の導入は歴史的にどうなされたかに関心をもっている。ところが私の持っている数学史の本はこういう経過について書いた本が1冊もなかった。

それで昨日県立図書館に行ったときに、メルツバッハとボイヤーの『数学の歴史』II (朝倉書店)を借りて帰った。それのケイリーの項に行列の積の演算が1次変換を2回行ったことから導入したことを知った。

1次変換を2回行うことから、行列の積を導入することは、実は私は大学の教養部の数学『代数学と幾何学』の講義で知ったことでもあった。だが、実際に光藤教授がその計算を行ったときには面倒なことをするなとその教育的な意味を理解しなかった。

行列の積がどういうふうに導入されたかと疑問に思い出したのはその講義がなされてから、何十年も経ってからであった。

そのときに、ようやくその当時のテクスト、矢野健太郎『代数学と幾何学』(裳華房)を取り出してきて1次変換をつづけて2回することから導入されたことを知った。

その動機をもっていたから、雑誌「数学セミナー」で、ある数学者がこの行列の積の定義についてちょっと私には形式的と思われるを回答していたことから、私の理解している導入のしかたを「数学・物理通信」に書いた(注)。

だが、これが歴史的に始めてされた導入のしかただったのかどうかは確信がなかった。それがボイヤーたちの書で示されていたことを知った。

いまではむしろ行列の積の導入は内積と同様に導入するのが、わかりやすいかもしれない。多くの線形代数の書ではそういう導入をされているであろう。

教育的にはそれでいいと思うが、歴史的ないきさつを知っておくことはいいことであろう。

(注)「数学・物理通信」で検索すれば、すぐに名古屋大学の谷村さんのサイトに行きつく。ここには「数学・物理通信」のすべてのバックナンバーがある。

アリラン

2021-11-25 11:23:27 | 本と雑誌
先刻、車で移動していたときに、ラジオからアリランという語が聞こえてきた。

アリランは韓国・北朝鮮とかに関係した言葉であろうが、妻も私も意味を知らなかった。それで妻がすぐに自分のスマホで検索をしてみたら、ハングルで峠という意味だった。

そういえば、日本語訳では「アリラン峠を越えて行く」という歌があるはずだ。

そういう言葉の意味を知らないことが多い。これはもう一昨日のことだが、朝食後に妻がアルデバランって何だろうとつぶやいていたので、「星のことではないの?」と答えた。その後、やはりスマホで調べた妻が牡牛座の星だとか言っていた。

星のことはあまり知らない。それで2回目の大学1年生のときに同級生となった、星などに詳しい Y 君とはそういうことで仲良くなった。まさに私の欠けていた分野に関心を持った男だった。なかなか個性の強い人ではあったが。

 Y 君からあまり感化は受けなかったが、それでも Y 君から星のことを聞いたりした、夜空にひときわ明るく輝く星があるので、あれは何だろうというと、シリウスだろうと教えてくれた。マイナス一等星だとかも教えてくれた。

その後になって、知った星の名前というとオリオン座とかそのオリオン座の中のリゲルだとか、ペテルギウスとかである。これはプラネタリウムで知った星の名前である。

まだ数歳のころだが、朝鮮に住んでいたころ、親戚の家から帰宅の途中で見た星は多分オリオンの三ツ星であったろう。これは父に抱かれて自宅に帰る10分くらいの間に夜空に見た星座の星であった。

これはいまの韓国のチネ(鎮海)での経験である。理由があって、敗戦の半年前くらいに 生地の I 市に帰って来たのだが、それからまもなくアメリカ軍の空襲を受けるという経験をした。

1945年の敗戦を迎える月の数か月前の5月にようやく一月遅れで幼稚園に入ったのだが、あまりなじみができないうちに、たびたびの空襲とかその後の焼夷爆弾の攻撃で I 市は町中が焼け野原となってしまい、幼稚園も焼けてしまったことから、幼稚園の経験は2カ月とは経たないうちに終わってしまった。

それでも小学校に入ったときには幼稚園でみかけていた子を数人は知っていた。よく知っているというほどではなく、顔を覚えているという程度ではあったが。