若い学生ならこれらを学ぶのは当然と言えるかもしれない。
だが私はすでに人生の大部分をすぎている。ではなぜこれらの学問を学ぶのだろうか。これに対する明確な答えは私にはない。
キリスト教を信仰している人たちは神々のつくり賜った自然の神秘を真摯に理解したいと終生、学問に励む人が多いと聞いている。
しかし、私はクリスチャンではない。神を素朴に信仰するというような信念はもっていない。
ではなぜこれらの学問を学ぶことを止めないのだろう。それは自分の知らないこと、わからないことを知りたいと一途に思うからである。
これは若い人だったら、ひょっとしてあるかもしれない立身出世や名誉といった願望のためではない。単に自分の自己満足のためである。
亡くなった池田峰夫先生(京都大学元教授)が「少なくとも学問を学ぶのに自己満足くらいは残らないとね」と言われていたことを思い出す。
私は池田先生の狭い意味の門下生とは言えないが,そういったことを聞く機会が何回かあった。だから池田先生の薫陶を受けた一人とは言えるかもしれない。
また、池田先生からは大学で指導を受けた自分の先生からのはやめの独立の必要性を教わった。
人間というのはある意味で業の深いものである。年をとって日々をおもしろおかしく暮らすのも人生ならば、いつまでも尽きぬ旅路を行くといった人生もある。
定年を過ぎて学問など捨てたという友がいる一方で、それに執着する自分がいる。若いときの学び方が足らなかったせいだろうか。