私の好きな遠山啓も武谷三男も学校嫌いである。その二人とも大学の先生をしていたというのもおかしいが、学校嫌いが独自な考えをもち、オリジナルなことをするのが面白いと思う。
遠山啓は水道方式で知られた数学教育の専門家である。もともと数学者だが、狭い意味の数学者では収まらなかったし、そのエッセイがいい。特に、岩波新書「無限と連続」はいい。
これを読んだのは大学2年から3年になる春休みで私の出た高校から私の在学していた大学に数人の受験生があってそれを世話した後でインフルエンザにかかって2週間寝床に就いたときであった。そのときの暇に読み通したと思う。
「数学入門」もいいが、この下巻を読み通したのは定年になってからのごく最近のことである。上巻は以前にも読んでいたと思う。
武谷はやはり岩波新書「物理学入門」で親しんだが、こちらの方はまだ完全に通読したことはない。でもはじめの「科学とはなにか」のところは他に類書がないと思う。これは主に科学の認識を考えているので本当にオリジナルである。武谷の本はたくさん読んでいるが、熟読したことはあまりない。
むし素粒子グループ若手の夏の学校で当時立教大学教授だった町田さんが武谷の核力のポテンシャルのしっぽ(すなわち、核子同士が遠いとき)のところで力が小さいから摂動論が使えるという解説をしてくれたときにその考えの適切さに感心した。もっともこれは町田流の解釈が入っているのかもしれないが、その話の簡明さに感心をした。
私は学校嫌いとまではいかなかったが、それでも独学の気がある。というのは学校では物がわかったということがあまりないからである。どうも理解力がないというか頭が鈍いのでヒトがすっとわかるところがわからない。始まりのところでひっかってしまう。
ちょっと思い出したことだが、一時アメリカでコンピュータ関係の新しい概念を提唱するヒトにはヨーロッパ出身のヒトが多いといわれていた。このころはどうか知らないが、そういう時代が確かにあった。それはヨーロッパで育ったヒトのもっている何らかの教養が役立っているのではないかといわれたものだ。
遠山とか武谷とかの学校嫌いは単に学校嫌いだったわけではなく、その間に文学とか音楽とかその他いろいろな教養を身につけていたということだろう。それがヒトになんらかの感銘を与えるもとになっているのだと思う。