人の個性はいろいろである。二男は人に難しいことをやさしく教えるのを得意としている。以前彼がある団体に属していたときにパソコンの手ほどきをかなり多くの人にしたらしい。インターネットである人と付き合いができたときに二男にパソコンについて習ったということがわかった。
そしてその人が「教え方が上手だね」とほめたらしい。そしたら、「自分の父は学校の先生なんだよ」と答えたとその人から聞いた。しかし、これは二男の謙遜で私は人にものを教えるのが下手である。だから教えるのが上手なのは彼の母からの遺伝かまたは彼の自身の工夫の才によるものであって、私のせいではない。
小さいときから器用で、長男が不器用なのと対照的であった。また、パソコンのマニュアルを読んだりしてそれを理解するのに長じている。こういうことは私のまったく不得意するところである。ところがこういうことを彼はまったく苦にしない。もっとも小説を読んだり、長いテキストを読んだりする根気には恵まれていないかもしれない。
長男はもっとも不器用は不器用なりにそれはそれで個性で長男には他のまねができない個性がある。長男の方は長い本をじっくりと読んでそれを短い話に要約して話すことができた。理解力が優れているのだろう。こういうことも私の不得意とするところである。彼は中学の頃から経済学の本や何かを2,3冊平行して読み、一つの本を読むのに飽きたら、別の本を読むという習慣を身につけていた。わたしが一時に一つのことしかできないのと対照的である。
彼らが小さいときに町内でバスを仕立てて、年に1回スケートアリーナにスケートに行くのが年中行事の一つだった。私は大学の頃に授業をさぼってスケートに何回か行ったことがあったのでいつも彼らの引率をした。
二男は身が軽く敏捷で見よう見真似でバランスをとってスケートをすべることがすぐできるようになった。一方、長男はうまくバランスがとれないので、転げてばかりですべることができない。それで私が歩き方から教えた。はじめは歩くこともできなかったが、基本を教えたので歩くことだけではなくオーソドックスにすべることができるようになった。一方、二男はすべるのは普通の子どものようにできるが、正統的とはいいがたかった。
これはどちらがよくてどちらが悪いという話ではないが、もちろん正統的には右足と左足に交互に体の重心を完全に乗せることができなければ、スケートにはならない。
だから、二男だって正式に歩き方から習って、片足ずつに重心をおきながら、すべることを覚えなければならない。でもそれは正式にということであり、子どもが遊びで年に数回アリーナに行ってすべるくらいなら、どちらでもいいのだ。要はスケートですべって楽しむことだから。