物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

IT企業に勤める人

2015-02-17 12:53:11 | 日記
一般にIT企業に勤める人をたくさん知っているわけではない。数人しか個人的には知らない。

しかし、身内にもいわゆるIT企業に勤める者もいる。無料塾で中学校の生徒を教えている K 君は情報工学科の大学院の学生らしいが、職が決まっていないという。IT企業なら身内が勤めているけれどもと言ったら、数年前に3年ほどIT企業に勤めていて、仕事が厳しくて辞めて大学院に入ったらしい。

そういうことだとIT企業の辛さはわかっているので、そういう企業には勤めたくないという気もわかる。問題はIT企業であってもあまり残業をしなくて済むようでなくてはならないだろう。

とはいっても身内の者は以前は家に8時過ぎには帰ることができていたが、このごろは帰宅が午後10時を過ぎるようだから、結構つらい仕事である。

もっとも新卒を雇用しようとして毎年数人の内定を出すそうだが、中小企業には来てくれなくて結局自分が働かなくてはならないということらしい。また会議は午後6時を過ぎて始まるとも聞いたことがある。

別の身内の者だが、経営者の社長の考えに共鳴して、大企業から小企業に転職した。もちろん給料は半減したが、それでも人間関係がよくて、まわりの人が自分にも気を使ってくれるので気に入って働いているというケースもある。

これはちょっとした伝聞にしかすぎないのだが、知人の息子さんもIT企業の正社員になったのだが、あまりの仕事の過酷さにその正社員を辞めて非正規社員として働いているという話もある。もっともこの人は幸福な結婚もして家庭生活は幸せらしい。

ちょっとこれらの伝聞ではいいこととか悪いこととかがごちゃまぜである。もしIT企業の経営者が自分の会社を発展させようと思うともちろん仕事の納期を守らなければならないという辛いこともあるのだが、社員の十分なケアが必要とされるであろう。もしそうでなくて単にこき使うということであるならば、早晩その企業は行き詰まるであろう。












white exemption

2015-02-17 12:34:57 | 日記
white exemptionとは何か。whiteはホワイトカラーのことだろうか。exemptionとは免除だと英和辞書にある。

これは最近議論されている、ある特別職の勤務において残業代を払わないことにしたいという現在国会に提出が予想されている法律と関係がある。こんなことが許される嫌な時代になったものだ。

これは経営者には都合がいいかもしれないが、勤め人には嫌だとも言えないということでもあろうか。そうではなくても会社は最近では社員の独創性でもある特許も会社の所有権として社員に特別な報償金も払わないつもりだという。

ノーベル物理学賞を昨年末にとった中村修二氏がもとの勤め先であった日亜化学を相手に裁判に持ち込んだことは有名である。青色発光ダイオードの特許の核心をつくった人でもあり、会社に莫大な利益をもたらしたはずの人でも数億円のお金で手を打たざるを得なかった。

こういうこともだが、勤務時間によってではなく、成果で給料が決まるといったら、それでなくても会社勤めの人たちは会社のために24時間働いているようなものだから、それをなくしたら労働時間の歯止めがなくなるのではないか。

それくらいのことを賢明なる日本の経営者は労働者がもし賛成したとしても賛成すべきではなかろう。賛成しないことが結局自分の会社の利益になるという、ゆとりと自信を経営者がもう持てなくなっているということだろう。

日本がこんなに視野の狭い経営者ばかりになっているとすれば、もう日本の将来など高が知れているといってもよかろう。

量子力学のノート編集

2015-02-16 12:51:49 | 日記
私の先生である、小川修三の「量子力学の講義ノート」を「素粒子研究」電子版に投稿しようと入力をしているのだが、途中で作業がパタッと止まっている。

いま不確定性関係のところなのだが、この記述があまりわかりやすくはない。編集者としては黙ってここを分かりやすく書き変えたいと思ったのが、仕事が止まってしまった理由である。

もう作業が止まってから1か月以上になる。誰か近くに相談できる人がいれば相談するのだが、パソコン入力の作業は私の勝手にやっている作業なので、誰にも相談することができない。

それでおいてあったのだが、最近これはこれでそのままにしておくべきかと思い出した。そして、その点については編集者の注を付けておくべきだと思うようになった。

大体私は我の強い方で、先生の書いたノートといえどもあまりわかりやすくなければ、わかりやすいものに書き変えておくのがいいのではないかと思ったのだが、私には不満でも、そのままにしておくのもいいかもしれないと思えるようになった(注)。

小川夫人には年賀状で4月には一部を発表しますと書いたのだが、なかなかそうはいかない事情が私にある。

(注)大体、大学に勤める研究者というものは研究が一番の主眼であろう。だから講義ノートの細かな部分まで深く検討する時間がないのが普通である。だから、部分的に不十分なところがあってもしかたがない。その辺が研究者というよりは教育者としての気質の強い私などとは違っていてもしかたがない。

それでも何か新しいことを発見した研究者は教育においても何かしらいい点があると思っている。それが小川さんの量子力学の講義ノートを編集しようと思った動機である。

カーニバル

2015-02-16 12:15:43 | 日記
今日、2月16日(月)はドイツではバラの月曜日Rosenmontagと言われて今日からカーニバルが始まる。明日はファスナハトFastnacht,明後日は灰の水曜日Aschermittwochと言われている。

カーニバルの行われるのはドイツでもカソリックの信じられているところだけである。マインツ、ケルン、デュセルドルフのライン河沿岸の3都市が特にカーニバルのお祭りで有名である。北半球では真冬のカーニバルであるが、南半球のブラジルでは真夏のカーニバルである。

今年はNHKのテレビでリオのカーニバルに踊り子として出場する日本人の女性のことが放映されていた。なんでも神戸市の出身だとかである。

今年で6回目のリオのカーニバルの出演だとか言っていた。彼女はダイエットならぬ、ブラジル人の女性の体格に引けを取らないように一生懸命に食物を食べている(一日に6回食事をとる)とか浜辺に出かけて肌を小麦色に焦がすとかの努力をしている。

ブラジルに限ったことではないと思うが、色が白いことは誉められたことではない。日本では小麦色の肌だと女性は気にするが、ヨーロッパでは白い肌の女性はバカンスに出かけて肌が小麦色になることはとても誇らしいことである。もっとも2週間もかけて見事に焼けた肌も1週間も経てば、元の白さにもどってしまう。

ドイツで経験したことである。マインツ大学の物理学科の秘書のHolly嬢は折角ポルトガルの海岸で肌が焼けてきたときはとても誇らしげであったが、1週間もすると元の白さに還ってしまった。

これは9月にインドから来た肌が真っ黒の物理学者だが、ドイツの冬の日の光の乏しさで真っ白とはさすがにならなかったが、それでも真っ黒だったのが、白さが目立つようになって、日本人としては色黒の私とあまり差がなくなってしまったのはびっくりした。たぶん私も陽の光の乏しさのためにいつもより白くなっていただろう。

記録は風化するが・・・

2015-02-14 12:21:01 | 日記
「記録は風化するが、記憶は風化しない」とかこんなことを言われたら、誰でもドキッとする。

NHKのEテレで放映されていた岩井俊二の「ムビー・ラボMovie Labo」が一昨日終わった。はじめの数回は見なかったが、最近は見るようにしていた。

一昨日の最後の放映のときにゲストの一人の大林宣彦監督が言われていたのが、冒頭の言葉である。これにはドキッとした。なかなか印象的なこういう文句を口にする人はあまりいない。

もっともよく言葉を吟味してみると「記録は風化しないが、記憶は風化する」と言い直した方が本当は正しいだろう。
だが、そういっても誰もドキッとはしない。多分大林流のユーモアなんだろう。

本当は「記録を風化させるのは人間であって、その風化はやはり記憶と関係がある」とか、そのような道理を言っても誰もドキッとしない。そこを計算した発言であった。

大林監督は私の生まれ故郷の I 市の瀬戸内海を挟んで反対側にある尾道市の出身の映画監督である。それでということもないのだが、大林監督には親しみを覚えている。

それに私は映画としては「転校生」しか見たことがないような気がするが、印象的な映画をつくる監督として知られており、「ムビー・ラボMovie Labo」でもゲストして別格の存在のような感じだった。

尾道は私の大学の同級生だった Y 君の出身地だった。彼は若くして亡くなったが、同じ年に大学の同じ研究室に入った3人の中でまだ生き残っているのは私だけである。もう一人の H 君などは私よりは長生きするかと思っていたのだが、先年事故のために亡くなった。

(注)昨日の朝日新聞か今日の朝日新聞かは覚えていないが、このmovie laboの放映が終わったと出ていた。どうも朝日新聞の記事と重なることが多いが、これは私と朝日新聞の記者とがお互いに独立に記事を書いているからであろう。いつだったかもワイツゼッカー元大統領のことを書いた次の日に天声人語で取り上げられていた。もっとも内容は天声人語のほうが詳しかった。movie laboのことではとりあげた内容は違っていた。朝日新聞の名誉のために付言しておく。


本音と建前

2015-02-13 12:40:08 | 日記
本音と建前とは生粋の日本語であろう。そこら辺が多分欧米人と日本人の大きな違いかもしれない。本来は建前がすなわち本音でもあるはずなのに建前と本音がちがっていることが日本では多い。

さて、この違い云々といったことを哲学的に議論したいのではない。英語でこれらをどう表現するかということである。これは適訳かどうかは知らないが、どこかで私が見た例である。

本音はreal intentionと訳されていたように思う。もう一方の建前はもちろんprincipleであった。本音のほうのreal intentinonをもう一度日本語に訳しなおすと「本当の意図」とか「本当の気持ち」とでもなろうか。principleの方は原理とか、原則とでもなろうか。

またまたつまらないことを書いてしまった。

2015-02-13 11:29:37 | 日記
体と書くと身体のことかと普通の人は思うだろうが、そうではない。

数学では数の計算はたし算と引き算と掛け算と割り算ができる。このときにしたがう法則はあまり小学校の算数では意識をされていないが、足し算と掛け算において、交換則、結合則と分配則が成り立っている。

a+b=b+a
ab=ba

この二つが交換則と言われるものである。

a+(b+c)=(a+b)+c
a(bc)=(ab)c

これが結合則と言われるものである。

なお、分配則は

a(b+c)=ab+ac

である。

高校でこういう法則にしたがって数の計算がされていると教わったが、別にそれをそれまで規則とは意識したことがなかったので、なんでこんなことをわざわざ教えるのかと疑問に思った。

大学でベクトル代数を学び、ベクトルのベクトル積では積の順序を交換したときに負号がつき、また行列(マトリックス)のかけ算では一般に積の交換則は成り立たないなどのことを知ってようやくこの3つの法則に意味があることがわかった。

さらに量子力学では粒子の位置座標と運動量とを演算子と考えるともはやこれらの量の積は交換しない。ちょっとこの画面上での表示では制限があるが、xp-px=ih/(2\pi)となる。ここで、\piは円周率パイであり、hはプランク定数という小さい数値の定数である。x,pはそれぞれ粒子位置と運動量を表す演算子である。座標空間をとると運動量pは位置座標xの微分演算子で表される。このときはすぐに微分を知っている人にはこの積の順序が交換しないことを示すことができる。

最近私の関心をもったのは四元数であったが、この四元数が多分歴史上はじめて、交換則の破れた数であることであることを知った。それでというわけではないのだが、昨年の10月の初めには『四元数の発見』という本まで上梓することになった。

以前のこのブログの前身のphysicomathで数のかけ算では掛け算の順序は問題でないということについてちょっとした論争があった。私は教育において、掛け算の意味を教えながらのかけ算の導入に賛成したが、かけ算での交換則が成り立つのだから、そういうことはおかしいという主張の方にいろいろ言われたが、あくまで教える過程の一部としていったのであるが、どうもご理解は頂けなかった。

もちろん、教え方の方法として別の考え方ができることは当然である。たとえば「トランプ配り」と言われる方法で考えるときは掛け算の積の順序が変わるのだと言われている。演算といえども意味なしには成り立たない。もちろん抽象化された単なる数となれば、そのときには意味の云々なしに積の順序を入れ替えても構わないのはもちろんである。

まったく掛け算の順序というような話を書く気がなかったのにつまらないことを書いてしまった。かけ算の順序うんぬんについての不毛な論争には係りたくないのが本音である。

21世紀の資本2

2015-02-12 11:44:48 | 日記
トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)は日本語訳が13万部も売れたという。アメリカでは100万部とか世界全体では150万部が売れたというベストセラーである。

日本でも5400円の定価である。もし定価が5000円として印税が8%であったとして、5200万円という途方もない額となる。このうちの著者に払う額がどれくらいであるかはわからないが、半分として2600万円がピケティさんに入ったとする。

その半分が訳者に入ったとするとやはり3人の著者に2600万円が入ることになる。それを3人で等分に分けると870万円くらいが入ることになる。

こんなに一時的な所得があると所得税も大変なことになるので、訳者としては本が売れることは喜ぶべきことではあろうが、そこそこであるのが望ましいなどと考えておられるかどうか。ともかく翻訳を出したみすず書房にとっては久々のヒットではあるだろう。

私の友人というか知人にもこの翻訳書を購入して読んでいるという人がいる。私にはもともと読む気などないので、その人が読んだら、雑談会で要点を話してと頼んでいるが、さてはてどうなるか。

虹のアーチを・・・

2015-02-10 14:27:58 | 日記
昨夕、帰宅したら食卓のテーブルに西條敏美さんの著者『虹の科学』(太郎次郎社エディタス)の新刊本が届いていた。その本の表紙には「虹のアーチをくぐれるか?」という問いがついていた。

これは西條先生の本を読むまでもなく、経験としてくぐれないことを私は知っている。これはもう40年近くも昔のことになったが、このころドイツに滞在しており、そろそろ帰国のことを考えなければならない時期であった。これは2月であったろうか。

フランスにあまり行ったことがなかったので、車でパリを中心としたフランスに一家で出かけたことがある。その旅も終わりごろになって、そのときにフランスのオートルートAuto route(高速道路)をドイツに向けて車で走っていたとき前方に大きな虹が見えた。

車はどんどん時速100キロを越えるスピードで走っていたので、あの虹の下をくぐれるのだろうかというロマンティックな考えが私たちみんなに起こってきた。それでどんどんドイツとの国境に向けて進んで行ったのだが虹のアーチの下をくぐれるというような経験はできず、いつか虹を見ることはできなくなった。

そのときはもう夕方に近かったと思う。それで私たちは頭の中では多分あの虹のアーチの下をくぐりぬけたんだろうとは想像はしたが、それは想像であって、普通に河にかかった橋の下を船で通過するというような経験はできなかった。

あのころ4歳と6歳だった子どもたちももう40歳代の中年になってしまった。妻と私にはいまでも懐かしい思い出であり、かつ貴重な体験であったが、その当時は小さかった子どもたちは今でも覚えているのであろうか。いつか聞いてみたいと思っている。

虹のアーチの下をくぐれないことは西條先生の本の中にわかりやすく説明がされている。


形而上学

2015-02-09 11:45:43 | 日記
形而上学といわれてすぐわかるようなら、あなたはよほどの哲学通であろう。

私は形而上学といわれてもそれが何をさすのかあまりはっきりしなかった。形式論理学的な思考方法であり、これは弁証法的な思考ならなんでも流動的に考えて固定的には考えないという考えと対立した概念であるというくらいのことしか知らなかった。

もう半世紀も前の昔のことになるが、大学院の英語の試験でmetaphysicsという語が出て来て、物理学専攻の私たちの多くがmetaphysicsをメタ物理学と訳したという話があった。私はたまたま形而上学という用語を知っており、その用語を使って訳をつけたのを覚えている。しかし、多くの私の同級生にとってmetaphysicsはメタ物理というのがせいぜいであった。

朝食後のその話になったら、妻が早速スマホで調べていたが、なんだか難しい説明でよくわからなかった。それで思いついて武谷三男の『物理学入門』(季節社)に収録された『自然科学辞典』の武谷の書いた項の説明に形而上学がないかを調べた。

(引用はじめ)アリストレスにおいて、現象についての学は形而下すなわち経験的な対象を扱うものとして、これを物理学と名づけられた。そしてその後ろに来るものとして、実在の学として、形而上すなわち超経験的な対象を扱うものとした。すなわち超経験的対象の学である。(中略)

対象を個々の部分へ分解し、それらの連関、発展変化を無視してとらえることであった。これは一面において有効であるが、それをその限界外にまでひろげ固定化してしまうとき間違いがあらわれる。すなわち形而上学的思惟方法とは、固定化し絶対化する考え方である。(引用おわり)

形而上学的な考えとは弁証的な考えに対するものであると思われる。弁証法についても『物理学入門』(季節社)から一部を引用しておく。

(引用はじめ) 古代ギリシャにおいて論争の方法として、相手の判断のうちの矛盾を明らかにしてこれを克服する術のことを呼んだ。後(で)弁証法は一般的連関と発展に関する学説となった。すなわち現象を運動、変化するものとして捉え、自然の発展を自然の矛盾によるものとする。(後略)(引用おわり)

きらめく知性・精神の自由

2015-02-09 10:43:52 | 日記
『きらめく知性・精神の自由』(桐書房)は約40年間もの長い間、都立戸山高校の数学教師だったが武藤 徹さんが2013年に出されたパンフレットである。

その出版記念シンポジウムが2月7日午後3時から6時まで新宿の早稲田奉仕園スコットホールであった。私はインターネットで武藤先生と数年前からおつきあいができていたので、上京してこのシンポジウムに出席した。

このシンポは2003年に東京都の教育委員会が日の丸・君が代を強制した10.23通達を出したということに対して元戸山高校の数学教師だった武藤先生がそれを憂慮したパンフレットを出版したことを記念して、遅ればせながら戸山高校の卒業生たちが出版記念という体裁をとりながら、その風潮に反対する集会であった。

ゲスト・スピーカーは市川須美子と浜矩子さんであった。この2人の講演の後に参加者から5分間のスピーチが15人ほどあった。いずれもなかなか示唆に富んだ問題提起や行動の報告でもあり、なかなかきびきびしたものでもあった。

ゲスト・スピーカーの一人の講演の内容が私の気に入らなかったが、そのことは一応おいておく。

シンポが始まる前に武藤さんにはじめてお会いして10分か15分の話ができた。やさしい中に厳しさをもった方とお見受けした。卒業生の方々の尊敬を一身に集めておられるのがわかるような気がする。

卒業生ではない方々で労働運動をしておられる方とか父母の会で33年間も学習会を一緒にされてこられた方の発言は生き生きとしたものであり、先生の活動の一端を知ることができた。

私は懇親会には参加せず会の後は先生にはあいさつもせずに黙って失礼をした。武藤先生によれば、このシンポのためにほぼ30人の実行委員が協力されたと聞いた。参加者数は200人を越えるものであり、収容定員200人といわれる会場には人ひとであふれていた。


ドイツ語圏とその文化1-4

2015-02-06 11:47:16 | 日記
まだ写真の準備ができてはいないが、「ドイツ語圏とその文化」1-4の文章の用意がほぼできた。

どういう内容か。項目を挙げておこう。

1)数式の読み方 (初等数学の式をドイツ語でどういうか)
2)ローテンブルク(有名なドイツロマンティック街道の町である)
3)ワイツゼッカー元大統領の死 (「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という講演で 有名だった元大統領)
4)おじいちゃんの里帰り (トルコ系ドイツ人2世の監督の映画、トルコ系外国人労働者の家族の物語)
5)ギリシャのワイン (ウード・ユルゲンスの歌の紹介、昨年末に彼が80歳で死去)
6)読者からの手紙

等である。

共同編集者のR氏に昨日送ったら、興味深い(sehr interessant)との返事が来た。彼にはドイツ語を中心にしてみても

らうことにしている。自画自賛ながらなかなか話題豊富だと思っている。もっともこの、「ドイツ語圏とその文化」は限られた方のところにしか届いてはいない。

これは、私の知っている人にだけメールで配布しているサーキュラーであるから。

昨日は疲れた

2015-02-05 11:52:46 | 日記
別に大したことを昨日したわけではない。ただ、「ドイツ語圏とその文化」1巻4号の原稿をつくっている途中の作業をしただけである。

最近、ドイツのワイツゼッカー元大統領が亡くなった記事とか、最近見た映画「おじいちゃんの里帰り」やBayernの町として有名なロテンブルクの紹介その他の入力に明け暮れた。その途中には昨年88歳で亡くなった S 先生を偲ぶ会を4月にする会場の探索と予約に友人と行った。

それは14時から15時過ぎまでで後はひたすら、「ドイツ語圏とその文化」1巻4号入力であった。それも原稿ができているわけではないので、その文章とかを綴りながらの入力であった。仕事を中断して家に帰ろうとしたときには軽い眩暈を覚えたほどだった。

もっとも今朝かかりつけの医院に行って血圧を測ったが、126と81とあまり血圧は高くなかった。今年はまだ感じてはいないが、そろそろ花粉症が始まる嫌な季節である。

大いなる誤解

2015-02-04 12:43:11 | 日記
「大いなる誤解」といってもこれは私自身の誤解という意味であって世の人々の誤解という意味ではない。

遠山 啓『数学入門』上、下(岩波新書)は名著であるが、この書のどこかに虚数の存在はカルダノの3次方程式の解によってようやく根拠づけられたとあったと思う。

私はそれは2次方程式の間違いではないのかと思っていた。ところがこの『数学入門』は初版では多くのミスプリントがあったが、最新の版を見ると少なくとも初版に私が見つけていたミスプリントはなくなっていた。

ところが、虚数が存在する理由を説明したこの箇所だけは3次方程式となっていて、2次方程式とは修正されていない。それでこれはミスプリントが残っている例だと思っていた。

ところがこれは私の誤解であって、やはりカルダノの3次方程式の解にいたって虚数の存在が疑いのないものになったことを知った。

詳しい説明はここではできないが、カルダノの3次方程式の公式では計算の途中で虚数単位 i が出てくる例があるが、最後には解は実数となることがある。

確かに、2次方程式においても虚数の存在を認めないと解なしという場合が出てくるけれども、解を実数に限定してそれ以外の解は認めないという立場はありうるが、3次方程式では実数の解に限っても途中で虚数が出てくるとなれば、確かに虚数の存在を認めければならないだろう。

このことを遠山さんの『数学入門』には書いてあるのだ。このことはすでに2回はこの書の上巻を読んだことがあるので、頭に残ってもよかったはずだのに、頭には残っていなかった。これに関した詳細なエッセイをいずれ書くつもりである。

このブログでも天才物理学者といわれたファインマンがギリシャで小学校生相手だかに講演したときに、ギリシャの幾何学が最高の学問だということでギリシャの子どもたちが、委縮していると聞いて、ヨーロッパの科学の最高の成果はカルダノの3次方程式の解であり、ギリシャで発展したユークリッド幾何学ではないといったと書いた。

そのときに私はカルダノの3次方程式の解がヨーロッパにおける最高の成果だということに疑問を呈した。しかし、やはり虚数の存在を確かにしたものととして3次方程式の解があるなら、これはファインマンの主張に賛成せざるを得ないであろう。

このことを私は自分の浅薄さために理解できなかったらしい。

「文庫解説を読む」から

2015-02-03 12:10:34 | 日記
岩波書店のPR誌『図書』に連載の斎藤美奈子さんの「文庫解説を読む」を楽しく読んでいる。

このブログでも少なくとも2回はその話題をとりあげさせてもらった。先回は「何となくクリスタル」がまるで資本論と同じだという高橋源一郎さんの文庫解説の衝撃の話だった。

ところがこの高橋解説の前にもそれと同じような解説をした人がいたという前例のご披露である。

こちらも文庫本であるが、岩波文庫に収録されている、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』につけられた丸山眞男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」だという。

これは普通の意味での文庫解説ではない。吉野源三郎が亡くなったときに丸山眞男は日本にいなかったために彼の葬儀には参列できなかったが、雑誌『世界』の吉野源三郎の追悼号に吉野さんを追悼して書いた文章が「・・・をめぐる回想」だという。それを知っていた岩波書店が岩波文庫への収録に際して解説代わりに使った。

斎藤美奈子さんを引用しておこう。

(引用はじめ)丸山が<まさしく「資本論入門」ではないか>と驚嘆したのは「ニュートンの林檎と粉ミルク」と題された第三章。そこでコペル君は、自分が赤ん坊の頃に飲んだ粉ミルクがオーストラリアから海を越えて自分のもとに届くまでの大勢の人を介していることに思い至り、この発見を「人間分子の関係・網目法則」と名づけた。これを受けた「おじさんのノート」では<君が気がついた「人間分子の関係」というのは学者たちが「生産関係」と呼んでいるものなんだよ>と語られている。で、丸山の解説は・・・。

<私はそのころまでに、すでに『資本論』について大学生なりの知識をもっていました。(略)にもかかわらず、いや、それだけにでしょうか、中学一年生の懸命の「発見」を出発点として、商品生産関係の仕組みへとコペル君をみちびいてゆく筆致の鮮やかさに唖然としたのです> (中略)<あくまでコペル君のごく身近に転がっている、ありふれた事物の観察とその経験から出発し、「ありふれた」ように見えることが、いかにありふれた見聞の次元に属さない、複雑な社会関係とその法則の具象化であるか、ということを十四歳の少年に得心させてゆくわけです>。そして丸山もダメを押すのだ。<一個の商品のなかに、全生産関係がいわば「封じ込められ」ている、という命題からはじまる資本論の著名な書き出しも、実質的には同じことを言おうとしております>(引用おわり)

この後には斎藤さんは、岩波文庫の『資本論』の向坂逸郎の解説に話が及ぶが、それらに関心のある方々はそれぞれの文庫本に触れて頂くことにしてここでは割愛しよう。これらを斎藤さんは一流の知識人の「脱線芸」だと述べている。

それにしてもびっくりしたなあ。高橋源一郎の『なんとなくクリスタル』の文庫解説にはその前に手本になった文庫解説があったとは。

(注)実は私はこの『君たちはどう生きるか』を全体を通して読んだことはない。だが、中学校の国語のテキストにその一部が収録されていたので、一部を読んだことがある。私の子どもがこの文庫本『君たちはどう生きるか』を購入しており、それはいま私の手元にあるので、いつか読んでみたい。

なお、向坂訳の『資本論』(岩波文庫)は子どもが中学生のころ何度も読んだらしいが、結局はわからなかったといっていた。日本語の訳よりもドイツ語の原文で読んだ方がまだわかりやすいと聞いているが、私にはたぶん読む機会はないだろう。